日本書紀 巻第二十一 橘豊日天皇 三
・穴穂部皇子の欲望
・三輪君逆の逃亡
夏五月、
穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、
炊屋姫皇后(かしきやひめのきさき)を
犯そうと思い、
自ら強いて殯宮(もがりのみや)に
入ろうとしました。
寵臣の
三輪君逆(みわのきみさかふ)が、
兵衛を喚(よ)び、
宮門を重くとざし、
ふせいで入れませんでした。
穴穂部皇子が問うて、
「何人がここに在るのか」
といいました。
兵衛が答えて、
「三輪君逆が在ります」
といいました。
七たび
「門を開け」
と呼びましたが、
遂に聴き入れませんでした。
ここにおいて、
穴穂部皇子は、
大臣と大連に語って、
「逆は、頻りに無礼である。
殯庭(もばりのみや)で
誄(しのびごと)して、
『朝庭を荒らさず、
清めて鏡の面の如く、
臣が治め、
平らげ仕え奉ります』
といった。
即ち、
これが無礼である。
まさに今、
天皇の子弟は多くいる。
両大臣が侍っている。
誰がほしいままに、
専ら仕え奉ると言うことができようか。
また、
余が、
殯内(もがりのみやのうち)を
見ようとしたら、
拒んで聴き入れなかった。
自ら
『門を開けよ』
と呼んだが、
七回も答えなかった。
願わくは、
斬りたいとおもう」
といいました。
両大臣は、
「命のままに」
といいました。
ここにおいて、
穴穂部皇子は、
ひそかに天下の王となることを謀り、
口にいつわって、
逆君を殺そうとしていました。
遂に、
物部守屋大連
(もののべもりやおおむらじ)
と兵を率いて磐余の池辺を囲みました。
逆君はこれを知って、
三諸丘(みもろのおか)に隠れました。
この日の夜半に、
ひそかに山を出て、
後宮(きさきのみや)に隠れました。
(炊屋姫皇后の別荘をいいます。これを海石榴市宮(つばきいちのみや)と名づけました)
逆の同姓、
白堤(しらつつみ)と
横山(よこやま)とが、
逆君の在る所をつげました。
・穴穂部皇子(あなほべのみこ)
飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇子。母は、蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)。同母兄弟は、茨城皇子、葛城皇子、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)
・三諸丘(みもろのおか)
三輪山
(感想)
(用明天皇元年)
夏5月、
穴穂部皇子は、
炊屋姫皇后(後の推古天皇)を
犯そうと思い、
自ら強引に殯宮(もがりのみや)に
入ろうとしました。
しかし、
先帝の寵臣の三輪君逆(さこう)が、
兵衛を呼び、
宮門を厳重に閉ざし、
防いで入れませんでした。
穴穂部皇子が、
「誰がここにいるのか?」
と問いました。
兵衛が、
「三輪君逆がいます」
と答えました。
七度、
「門を開け!」
と呼びましたが、
遂に聴き入れませんでした。
ここにおいて、
穴穂部皇子は、
大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋に語って、
「逆は、
しばしば無礼だ!
殯庭(もばりのみや)で弔辞をして、
『朝庭を荒らさず、
清めて鏡の面のように、
臣が治め、平らげ仕え奉ります』
といった。
これが無礼だ!
まさに今、
天皇の子弟は多くいる。
両大臣も仕えている。
誰が心のほしいままに、
専ら仕え奉ると言うことが
できるだろうか。
また、
俺が殯内(もがりのみやのうち)を
見ようとしたら、
拒んで聴き入れなかった。
俺自ら
『門を開けよ』
と呼んだが、
七回も答えなかった。
願わくは、
斬りたいとおもう」
といいました。
両大臣は、
「命のままに」
といいました。
ここにおいて、
穴穂部皇子は、
ひそかに天下の王となることを謀り、
口に偽って、
逆君を殺そうとしていました。
何故、
穴穂部皇子が後の推古天皇を
犯そうとしたのか?
好きだったのか?
いや、
文章から彼の性格は、
野心家であることが読み取れます。
そこで、
彼の血統を調べますと、
母が蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)。
血統を重んじる時代ですから、
母親が皇女の兄弟と比べますと
継承権から遠い。
となると、
配偶者が鍵となると
考えたのではないでしょうか
しかし、
無理矢理犯そうとするとは…
天皇には向いていないのでは?
遂に、
物部守屋大連と兵を率いて
磐余の池辺を囲みました。
逆君はこれを知って、
三輪山に隠れました。
この日の夜半に、
密かに山を出て、
後宮(きさきのみや)に隠れました。
しかし、
逆の一族の者、
白堤と横山が、
逆君のいる所を告げました。
先帝の寵臣、逆。
先帝亡き後も
その后を守ろうとする行動は、
まさに忠義を貫いていますね。
しかし、
帝位を狙う穴穂部皇子により
ピンチに立たされてしまいました。
逆の運命はいかに…
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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