日本書紀 巻第二十二 豊御食炊屋姫天皇 三十四
・宴会を催す
・堅塩媛を改装する
二十年春正月七日、
酒を置いて群卿と宴(うたげ)をしました。
この日、
大臣は寿(ことほ)ぎ上(たてまつ)って、
歌いました。
やすみしし 我が大王が
おかくれになる 天の八十蔭(やそかげ)
出で立たす 御空を見れば
万代に こうあってほしい
千代にも こうあってほしい
かしこんで 仕え奉りましょう
拝んで 仕え奉りましょう
歌を献上し奉ります
天皇が和して、
真蘇我(まがそ)よ 蘇我の子らは
馬ならば 日向の駒
太刀なら 呉の真刀
もっともだ 蘇我の子らを
大王が お使いになるもの
二月二十日、
皇太婦人の堅塩媛(きたしひめ)を、
檜隈大陵(ひのくまのおおみさざき)に
改葬しました。
この日、
軽の術(みち)で
誄(しのびごと)しました。
第一に、
阿倍内臣鳥(あへのうちのおみとり)が、
天皇の命を誄しました。
すなわち、
霊に奠(そなえもの)しました。
明器(みけもの)、
明衣(あかはとり)の類いで、
一万五千種です。
第二に、
諸皇子等が、
序列の順で各々誄しました。
第三に、
中臣宮地連烏摩侶
(なかとみのみやどころのむらじおまろ)、
大臣が辞(ことば)を誄しました。
第四に、
大臣が八腹臣(やはらのおみ)等を
引率して、
境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)に、
氏姓の本を誄させました。
時の人は、
「摩理勢・烏摩侶の二人は
りっぱに誄したが、
だた鳥臣の誄だけはよくなかった」
といいました。
・堅塩媛(きたしひめ)
蘇我稲目の娘・欽明天皇の妃・推古天皇の母
・檜隈大陵(ひのくまのおおみさざき)
欽明天皇陵
・明器(みけもの)
=めいき・「神明の器の意」中国で、死者とともに墓に納めた器物。死後の世界で用いるため、日用の器物を木や泥・陶磁などで模したもの
・明衣(あかはとり)
天皇が着用するもの
・誄(しのびごと)
日本古代以来、貴人の死を哀悼し、生前の功績・徳行をたたえ、追憶する弔辞。誄詞(るいじ)とも呼ばれる。大王(天皇)には殯宮で奏され、功臣の棺前にも賜ったもの
(感想)
推古天皇20年春1月7日、
酒を置いて群卿と宴会をしました。
この日、
大臣は祝福の言葉を奉り、歌いました。
やすみしし 我が大王が
おかくれになる 天の八十蔭(やそかげ)
出で立たす 御空を見れば
万代に こうあってほしい
千代にも こうあってほしい
かしこんで 仕え奉りましょう
拝んで 仕え奉りましょう
歌を献上し奉ります
天皇が和して、
真蘇我(まがそ)よ 蘇我の子らは
馬ならば 日向の駒
太刀なら 呉の真刀
もっともだ 蘇我の子らを
大王が お使いになるもの
2月20日、
欽明天皇の妃で推古天皇の母、
堅塩媛を改葬しました。
この日、
軽のみちで誄(しのびごと)しました。
第一に、
阿倍内臣鳥が、
天皇の改葬の命を誄しました。
すなわち、
霊前に供物をしました。
死後の世界で用いるため、
日用の器物を模した品々、
衣服の類いで、一万五千種です。
第二に、
諸皇子等が、
序列の順で各々誄しました。
第三に、
中臣宮地連烏摩侶大臣が
大臣の言葉を誄しました。
第四に、
大臣が八腹臣等を引率して、
境部臣摩理勢に、
氏姓の本を誄させました。
時の人は、
「摩理勢・烏摩侶の二人は
りっぱに誄したが、
だた鳥臣の誄だけはよくなかった」
といいました。
鳥臣の誄。
人々に良くないと評価されてしまいました。
どんな風に話したのでしょうか。
しかし、
評価を後世に残されてしまうとは。
ちょっと、悲しいですね。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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