歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪赤壁之戦(資治通鑑)~小川環樹・西田太一郎『漢文入門』より≫

2023-12-30 19:00:36 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪赤壁之戦(資治通鑑)~小川環樹・西田太一郎『漢文入門』より≫
(2023年12月30日投稿)


【はじめに】


 この秋(9月~11月)、フジテレビ系列で「パリピ孔明」というドラマが放送されていた。
 そのあらすじといえば、蜀の軍師・諸葛孔明(向井理)は、魏と蜀が争う五丈原の戦い(234年)の最中に病死したが、現代の日本に転生し、駆け出しのシンガーソングライターの月見英子(上白石萌歌)のマネージャー(軍師)となり、その知略で彼女をスーパースターにしていくという、奇想天外なストーリーであった。ライブハウスのオーナー小林(森山未來)が三国志オタクで、「泣いて馬謖を斬る」など、諸葛孔明にまつわる故事成語を解説していた。孔明の主君である劉備を演じていたディーン・フジオカが、中国語によるナレーター役もつとめており、その中国語のうまさに感心させられた。
(この故事成語は、『漢文必携』(185頁)でも言及されている。同じく、「水魚の交わり」とは蜀の劉備と諸葛亮との交際についていった言葉である)
 
 ところで、日本における三国志人気には、根強いものがある。
 先に紹介した三宅崇広先生も「<コラム>目で見る漢文④ (三国志)」においても、三国志の主要人物(魏:曹操、司馬懿、夏侯惇、呉:孫権、孫策、周瑜、蜀:劉備、諸葛孔明、関羽、張飛)、そして『三国志』から生まれた故事成語(水魚の交わり、泣いて馬謖を斬る、白眉、桃園の誓い、三顧の礼)を取り上げている。
(三宅崇広ほか『きめる!センター 古文・漢文』学研プラス、1997年[2016年版]、295頁)
 
 さて、今回のブログでは、この劉備と諸葛孔明の登場する赤壁の戦について、『資治通鑑』を史料として、紹介しておきたい。
〇小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]
なるべく数多くの漢文の文章に触れて、漢文の句形や内容を知ってほしい。
(返り点は入力の都合上、省略した。白文および書き下し文から、返り点は推測してほしい。)



【小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)はこちらから】
小川環樹・西田太一郎『漢文入門』(岩波全書)







〇小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]
【目次】
はしがき
第一部 
一 漢文とは何か
二 句読および訓点
三 訓読の利害
四 語法概説(単語の結合)
五 語法概説(構文)

第二部 短文篇
1 楚荘王伐陳(説苑)
2 仲尼之賢(説苑)
3 子思立節(説苑)
4 忠臣不死難(説苑)
5 晏子諫君(説苑)
6 師経諫君(説苑)
7 于公決獄、未嘗有所冤(説苑)
8 有陰徳者、必有陽報(説苑)
9 徙薪曲揬之策(説苑)
10 契舟求剣(呂氏春秋)
11 蛇足(戦国策)
12 狐借虎威(戦国策)
13 非知之難、処知則難(韓非子)
14 愛憎之変(韓非子)
15 不死之薬(韓非子)
16 人当師聖人之智(韓非子)
17 普天之下、莫非王土(韓非子)
18 君主之柄(韓非子)
19 兼人者有三衛(荀子)
20 有治人、無治法(荀子)
21 性悪説(荀子)
22 君子遠庖厨(孟子)
23 推恩足以保四海(孟子)
24 君子有三楽(孟子)
25 菽粟如水火、民無不仁者(孟子)
26 荘子鼔盆而歌(荘子)
27 死之説(荘子)
28 杞憂(列子)
29 多歧亡羊(列子)

第三部 各体篇
散文と韻文および駢文と古文
一 論弁類
1 原人(韓愈)
2 論語辯(柳宗元)
二 序跋類
3 五代史伶官伝序(欧陽脩)
4 釈秘演詩集序(欧陽脩)
三 奏議類
5 陳情表(李密)
四 書牘類
6 答陳商書(韓愈)
7 与李方叔(蘇軾)
8 答楊済甫(蘇軾)
五 贈序類
9 送王秀才塤序(韓愈)
10 名二子説(蘇洵)
六 詔令類
11 賜南粤王趙佗書(漢文帝)
七 伝状類
12 方山子伝(蘇軾)
13 大鉄椎伝(魏禧)
八 碑誌類
14 石君墓誌銘(韓愈)
15 太常博士尹君墓誌銘(欧陽脩)
16 寒花葬志(帰有光)
九 雑記類
17 藍田県丞廳壁記(韓愈)
18 鈷鉧潭記(柳宗元)
十 箴銘類
19 瘞硯銘(韓愈)
20 韓幹画馬贊(蘇軾)
十一 哀祭類
21 独孤申叔哀辞(韓愈)
22 祭女拏女文(韓愈)
十二 辞賦類
23 登楼賦(王粲)
24 阿房宮賦(杜牧)
十三 叙記類
25 赤壁之戦(通鑑)
26 晋公子重耳之亡(左伝)

