藤原為兼大納言入道という人がいたそうです。
鎌倉時代後期の人で、京極為兼(1254~1332)ともいうそうです。藤原氏は鎌倉に入ってから、どんどんと分家していくというのか、生き延びるために新たなフィールドを探していったんでしょう。
為兼さんは歌人としても活躍したそうです。藤原定家の孫・為教(ためのり)の子どもさんだそうで(定家さんのひ孫になりますね)、こちらの家は短歌を先鋭化させたらしい。
『新古今集』をまとめあげた定家さんの子孫は、二条家・冷泉家・京極家の三家に分裂していて、それぞれ歌道の家として栄えていたそうです。でも、どこが覇権を取るのか、歌道においても静かな戦いがあったんでしょう。冷泉家は同志社の今出川のところにあるお家ですね。
二条家と歌道の主導権を争い、革新的な歌風を樹立して、『玉葉集』の編集もしたということになっています。お家芸を磨くことがここの人たちの生きる道でした。
政治においては持明院統に属し、佐渡と土佐に流されたことがあるそうです。 この話は、後者の土佐流罪の時で、1315年、為兼さんが62歳のおりの事件にあたるそうです。
為兼さんの経歴を追いかけましたが、わからないことが多すぎです。どうして佐渡や土佐に流されることになったのか。どうしてそういう人を資朝さんは見ていたのか。それらは次回に書きたいと思います。
そうした疑問はとりあえず置いておいて、「徒然草」を見てみましょうか。
第153段 為兼大納言入道、召し捕られて
為兼大納言入道(ためかねだいなごんにゅうどう)、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率(い)て行きければ、
為兼大納言入道(ためかねだいなごんにゅうどう)、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率(い)て行きければ、
為兼さんという方は、大納言にまでなられた方でした。その方が、幕府に捕らえられ、武士たちに六波羅まで連れて行かれるところを、あの日野資朝さんがご覧になったそうです。
資朝卿(すけともきょう)、一条わたりにてこれを見て、
「あな羨(うらや)まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。
「あな羨(うらや)まし。世にあらん思い出、かくこそあらまほしけれ」とぞ言はれける。
京都の北の方・一条あたりでご覧になったとか(この時の資朝さんはどんな格好でおられたのやら。ひょっとして京都の市民に紛れ込んでいたのかどうか、それとも兼好さんと一緒にいた? まさか、伝聞の「けれ」ですから、直接聞いたんではないでしょうけど)……。
すると、資朝さんはこう発言されたというのです。
「ああ、うらやましいもんだ。この世に生きている者としては、ああして反逆罪を問われて捕まるということくらいしてみたいもんだ」と。
どこかで聞いた感じの話だなと思っていたら、楚の項羽さんが始皇帝さんの行列を見て、「今に見ていろ、オレもやがてはあんな王様になってやるんだ」というような発言をされた話、あれに少し似ている。
項羽さんは王をめざした。資朝さんは世の中を騒がす男になりたかった(?)。そのあたりは違うけど、二人ともある意味で英雄なのかもしれない。
わからないところはいくつかあります。また、機会を改めて書くことにします。
今日はとりあえず資朝さんの見る目を取り上げました。彼は何が気に入り、兼好さんはどうしてその話を書いたのか。ああ、わかりません。
こんなに暑くて眠れないと、どっちらけになってしまいます。