歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その5≫

2021-02-13 18:18:01 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その5≫
(2021年2月13日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 今回のブログでは、初唐の三大家について解説してみたい。初唐の三大家とは、唐の太宗期において活躍した虞世南、欧陽詢、褚遂良の三人を指す。
 唐太宗期といえば、中国の書道の歴史においても、最も華やかな時代である。その時代を生きた初唐の三大家の書には、どのような特徴がみられるのだろうか。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・初唐の三大家について
・欧陽詢の貧相醜顔について
・欧陽詢の影響
・明朝体という活字と欧陽詢について
・欧陽詢に関連して
・写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について
・結構法と欧陽詢、顔真卿の書
・褚遂良について
・褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)
・褚遂良臨模本について
・初唐の三大家の書について
・楷書について
・初唐の三大家の書と筆について








初唐の三大家について


ここで、初唐の三大家について紹介しておきたい。
虞世南は、会稽余姚(よよう)の名門の出で、幼時、同郡の智永(王羲之七世の孫)に学び、長じて一家をなした。博覧強記で、太宗に仕えて重用された。
「孔子廟堂碑」(626年)は虞世南70歳頃の書である。その書は平正温雅、沈着悠遠、しかもふっくらとした感触的快味があって少しの厭味もなく、品位においては古来唐朝第一といわれている。初唐のものでは最も優れたもので、智永の千字文の楷書の面影もあり、おだやかであると評される。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、54頁~55頁)

欧陽詢は潭州臨湘(湖南省長沙県の南)の人で、その父は陳の広州刺史であったが、謀反をもって誅された。欧陽詢が13歳のときのことである。欧陽詢は年少のために罪をまぬかれ、父の友人江総(519-594)に養育された。彼ははじめ王羲之を学び、のちに北派の書(たとえば晋の敦煌の人である索靖の碑)に心を寄せたと推測されている。つまり、欧陽詢は、ある時、索靖(さくせい)の碑を見てその巧妙さに感じ、そこを立ち去りかねて三日間碑の傍に宿ったというエピソードがある。王羲之を学び北碑の長をとり、一家をなした。70歳頃の書として「皇甫府君碑(こうほふくんひ)」があるが、この書は北魏の余韻もあって、険勁痛快な書とされる。

ところで、欧陽詢については、面白いエピソードがある。欧陽詢は容貌のひどく醜い大男であったようだ。高麗からの使者がその書を求めたとき、唐の高祖は「その書を観たなら、もとより形貌の魁梧を想像できまい」と言ったという話が伝えられている。
また、636年に文徳皇后の葬儀の際、欧陽詢の喪服姿があまりに醜かったので、許敬宗という人物が思わず笑ったため、御史に弾劾され、洪州都督府司馬に左遷されたという(『旧唐書』許敬宗伝による)。
この容貌の醜さと、少年時代の不幸の境遇とは欧陽詢の芸術に影響するところが多かったと真田は想像している。そもそも宋代の蘇軾もすでに、「率更(率更令の欧陽詢のこと)の貌寒寝(貧相で醜いこと)、いまその書を観るに、勁険刻厲(けいけんこくれい、つよくけわしい)、まさにその貌に称(かな)うのみ」とも言っている。
欧陽詢の書に見えるきびしいけわしさと非情とも言える美しさは、彼の人間性に深く根ざしたものと見るべきであろうと真田は述べている。つまり、境遇のけわしさが勁さを求め、容貌の醜さが逆に整った美しさを追求させ、楷書の規範といわれる完成がなされたのではないかというのである。これら二つの要因が新時代の風気とともに大きな素因となったと考えている。
「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)」(632年)は、唐の太宗が632年の夏、九成宮(隋の仁寿宮を修理したもの)に避暑に行き、その一隅に甘美な泉を発見したのを記念するために建てた碑である。銘文は侍中の魏徴、書は率更令の欧陽詢である。欧陽詢が数え年76歳のときの書である。これは欧陽詢の代表作であるばかりでなく、楷書の典型の一頂点を示すものである。
(真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]、166頁~172頁)

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中国書道史〈上巻〉 (1967年)