第四部 漢字の形・音・義
一 字体と字形
二 字形の構造(六書)
三 字(漢字の多様性)
四 字音

参考文献
字音かなづかい表




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・赤壁の戦について
・『資治通鑑』について
・『資治通鑑』に記された赤壁之戦







赤壁の戦について



25赤壁之戦(資治通鑑)
つぎの文は『資治通鑑』巻65の漢紀57、建安13年(208)の条である。
本文にさきだって、事件の背景を略述する。
 中国には古来宦官というものがあり、元来、刑罰で去勢されたものが宮女の番人にされたが、天子の側近にあって権益を得る機会が多いので、のちには、自ら去勢したり子供を去勢して宦官を志願するものも現れ、後漢(25-220)の末には、宦官の政治上の勢力がすこぶる大きくなった。
 漢の権臣、袁紹・何進は宦官を滅ぼそうと謀り、何進は将軍董卓(とうたく)を招いたが、そのいまだ至らぬうちに、袁紹は宦官二千人を殺した。そののち董卓が入京し、ときの幼帝を廃して献帝(190-220)を擁立し、権勢をほしいままにした。
 各地の官僚・豪族は袁紹を盟主として董卓を討とうとし、董卓はやがて殺されたが、そののち官僚・豪族の勢力争いとなり、それらの戦の一つとして、漢の丞相曹操の軍と、劉備・孫権の連合軍との赤壁の戦がある。
 ここに引用する文は、この赤壁の戦の経過を述べたものである。
 この戦では、曹操は大敗するが、そののち、曹操の子の曹丕(そうひ)は献帝に強いて帝位をゆずりうけ(220)、劉備もまた漢中(いまの四川省)で帝位につき、孫権も長江下流で帝を称し、魏・蜀漢・呉の三国が交争し、やがて、蜀漢が魏に滅ぼされ(263)、魏もその権臣の司馬炎に位を奪われ(265)、晋となり、そののち呉も晋に滅ぼされた(280)。

『資治通鑑』について


〇『資治通鑑』は宋の司馬光(1019-1086)の編。
 司馬光の伝は、『宋史』巻336にあり、字は君実、王安石の新法に反対した大政治家であった。死後、国師温国公を贈位されたので、世に司馬温公という。
 彼は歴代の史書が繁多で人主があまねく読むを得ないことをうれえ、『通志』8巻を作り、英宗(1064-1067)に献じた。
 これはその記述が、戦国より秦の二世に至るまでにとどまっていたので、英宗は編集局を設け学者を集めてこれをつづけさせて、司馬光がこれを取捨して編纂し、神宗(1068-1085)の元豊7年(1084)に完成した。戦国時代から唐末五代までの歴代の興亡が記されている(403B.C.-959A.D.)。
 神宗はその功を賞し、御製序をたまい、かつ命じて資治通鑑と名づけさせた。政治に役立てるという意味で「資治」といい、一国だけでなく歴代にわたっているから「通」といい、君主がこれを見ておのれを正すから「鑑(かがみ)」と名づけられたのである。
 わが国で史書に『大鏡』『増鏡』などの名のあるのはこれにならったのであろう。

 中国の正史は、主として一王朝について、「紀」といって天子の伝記、「書」または「志」といって刑罰とか経済とかの重要事項についての叙述、および「伝」といって官僚や学者その他の個人の伝記の部分などから成立しているので、この体裁を「紀伝体」というが、『通鑑』は年代順に史実を記述しているので「編年体」といい、編年体の史書の代表的なものである。
 通鑑には元の胡三省(こさんせい)が注をつけ、これが一般に普及しており、わが国にもこれに句読・訓点を施した和刻本がある。



