石垣りんさんは高等小学校を卒業した十四歳の時、銀行に就職することになったそうです。そりゃ、優秀な人だったのでしょう。
1979年のエッセイに、新聞の家庭欄で母親が娘の「巣立つ日の装い」をどうしたらいいのか、というのを投書していたそうです。
当時は、「袴姿の多いのが最近の傾向」ということだったらしいです。
そういえば、ウチの彼女も卒業式は袴にしていましたね。何だか懐かしくなってしまった。彼女は今でも袴とか着たらシャキッとなるでしょうか? まあ、そういう場面がないからなあ。そんなことはどうでもいいから、りんさんの話を聞いてみます。
それは今から四十年以上前(たぶん、りんさんは1934年頃に就職されたのだと思われます)、私が社会へ「巣立った日の装い」とそっくりでした。違うところといえば、着物に肩上げをしていないことぐらいかしら? そうつぶやくことで私は、髪にリボンを結び卒業証書の紙筒を手にしたモデルさんと、働きに出た日の自分の年齢の差をはかっているのでした。肩上げというのは、女子が成長期に着る着物や羽織の肩をほんの少しつまみ縫いをしておく、その部分を呼んだもの。
りんさんはまだ十四歳だったから、着物の肩のところを少しつまんであったということなんですね。それからやがて大人の着物に変わっていかれたんですね。
袴は紺、緑、紫、茶、えんじなどの色があり、材質はサージと呼ばれるウールがほとんどで、新品は仕立て上がりが二万八千円、と紹介されています。貸し衣装では一日四千円ぐらいから、という情報に新しさを感じました。
私が百貨店で買ってもらった袴も材質サージの紺色、値段は十二円ぐらいだったでしょうか。靴が手縫いの注文品で一足七円。当時としてはかなり高価だったのでこれは忘れません。そのころも今におとらぬ就職難でしたから、父は娘の門出を祝って投資してくれたのです。初任給は十八円でした。
1934年頃の一円は、現在の一万円くらいの価値があったでしょうか。それよりももう少し少ないかな? 一円が五千円相当としても七円の靴は三万五千円くらいになるし、かなりお父さんは奮発されたんですね。
親は、子どもの旅立ちとあらば、それはもう奮発しちゃうんですよね。そんなこと滅多にないし、ここぞとばかりにあれこれしてあげなくてはならなくなるみたい。
そんなにして親は子どもの夢をバックアップしてあげる。それがやがてどんなものになるのか、それは本人が決めることだし、親としてはとにかく背中を押してあげる、そういうことなんですね。