そして、先述したように、欧陽詢の代表作として「九成宮醴泉銘」がある。76歳の書で、勅命によって書かれたこともあり、一種の荘厳の感がある。晩年の円熟の書であるだけに、点画精妙、意欲精密、間然するところがなく、「皇甫府君碑」より上品であると評される。
(鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、55頁~56頁)。

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新説和漢書道史


書家の鈴木史楼も、「端整な姿の楷書と言えば、欧陽詢の絶品として知られる九成宮醴泉銘の右に出るものはない」と絶賛している。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、132頁)

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書のたのしみかた (新潮選書)

ただし、書家のすべての人が、初唐の三大家の楷書を楷書作品の最高峰と高く評価しているわけではない。たとえば、松井如流は、北魏の鄭道昭、王遠あたりの書は、初唐の三大家の書より高く評価し、親しみを感じていると明言している。偏食もはなはだしいといわれそうだが、今さら自分の宗旨をかえようとは思わないという。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、220頁)

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中国書道史随想 (1977年)

欧陽詢の貧相醜顔について


欧陽詢の伝は、『唐書』巻198、『旧唐書』巻189に見える。また、唐代伝奇によると、欧陽詢の父紇(ごち)が奥地に妻を伴った。ここには木簡を読む老いた白猿がいて、美人の紇の妻をさらったが、やがて猿顔の欧陽詢を生んだという奇怪事を紹介している。そのため貧相醜顔であったということになっているようだ。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、133頁)

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書の詩 (1974年)

欧陽詢の影響


ところで、唐の欧陽詢の書は、日本の書道にどのような影響を与えたのであろうか。
「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」は、大化2年(646)の建碑で、日本に現存する最古の石碑である。現在は宇治川の東畔、常光寺放生院(俗称、橋寺)の境内に保管されている。碑文の内容は、僧の道登の宇治橋架設の功を讃えたものである。全文は24句、96字から成っていたが、現在は6句24字を残すのみとなり、断碑と呼ばれている。
その書風は、一字一字の丈が低い隋風の楷書である。大化2年といえば、中国ではすでに初唐時代に入っており、丈高な楷書が成立していた。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」の成ったのは貞観6年(632)である。しかし、日本へはまだ、その新様式の楷書の影響は及んでいないことがわかる。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、38頁~39頁)

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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)

ところが、伝嵯峨天皇宸筆として「李嶠(りきょう)雑詠断簡」には、その影響が認められる。
伝嵯峨天皇宸筆としての「李嶠雑詠断簡」(陽明文庫蔵)は、唐代の詩人李嶠(644-713)の五言律詩を書写したものである。春名好重によれば、字形は縦長にして、結体は緊密である。点画は雄健峻抜にして、筆力が充実しており、用筆は自在で、運筆に緩急抑揚の変化があり、独特の奇癖偏習があるという。しかし、巧秀にして脱俗超妙であり、格調が高い。
この「李嶠雑詠断簡」の書風は、唐の初めの欧陽詢の書風であるといわれる。欧陽詢の書風は白鳳時代から平安時代の初めまで、王羲之の書風の次に愛好されていた。
(春名好重『古筆百話』淡交社、1984年、136頁~137頁)

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古筆百話

明朝体という活字と欧陽詢について


一般に、現在の活字には、漢字の字体に宋朝体、教科書体(楷書体)、清朝体、明朝体の四活字がある。
宋朝体は中国宋代の版本にならって模刻したのがはじめである。教科書体は楷書をそのまま活字としたものが戦後整えられた。戦前から用いられた楷書体は、名刺などに使用されている清朝体であった。明朝体は印刷体としてもっとも多く用いられており、新聞など出版物の活字はすべてこの字体を主とする。
明朝体と呼ばれるように、中国明時代に用いられている。ただし、それは活字印刷ではなく、木版本(明版)で、一枚の板全面を字面として彫った「整版」という印刷である。
明朝体活字が近代の洋式活版印刷に用いられるようになったのは、明治初年に本木昌造(もときしょうぞう)などが上海にいた米人ウィリアム・ガンブルを長崎に招いて、その指導によって明朝体の鋳造活字を製作したのがはじまりであるという。
明朝体の源流を探った場合、万暦年間の木版本の字体に辿りつくが、中国書道史の上から類型を求めると、初唐の三大家(欧陽詢、虞世南、褚遂良)の一人の欧陽詢の筆法(欧法)に似た結体であるといわれる。洗練されて整った書体はきびしさがあって、難をいえば、懐の狭い感じがなくもない。しかし古来楷法の極致といわれて、学書者必修とさえ称されている書である。他の二家もやはり楷書の規範であるが、欧法を版下の手本としたのは彫りやすいこともあったであろうと推測されている。このように、明朝体は欧法より出ているとされる。また「ハネ(趯法)」の筆法は、顔真卿の筆法の影響が見られるともいう。
(財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]、139頁~142頁)