『資治通鑑』に記された赤壁之戦


 それでは、『資治通鑑』に記された赤壁之戦について見ていこう。

 初魯肅聞劉表卒、言於孫權曰、荊州與國鄰接、江山險固、沃野萬里、士民殷富、若據而
有之、此帝王之資也、今劉表新亡、二子不協、軍中諸將、各有彼此、劉備天下梟雄、與操
有隙、寄寓於表、表惡其能而不能用也、若備與彼協心、上下齊同、則宜撫安、與
結盟好、如有離違、宜別圖之、以濟大事、肅請得奉命、弔表二子、并慰勞其軍中用
事者、及説備使撫表衆、同心一意、共治曹操、備必喜而從命、如其克諧、天下可定
也、今不速往、恐爲操所先、(一)

【書き下し文】
初め魯肅 劉表卒(しゆつ)すと聞き、孫權に言つて曰く、『荊州は國と鄰接し、江山險固、沃野萬里、士民殷富なり。若し據りて之を有(たも)たば、これ帝王の資なり。いま劉表新たに亡(ぼう)し、二子協(かな)はず、軍中の諸將、各(おのおの)彼此有り、劉備は天下の梟雄(きようゆう)にして、操と隙(げき)有り、表に寄寓せしが、表その能を惡(にく)みて用ふる能はざりしなり。若し備 彼と心を協(あは)せ、上下齊同(せいどう)せば、則ち宜しく撫安し、與(とも)に盟好を結ぶべし。如し離違有らば、宜しく別に之を圖(はか)り、以て大事を濟(な)すべし。肅請ふ命を奉ずるを得、表の二子を弔し、并(あは)せて其の軍中の事を用ふる者を慰勞し、及び備に説きて表の衆を撫せしめ、心を同じくし意を一にし、共に曹操を治めんことを。備必ず喜びて命に從はん。如し其れ克く諧(かな)はず、天下定む可きなり。いま速かに往かずんば、恐らくは操の先んずる所を爲らん』と。(一)

【語句】
・初=さて話はもとにもどって。
 史家の文は事件が起った順序に年月日をおうて書くものであるが、一つの史実をしるし、つぎに別な史実を過去にさかのぼって書きおこすことがあり、そのようなときに「初」と書く。
・宜撫安、與結盟好=彼ら即ち劉表の子および劉備と同盟を結ぶがよい。
 「好」はよしみ。
・宜別圖之、以濟大事=別に対策を立てて、大事業を成しとげるがよい。
・如其克諧=「其」は単なる語助で意味はない。仮定文でよく用いる。
 「克」は「能」と同じ。「諧」は都合よくゆく。
 「もしうまく話がまとまることができたら」



權即遣肅、行到夏口、聞操已向荊州、晨夜兼道、比至南郡、而琮已降、備南走、肅徑
迎之、與備曾於當陽長坂、肅宣權旨、論天下事埶、致殷勤之意、且問備曰、豫州今
欲何至、備曰、與蒼梧太守呉巨有舊、欲往投之、肅曰、孫討虜聰明仁惠、敬賢禮士
江表英豪、咸歸附之、已據有六郡、兵精糧多、足以立事、今爲君計、莫若遣腹心、
自結於東、以共濟世業、而欲投呉巨、巨是凡人、偏在遠郡、行將爲人所併、豈足託
乎、備甚悦、肅又謂諸葛亮曰、我子瑜友也、即共定交、子瑜者亮兄瑾也、避亂江東、爲
孫權長史、備用肅計、進住鄂縣之樊口、(二)

【書き下し文】
權即ち肅を遣す。行きて夏口に到る。操已に荊州に向へりと聞き、晨夜(しんや)道を兼ぬ。南郡に至るに比(およ)んで、琮(そう) 已に降り、備 南走す。肅徑(ただ)ちに之を迎へ、備と當陽の長坂に曾す。肅 權の旨を宣べ、天下の事埶(じせい)を論じ、殷勤の意を致し、且備に問うて曰く、『豫州いま何(いづ)くに至らんと欲するか』と。備曰く、『蒼梧(そうご)の太守呉巨と舊(きゅう)有り、往きて之に投ぜんと欲す』と。肅曰く、『孫討虜は聰明仁惠、賢を敬し士を禮し、江表の英豪、咸(みな)之に歸附す。已に六郡を據有し、兵精(くは)しく糧多く、以て事を立つるに足る。いま君の計を爲すに、腹心を遣し、自ら東に結び、以て共に世業を濟(な)すに若くは莫し。而るに呉巨に投ぜんと欲す。巨は是れ凡人にして、遠郡に偏在す。行くゆく將に人の併(あは)す所と爲らんとす。豈託するに足らんや』と。備甚だ悦ぶ。肅又諸葛亮に謂つて曰く、『我は子瑜(しゆ)の友なり』と。即ち共に交りを定む。子瑜なる者は亮の兄瑾なり。亂を江東に避けて、孫權の長史と爲れり。備 肅の計を用ひ、進んで鄂縣の樊口に住(とど)まる。(二)

【語句】
・豫州=劉備はさきに豫州の刺史すなわち州長であったから、劉備をさしてこのようにいった。
 豫州は今の河南省の東南境、及び安徽省の淮河以北。
・莫若遣腹心、自結於東、以共濟世業=腹心の家来を遣わし、東方の呉と結びつき、そして一世の大事業を成しとげるのが一番よい。
 自結は「自分を結びつける」



曹操自江陵、將順江東下、諸葛亮謂劉備曰、事急矣、請奉命求救於孫將軍、遂與魯
肅、倶詣孫權、亮見權於柴桑、説權曰、海内大亂、將軍起兵江東、劉豫州收衆漢南、與
曹操共爭天下、今操芟夷大難、畧已平矣、遂破荊州、威震四海、英雄無用武之地、故
豫州遁逃至此、願將軍量力而處之、若能以呉越之衆、與中國抗衡、不如早與之絶、
若不能、何不按兵束甲、北面而事之、今將軍外託服從之名、而内懐猶豫之計、事急而
不斷、禍至無日矣、權曰、苟如君言、劉豫州何不遂事之乎、亮曰、田横齊之壯士耳、猶
守義不辱、況劉豫州王室之冑、英才蓋世、衆士慕仰、若水之歸海、若事之不濟、此乃
天也、安能復爲之下乎、(三)

【書き下し文】
曹操 江陵より、將に江に順つて東下せんとす。諸葛亮 劉備に謂ひて曰く、『事急なり。請ふ命を奉じて救ひを孫將軍に求めん』と。遂に魯肅と、倶に孫權に詣(いた)る。亮 權に柴桑に見(まみ)え、權に説いて曰く、『海内大いに亂れ、將軍は兵を江東に起し、劉豫州は衆を漢南に收め、曹操と共に天下を爭へり。今操は大難を芟夷(さんい)し、畧(ほぼ)已に平(たひら)ぎ、遂に荊州を破り、威 四海に震ひ、英雄 武を用ふるの地無し。故に豫州遁逃して此に至れり。願はくは將軍 力を量りて之に處せられんことを。若し能く呉越の衆を以て、中國と抗衡せば、早く之と絶つに如かず。若し能はずんば、何ぞ兵を按じ甲を束(つか)ね、北面して之に事(つか)へざる。いま將軍 外は服從の名に託して、内は猶豫の計を懐(いだ)く。事急にして斷ぜずんば、禍(わざはひ)至ること日無けん』と。權曰く、『苟くも君の言の如くんば、劉豫州何ぞ遂に之に事へざるか』と。亮曰く、『田横は齊の壯士のみ、猶ほ義を守り辱(はづか)められざりき。況や劉豫州は王室の冑(ちゆう)にして、英才 世を蓋(おほ)ひ、衆士慕仰すること、水の海に歸するが若し。事の濟(な)らざるが若きは、此乃ち天なり。安んぞ能く復た之が下と爲らんや』と。(三)

【語句】
・抗衡=はり合ふ。
 「衡」は車の軛(くびき)の上の横木で、衡をつっぱり合せて避けたり退いたりしないこと。
 一説に衡ははかりの横木で均衡をたもつことから、相手にはりあって屈服しないことを意味する。
・北面而事之=北面は臣下の地位につくこと。
 中国の古来の習慣では、身分の高い者は南面または東面し、身分のひくい者は北面または西面した
・田横齊之壯士耳、猶守義不辱=むかし漢の高祖が天下を取ったとき、斉の田横は、かつて一国の主として高祖と対等であったのに、いま高祖に臣下として事えることは恥じであるとして自殺した。
・冑(ちゅう)=子孫、系統。劉備は前漢の景帝の子の中山靖王勝の子孫といわれている。