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書の美―新しい見かた (1967年)

欧陽詢に関連して


書道博物館には、敦煌出土のもので、他に見られない珍しい唐人の細字の練習の肉筆があることを、日展審査員で帝塚山大学教授であった田中塊堂(1896―1976)は紹介している。
それには、1字を70~80字ぐらいずつ習っている。「覺」や「壽」の字を見ると、欧陽詢の筆法を学んだことがわかるという。例えば、「覺」の下の見の最後のハネ上げるところ、頭が比較的大きいことや、「壽」の結体、横画の長いところなどに、いちじるしくその特徴が見られると解説している。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、144頁~145頁)

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写経入門

写経体と中国の書家(智永、欧陽詢、虞世南)について


中国で楷書の典型的なものは初唐の欧陽詢、虞世南のものがよいとされる。田中塊堂はあえて、その一時代前の智永の「真草千字文」を推している。
智永は、書聖王羲之七世の孫で、陳から隋にかけて生存し、呉興の永欣寺に住して、書名が高かった。智永千字文の楷書は遒麗(しゅうれい)秀潤で、豊かな肉があって、見るからに温か味が感じられる。
そして、中国では、隋・唐の7世紀初め頃に楷書の典型ができた。唐の貞観元年には弘文館内で、文武職事五品以上の者は書道を学んでもよいと令が出て、その時の教授の任に当たったのが、欧陽詢と虞世南であった。
虞世南の書は平静温雅で、欧陽詢の書は峻厳端正で、共に初唐における楷書の典型を造り上げた人である。ことに欧陽詢は理想を強く表現し、力感と安定感を具備した建築性の形態を確立したので、古来これを欧法といって、楷書の極則と評された。
この欧・虞の筆法が混然一致して精彩ある唐の写経体はできあがった。日本の天平時代は、この写経体で風靡(ふうび)されている。
そして、このように解説して、田中塊堂は、お薦めの写経体として、次のように述べている。「写経の基礎となる大字の手本には欧・虞の先駆をなす智永の千字文を推し、進んで実際の写経には、虞・欧の混合体である唐代の写経体をお薦めするわけであります。」と。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、128頁~130頁、135頁~136頁)

結構法と欧陽詢、顔真卿の書


画を組み合わせて文字ができあがるのだが、その組み立て方には約束がある。それを結構法といっている。譬えていえば、建築のようなものである。
縦画には、背法と向法がある。例えば、「國」という字を見ると、左右に2本の縦画がある。これは向法、背法のどちらを使ったらよいかというのに、どちらでもよい。つまりどちらも筆法にかなっており、どちらが好きかということになる。
歴史的に見れば、初唐の欧陽詢は背法の結構法で、中唐の顔真卿は向法の結構法で、この漢字を書いている。結構法は大切で、手本の字の見方、習い方の「こつ」はここにあるといわれる。
(田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]、151頁~153頁)