權勃然曰、吾不能擧全呉之地、十萬之衆、受制於人、吾計決矣、非劉豫州、莫可以當
曹操者、然豫州新敗之後、安能抗此難乎、亮曰、豫州軍雖敗於長坂、今戰士還者、及關
羽水軍、精甲萬人、劉琦合江夏戰士、亦不下萬人、曹操之衆、遠來疲敞、聞追豫州、輕
騎一日一夜、行三百餘里、此所謂強弩之末熱、不能穿魯縞者也、故兵法忌之曰、必蹶
上將軍、且北方之人、不習水戰、又荊州之民附操者、偪兵埶耳、非心服也、今將軍誠
能命猛將、統兵數萬、與豫州協規同力、破操軍必矣、操軍破必北還、如此則荊呉之
埶強、鼎足之形成矣、成敗之機、在於今日、孫權大悦、與其群下謀之、(四)

【書き下し文】
權 勃然として曰く、『吾 全呉の地、十萬の衆を擧げて、制を人に受くる能はず。吾が計(はかりごと)決せり。劉豫州に非ずんば、以て曹操に當る可き者莫し。然れども豫州新敗の後、安んぞ能く此の難に抗せんや』と。亮曰く、『豫州の軍は長坂に敗れたりと雖も、いま戰士の還る者、及び關羽の水軍、精甲萬人あり、劉琦 江夏の戰士を合するに、亦萬人を下らず。曹操の衆は、遠く來りて疲敞(ひへい)す。聞く豫州を追ふに、輕騎 一日一夜に、行くこと三百餘里なりと。此れ所謂強弩の末埶(まつせい)魯縞を穿つ能はざる者なり。故に兵法これを忌みて曰く、「必ず上將軍を蹶(たふ)す」と。且つ北方の人は、水戰に習はず。又荊州の民の操に附する者は、兵埶に偪(せま)らるるのみ、心服せるに非ざるなり。いま將軍誠に能く猛將に命じ、兵數萬を統べ、豫州と規(はかりごと)を協せ力を同じくせしめば、操の軍を破らんこと必(ひつ)せり。操の軍破れなば必ず北に還らん。此の如くんば則ち荊呉の埶(いきほひ)強く、鼎足の形成らん。成敗の機は、今日に在り』と。孫權大いに悦び、其の群下と之を謀る。(四)

【語句】
・強弩之末熱、不能穿魯縞者也=弩は「いしゆみ」、ばね仕掛で石や矢をはじき飛ばす弓。
強い弩で矢を飛ばしても、遠くまで飛んで行った先での力は、魯の国にできる薄い白絹をも突き通せない。
 魯は山東省にあった昔の国名、その地方にはうすい白絹が産出される。
 史記長孺国伝には「彊弩之極矢、不能穿魯縞、衝風之末力、不能漂鴻毛、非初不勁、末力衰也」とある。



是時曹操遺權書曰、近者奉辭伐罪、旌麾南指、劉琮束手、今治水軍八十萬衆、方與將
軍會獵於呉、權以示臣下、莫不響震失色、長史張昭等曰、曹公豺虎也、挾天子以征
四方、動以朝廷爲辭、今日拒之、事更不順、且將軍大埶、可以拒操者長江也、今操得
荊州、奄有其地、劉表治水軍、蒙衝鬪艦、乃以千數、操悉浮以沿江、兼有歩兵、水陸倶
下、此爲長江之險、已與我共之矣、而埶力衆寡、又不可論、愚謂大計不如迎之、魯
肅獨不言、權起更衣、肅追於宇下、權知其意、執肅手曰、卿欲何言、肅曰、向察衆人
之議、專欲誤將軍、不足與圖大事、今肅可迎操耳、如將軍不可也、何以言之、今
肅迎操、操當以肅還付鄕黨、品其名位、猶不失下曹從事、乘犢車從吏卒、交游士
林、累官故不失州郡也、將軍迎操、欲安所歸乎、願早定大計、莫用衆人之議也、
權歎息曰、諸人持議、甚失孤望、今卿廓開大計、正與孤同、(五)

【書き下し文】
是の時 曹操 權に書を遺(おく)りて曰く、『近者(ちかごろ) 辭を奉じて罪を伐ち、旌麾(せいき)南に指せば、劉琮 手を束(つか)ねたり。いま水軍八十萬の衆を治め、方に將
軍と呉に會獵(かいりよう)せん』と。權以て臣下に示す。響震し色を失はざるは莫し。長史張昭等曰く、『曹公は豺虎(さいこ)なり。天子を挾(はさ)みて以て四方を征し、動(やや)もすれば朝廷を以て辭を爲す。今日これを拒(ふせ)がば、事 更に不順ならん。且將軍の大埶(たいせい)、可て操を拒ぐ可き者は長江なり。いま操は荊州を得、其の地を奄有(えんゆう)す。劉表は水軍を治め、蒙衝鬪艦(もうしようとうかん)、乃ち千を以て數へしが、操悉く浮べて以て江に沿ひ、兼ねて歩兵有り、水陸倶に下る。これ長江の險、已に我と之を共にすと爲す。而して埶力(せいりよく)衆寡、又論ず可からず。愚謂(おも)へらく大計は之を迎ふるに如かず』と。魯肅獨り言はず。權起(た)ちて更衣す。肅 宇下に追ふ。權その意を知り、肅の手を執りて曰く、『卿 何をか言はんと欲す』と。肅曰く、向(さき)に衆人の議を察し、專ら將軍を誤らんと欲す。與に大事を圖るに足らず。いま肅は操を迎ふ可きのみ。將軍の如きは不可なり。何を以て之を言ふ。いま肅 操を迎へなば、操當に肅を以て鄕黨に還付すべし。其の名位を品するに、猶ほ下曹從事たるを失はず、犢車(とくしや)に乗り、吏卒を從へん。士林に交游し、官を累(かさ)ぬれば故より州郡を失はざるなり。將軍 操を迎へなば、安くに歸する所あらと欲するか。願はくは早く大計を定めんことを。衆人の議を用ふる莫きなり』と。權歎息して曰く、『諸人が議を持する、甚だ孤の望(のぞみ)を失す。いま卿(けい)は大計を廓開(かくかい)し、正に孤と同じ』と。(五)

【語句】
・奉辭伐罪=天子の命令を承けて悪者を討伐する。
 曹操は天子を後楯(うしろだて)にしているから曹操に反抗する者を罪人と称しているのである。
・旌麾南指=「旌」は狭義では牛の尾(しっぽ)の毛や鳥の羽のさいたのを竿にぶらさげた旗、広義では旗の総称。「麾」は指揮に用いる旗。
 曹操の魏の国は北方にあり、南の方へ向って進軍したから南指という。
 



時周瑜受使至番陽、肅勸權召瑜還、瑜至、謂權曰、操雖託名漢相、其實漢賊也、將軍
以神武雄才、兼仗父兄之烈、割據江東、地方數千里、兵精足用、英雄樂業、當横行天
下、爲漢家除殘去穢、況操自送死、而可迎之邪、請爲將軍籌之、今北土未平、馬
超韓遂、尚在關西、爲操後患、而操舎鞍馬仗舟楫、與呉越爭衡、今又盛寒、馬無藁
草、驅中國士衆、遠渉江湖之間、不習水土、必生疾病、此數者用兵之患也、而操皆冐行
之、將軍禽操、宜在今日、瑜請得精兵數萬人、進住夏口、保爲將軍破之、權曰、老
賊欲廢漢自立久矣、徒忌二袁・呂布・劉表與孤耳、今數雄已滅、惟孤尚存、孤與老賊、
勢不兩立、君言當擊、甚與孤合、此天以君授孤也、因抜刀斫前奏案曰、諸將吏敢復
有言當迎操者、與此案同、乃罷會、(六)

【書き下し文】
時に周瑜 使を受けて番陽(はよう)に至れり。肅 權に勸めて瑜を召して還さしむ。瑜至る。權に謂ひて曰く、『操は名を漢相に託すと雖も、其の實は漢賊なり。將軍 神武の雄才を以てし、兼ねて父兄の烈に仗(よ)り、江東に割據し、地 方數千里、兵精にして用ふるに足り、英雄は業を樂しむ。當に天下に横行し、漢家の爲に殘を除き穢(あい)を去るべし。況や操自ら死を送れるに、而も之を迎ふ可けんや。請ふ將軍の爲に之を籌(はか)らん。今北土未だ平(たひら)がず、馬超・韓遂、なほ關西(かんせい)に在り、操の後患を爲す。而るに操は鞍馬を舎(す)て舟楫(しゆうしゆう)に仗り、呉越と衡を爭ふ。いままた盛寒にして、馬は藁草(こうそう)無し。中國の士衆を驅り、遠く江湖の間に渉(わた)り、水土に習はず、必ず疾病を生ぜん。此の數者(すうしや)は用兵の患なり。而るに操みな冐(をか)して之を行ふ。將軍 操を禽(とりこ)にせんこと、宜しく今日に在るべし。瑜請ふ精兵數萬人を得、進んで夏口に住(とど)まり、保して將軍の爲に之を破らん』と。權曰く、『老賊 漢を廢して自立せんと欲すること久しかりき。徒(ただ)二袁・呂布・劉表と孤とを忌みしのみ。いま數雄已に滅び、惟(ただ)孤のみなほ存す。孤と老賊と、勢ひ兩立せず。君「當に擊つべし」と言ふは、甚だ孤と合(がつ)す。此 天 君を以て孤に授くるなり』と。因つて刀を抜き前の奏案を斫(き)りて曰く、『諸將吏敢へて復た「當に操を迎ふべし」と言ふ者有らば、此の案と同じからん』と。乃ち會を罷(や)む。(六)