褚遂良について


褚遂良は銭塘(浙江省)の人である。
褚遂良は、虞世南、鐘繇(151-230、三国魏の政治家で、伝統的な書法をよくした)、王羲之を学んで、一家をなした。ある時、太宗が「虞世南の死後、書を論ずる者がない」といわれたので、魏徴が「褚遂良があります。王羲之の筆法を得ています」と答えたので、太宗は即日召して侍書にし、太宗の手許にある多数の王羲之の書の真偽を鑑別せしめたが、少しの誤りもなかったというエピソードがある。褚遂良は欧陽詢に重んじられ、宮廷に入り、王羲之の法書の鑑識にすぐれていた。
褚遂良58歳の書として「雁塔聖教序」がある。「雁塔聖教序」は陝西省西安市の慈恩寺大雁塔にはめこまれている聖教序碑である。玄奘三蔵が、652年、寺内に雁塔を建て、翌年、塔上の石室にこの「聖教序」の碑を立てた。これは褚遂良の代表的な楷書で、細身でありながら、大ぶりの悠然とした書風である。用筆超妙、点画はすべて躍動していうべからざる妙趣があるといわれる。その一方で、勅命で書いた関係か、文字のふところが小さく、筆が割合に暢達していないと評する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、56頁~59頁)


褚遂良は官僚としては、尚書右僕射(うぼくや)にいたったが、後に愛州刺史に左遷され、不遇のうちに、愛州(北ベトナム)で客死した。つまり、太宗の遺命を受けて、高宗の政を助けていたが、晩年、高宗が武氏昭儀(後の則天武后)を皇后に冊立しようとしたのに反対し、帝の怒りを買い、潭州都督に左遷され、657年、桂州都督、さらに愛州刺史に貶され、その翌年658年、同地において窮死した。だから、初唐の三大家のうちで、褚遂良だけは、ベトナムと無縁ではない人物である。
(角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]、10頁)

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雁塔聖教序 (中国法書ガイド)


ところで、俳人・加藤楸邨(しゅうそん、1905-1993)は、「雁塔聖教序」をその随筆の中で絶賛している。
その書は、のびのびとして、一つの流れとなった書美の世界が開かれてくるので、鬱屈を覚えるときに、机上にひろげてみていたという。心をのびやかにしてくれるというのである。つまり、虞世南や欧陽詢を見た目で改めて褚遂良に接すると、豊潤な味わいが満ちており、楸邨の鬱屈した思いを解きほぐしたという。一字一字の美しさは、ほとんど比類ない感じで恍惚とさせ、一つの流れの中にあり、抵抗を感じさせず、それでいて、一つ一つの文字は鞭のような撓(しな)いを感じさせ、悠容迫らぬもののなかに、精緻な用意がゆきとどいていることに惹きつけられたと述べている。
石川九楊も、この加藤楸邨の随筆内容に異論はなく、「離れ小島へ持参する一冊の本」は何かと問われたら、文句なしに「雁塔聖教序」という法帖を挙げると答えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、178頁)。


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中国書史


清の翁方綱は、「米芾は褚遂良を学ぶこと久しいといっているが、それでこそよく晋法を窺うことができたのだ」と批評している。
褚遂良の書は「房玄齢碑」や「雁塔聖教序」に見られるように、碑書でありながら、欧陽詢や虞世南の書とはちがって、微細な筆意をよくあらわしており、南朝人の技巧的に発達した書法を残しているといわれる。つまり欧・虞から南朝人の筆意を窺うことは難しいが、褚からならばそこへ遡る手がかりになる。
そして米芾の書には最後まで褚遂良の筆意が残っている。欧・虞・褚は楷書の完成者であるとされているが、その中で褚の書がもっとも前代の、ことに南朝の法を残していて、六朝へ通じやすいのは、あたかも蘇・黄・米がいずれも晋唐の書を学んで新意を出したが、古法をもっともよく伝えたのは米芾であるということになる。
(神田喜一郎ほか編『書道全集 第15巻』平凡社、1966年、26頁~27頁)

褚遂良の「雁塔聖教序」について(補足)


日展評議員で、奈良教育大学教授であった天石東村は、褚遂良の「雁塔聖教序」について次のように評している。
「外には筆力を露さず、内に巧さを蔵しています。その線は極度に圧縮され、細く張りつめており、快よいリズムで左右に伸びた線は、刻々とその姿をかえ、息の長い、緊張した味わい深い充実したものになっています。また、弾力性のある線質のはしばしにその巧みさを示しています。」と。
つまり緊張した味わい深い充実した線で、しかも弾力性のある線質に巧みさがあるという。概して、外には筆力を露さず、内に巧さを蔵していると、天石も「雁塔聖教序」を高く評価している。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、71頁)