【語句】
・託名漢相=曹操は後漢の献帝の建安13年に漢の丞相(じょうしょう)となった。「漢の丞相ということに名目をかこつけているけれども」
・舎鞍馬仗舟楫=「舎」は「捨」の省文、騎馬戦をしないで水上の戦をする



是夜瑜復見權曰、諸人徒見操書言水歩八十萬而各恐懾、不復料其虚實、便開此議、甚
無謂也、今以實校之、彼所將中國人、不過十五六萬、且已久疲、所得表衆、亦極七八
萬耳、尚懐狐疑、夫以疲病之卒、御狐疑之衆、衆數雖多、甚未足畏、瑜得精兵五萬、
自足制之、願將軍勿慮、權撫其背曰、公瑾、卿言至此、甚合孤心、子布・元表諸人、
各顧妻子、挾持私慮、深失所望、獨卿與子敬、與孤同耳、此天以卿二人贊孤也、
五萬兵雖卒合、已選三萬人、船糧戰具倶辦、卿與子敬程公、便在前發、孤當續發人
衆、多載資糧、爲卿後援、卿能辦之者誠決、邂逅不如意、便還就孤、孤當與孟徳
決之、遂以周瑜程普爲左右督將兵、與備幷力逆操、以魯肅贊軍校尉、助畫
方略、(七)

【書き下し文】
是の夜 瑜復た權に見(まみ)えて曰く、『諸人徒だ操の書に水歩八十萬と言ふを見て、各ゝ(おのおの)恐懾(きようしよう)し、復た其の虚實を料らず、便ち此の議を開く、甚だ謂(いひ)無きなり。いま實を以て之を校するに、彼の將(ひき)ゐる所の中國の人は、十五六萬に過ぎず、且已に久しく疲れたり。得る所の表の衆も、亦極めて七八萬なるのみにして、なほ狐疑を懐く。夫れ疲病の卒を以(ひき)ゐ、狐疑の衆を御す、衆數(しゆうすう)多しと雖も、甚だ未だ畏るるに足らず。瑜 精兵五萬を得ば、自ら之を制するに足る。願はくは將軍慮(おもんぱか)ること勿れ』と。權その背(はい)を撫して曰く、『公瑾、卿の言此に至る、甚だ孤の心に合す。子布・元表の諸人は、各ゝ妻子を顧み、私慮を挾持(きようじ)し、深く望む所を失ふ。獨り卿と子敬とは、孤と同じきのみ。此れ天 卿二人を以て孤を贊(たす)くるなり。五萬の兵は卒(には)かに合(あつ)め難し。已に三萬人を選び、船糧戰具ともに辦(べん)ぜり。卿(けい) 子敬・程公と、便ち前に在りて發せよ。孤當に續きて人衆を發し、多く資糧を載せ、卿の後援を爲すべし。卿能く之を辦ずる者は誠に決せよ。邂逅意の如くならずんば、便ち還りて孤に就け。孤當に孟徳と之を決すべし』と。遂に周瑜・程普を以て左右督と爲し兵を將(ひき)ゐ、備と力を幷せて操を逆(むか)へしめ、魯肅を以て贊軍校尉(さんぐんこうい)と爲し、方略を助畫(じよかく)せしむ。(七)

【語句】
・夫以疲病之卒=夫れ疲病の卒を以(ひき)ゐ 「以」この場合は「もって」でなく「ひきいる」である、昔の人は「ゐる」「ゐて」とも訓じた。
・程公=程普。孫権の諸将のうちで程普が最年長であったから、人々はみな程公と呼んだ。
・邂逅不如意=「邂逅」は思いがけず会うこと。「予期せぬ事態になって意の如くならなかったら」
・孟徳=曹操の字
・逆操=曹操をむかえうつ。「逆」はこの場合は「迎」という意味。
  同じく「迎える」といっても、降参して迎える場合と迎えうつ場合とがあるから注意すべきである。