褚遂良臨模本について


黄絹に書かれ、古くから褚遂良の臨模と伝えられている「蘭亭序」は、北宋の米芾の手に帰したことがあり、その跋がある。それには、
「右は唐の中書令河南公褚遂良字は登善の臨した晋の右将軍王羲之の蘭亭宴集序である。本朝の丞相王文恵公(王隨)の故物である。」とある。
そして米芾はこの蘭亭の書法を評して、次のように述べている。
「王の書を臨すと雖も全く是れ褚法である。(中略)永和の字に至ってはその雅韵を全うし、九・觴の字は備さにその真標を著わし、浪の字は書名に異るなく、由の字はますますその楷則を彰わす」とある。つまり褚臨が王羲之の書の雅韵、真標、楷則をよくあらわしているという。
ただ「浪字は書名に異るなし」というのは、浪の旁の良が、褚遂良の名を書すときの良の字と同じ書法であるという意味である。褚遂良の署名は、今日では「雁塔聖教序」に見られるのが一番確かなものであるらしく、その良字の第一画が隷書風にカギ形になっているところは、この蘭亭の良のそれと似ていると内藤乾吉は解説している。
また、褚遂良の「房玄齢碑」や「枯樹賦」には、一つの画から次の画へ筆をうつす時に、ことさらに遊絲を引いている文字が多く、それが褚遂良の書の一つの特徴であるとみられている。この「蘭亭序」の「和暢」の和字の禾偏や「萬殊」の萬字の草冠にも、それが認められることを内藤乾吉は指摘している。そして、この本が褚臨であることの一つの証拠になると考えている。
また、一般的に初唐人の筆意がこの本には認められるという。例えば、第4行の「峻」、第5行の「以」、第8行の「暢」、第9行の「觀」の各第一画の筆の入れ方、すなわち縦画を書く場合に、最初に入れた筆を少し右へ移して下す筆法は、褚遂良を含めて初唐人の筆法であるという。
なお、後に日本の斎藤董盦の有に帰し、博文堂が影印した際に、内藤乾吉の父である内藤湖南が跋を書いたという。
(神田喜一郎ほか『書道全集 第4巻』平凡社、1965年、158頁~159頁)

初唐の三大家の書について


初唐の三大家が書いた楷書の絶品は、それぞれ均衡の美に迫っている。三者三様の味わいがあるが、鈴木史楼はその違いについて、次のような比喩で説明している。欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は、ピラミッドの壮重な姿を連想させ、褚遂良の「雁塔聖教序」、とりわけ「有」という字の姿からはミロのヴィーナスの姿が浮かんでくるという。「有」の第一画の斜画は、しなやかでたおやかな曲線である。それでいて、力強い動的な均衡を見せている。そして虞世南の均衡は、欧陽詢と褚遂良の中間にあるという。
(鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]、140頁)


【鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書はこちらから】

書のたのしみかた (新潮選書)


楷書について


文字造形の基礎はやはり楷書であるといわれる。一般に漢字の場合は楷書からはじめられるのが普通である。
楷書の手本でも唐代の楷書は非常に端正なものである。唐代の楷書、例えば、欧陽詢、虞世南、褚遂良あたりのものはそうである。楷書の力の均衡を極度に発揮して、みごとな安定さを持った巧みさがある。書家の天石東村は、楷書の典型と称せられる唐代のものをまず学ぶべきであると薦めている。つりあいの美を文字の上に極度に発揮したものが唐代の楷書であるから。
一方、仮名の場合では、藤原行成の「和漢朗詠集」あたりが、唐代の楷書に匹敵するものといえるとする。
(天石東村『書道入門』保育社、1985年、117頁~119頁)

書家の榊莫山は、楷書について不満をもらしている。すなわち、
「そもそも書道の根幹は、楷書にある。およそ書法のレッスンは、まず楷書からはじまるほどだ。ところが、専門の書家ですら、惚れ惚れするような楷書のかける人は少ない。名だたる書の展覧会へでかけても、楷書の名作は、まず見あたらない。
楷書がなんとなく嬉しげにならぶのは、小学生の書道展だけである。誰もがいの一番に習ったはずの楷書が、大人になってみたらほとんどかけない――なんて、笑うに笑えぬ現実が、書の世界にひそんでいるのだ。」と榊莫山は記している。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、109頁~110頁)

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新装版 莫山書話


ダウン症の女流書家の金澤翔子の母である泰子は、世界で最も美しいと言われ、楷書のバイブルとされる「九成宮醴泉銘」を、中国まで見に行ったと述べている。そのとき「凄い」とは思ったが、涙は滲まなかったという。
ともあれ、翔子が20歳のときに個展を開いた際に、泰子は書で最も難しいと言われる「楷書」の世界に挑戦してみる気になったと記している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、55頁~57頁)。
書家の柳田泰山も述べているように、楷書は書法では無二と言われる厳しさが求められる世界であり、真剣な眼差しで究極の楷書を学んでいる翔子の姿勢に、人間の純粋性を見出せるかもしれない。それはまるで沼という現世に対し、蓮の如く、時を過ごしているかのごとくである。
また、翔子の「十如是」を鑑賞して、石原慎太郎は次のように記している。「「十如是」は、お釈迦様が説かれた法華経の中の大切な教えです。お釈迦様は、書道に楽しんで打ち込んでいる翔子さんのように、自分で生きる喜びを見出した人の人生が、一番幸せな人生だと言われているのです。」と
(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、60頁~61頁、72頁~73頁、76頁)

【金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社はこちらから】

愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年


初唐の三大家の書と筆について


書には、文房四宝、つまり筆、紙、墨、硯が欠かせない。日本語の筆の語源は、文手(ふみで)、ふむで、ふでとなまったものといわれているが、中国では毛筆の始まりについて、次のような話が伝えられている。
秦の始皇帝が万里の長城を築いている際、蒙恬(もうてん)という将軍が城壁にへばりついている羊毛を見て、これを取って枯れた枝の先へ束ねて作ったのが毛筆の始まりだという。このため、蒙恬のことを筆祖といい、その作り始めたという筆を湖筆(こっぴつ)といて名筆とされている。
「千字文」の中にも、「恬筆倫紙(てんぴつりんし)」、つまり「蒙恬の製筆、蔡倫の紙の発明」とあるように、中国では筆は蒙恬が発明したものとみなされた
(吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]、154頁。小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、239頁)

【吉丸竹軒『三体千字文』金園社はこちらから】

吉丸竹軒 三体千字文

【小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂はこちらから】

三體千字文 【新版】


ところで、毛筆の材料には、羊以外にも、馬、鹿、兎、狸、山馬(やまうま)、猫、てん、いたち、鼠のひげが用いられた。右軍将軍だったので王右軍ともいわれた書聖王羲之は、好んで鼠のひげを用いたといわれ、また欧陽詢の子欧陽通(とう)は、狸の毛を多く用いたという。筆の形質からみると、真(楷書)は雀頭(じゃくとう)、行(行書)は鶏爪(けいそう)、仮名は柳葉(りゅうよう)といわれ、それぞれ形を表した名称である。
筆の質には剛毛、兼毫、羊毛とがあるが、初唐の三大家でいえば、欧陽詢=欧法は剛毛、虞世南=虞法は兼毫、褚遂良=褚法は羊毛が向いているといわれる。つまり、筆との関係でいえば、欧陽詢の字を臨書して字をまねて書く時には、この人の字は線が力強いので、硬い筆でなければ書けないといわれる。逆に褚遂良の字を書く時には、柔らかい筆でなければ、うまく情趣がでない。虞世南の温和な字には、兼毫(剛毛と羊毛の中間)が一番むいているという。つまり、筆というものは、「弘法筆を選ばず」ではなくて、「選ばなければならない」というのが正しいそうである。
(大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年、28頁、268頁~269頁)

【大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社はこちらから】

人生を彩る書道―世に悪筆者はいない



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