劉備在樊口、日遣暹吏於水次、候望權軍、吏望見瑜船、馳往白備、備遣人慰勞之、瑜
曰、有軍任、不可得委署、儻能屈威、誠副其所望、備乃乘單舸、往見瑜曰、今拒
曹公、深爲得計、戰卒有幾、瑜曰、三萬人、備曰、恨少、瑜曰、此自足用、豫州但觀瑜
破之、備欲呼魯肅等共會語、瑜曰、受命不得妄委署、若欲見子敬、可別過之、備
深愧喜、進與操遇於赤壁、(八)

【書き下し文】
劉備 樊口に在り、日ゝ暹吏(らり)を水次に遣(つかは)し、權の軍を候望せしむ。吏 瑜の船を望見し、馳せ往きて備に白(まう)す。備 人を遣し之を慰勞せしむ。瑜曰く、『軍任有り、委署するを得可からず。儻(も)し能く威を屈せば、誠に其の望む所に副(そ)ふ』と。備乃ち單舸に乘り、往きて瑜を見て曰く、『いま曹公を拒(ふせ)ぐは、深く計を得たりと爲す。戰卒幾(いくば)く有るか』と。瑜曰く、『三萬人』と。備曰く、『恨むらくは少なし』と。瑜曰く、『此れ自ら用ふるに足る。豫州は但だ瑜の之を破るを觀よ』と。備 魯肅等を呼びて共に會語(かいご)せんと欲す。瑜曰く、『命を受けたれば妄りに委署するを得ず。若し子敬を見んと欲せば、別に之に過(よぎ)る可し』と。備深く愧(は)ぢ喜ぶ。進んで操と赤壁に遇(あ)ふ。(八)

【語句】
・暹吏=巡吏と同じ。見廻りの役人。
・白=告白の白、「つぐ」と読むも可。
・有軍任、不可得委署=軍事上の任務があるから部署を離れうるわけにはいかない。
 「委」は「棄つ」
・儻能屈威、誠副其所望=儻は「もし」「ひょっとして」。また「たとい」の場合もある。
目上のものがわざわざ目下のものに会いにくるから「威を屈す」という。
「副其所望」の「其」は周瑜をさす。「こちらの希望にかないます」
・此自足用=これだけで十分役に立つ。
・愧喜=魯肅を呼ぼうとした過ちをはじ、周瑜の言行の正しいことを喜ぶ。



時操軍衆已有疾疫、初一交戰、操軍不利、引次江北、瑜等在南岸、瑜部將黄蓋曰、今寇
衆我寡、難與持久、操軍方連船艦、首尾相接、可焼而走也、乃取蒙衝鬪艦十艘、載燥荻
枯柴、灌油其中、裹以帷幕、上建旌旗、豫備走舸、繋於其尾、先以書遺操、詐云欲
降、時東南風急、蓋以十艦最著前、中江擧帆、餘船以次倶進、操軍吏士、皆出營立觀、
指言蓋降、去北軍二里餘、同時發火、火烈風猛、船往如箭、焼盡北船、延及岸上營落、
頃之煙炎張天、人馬焼溺、死者甚衆、瑜等率輕鋭繼其後、靁鼓大震、北軍大壞、操引軍
從華容道歩走、遇泥濘道不通、天又大風、悉使羸兵負艸塡之、騎乃得過、贏兵爲
人馬所蹈藉、陷泥中死者甚衆、劉備周瑜、水陸並進、追操至南郡、時操軍兼以饑疫、
死者大半、操乃留征南將軍曹仁、横野將軍徐晃守江陵、折衝將軍樂進守襄陽、引軍北
還、(九)

【書き下し文】
時に操の軍衆已に疾疫(しつえき)有り。初め一たび戰を交ふるや、操の軍利あらず、引きて江北に次(じ)す。瑜等南岸に在り。瑜の部將黄蓋曰く、『いま寇は衆(おほ)く我は寡(すくな)く、與に久しきを持し難し。操の軍方に船艦を連ね、首尾相接す、焼きて走らす可きなり』と。乃ち蒙衝鬪艦十艘を取り、燥荻枯柴(そうてきこさい)を載せ、油を其の中に灌(そそ)ぎ、裹(つつ)むに帷幕(いばく)を以てし、上に旌旗(せいき)を建て、豫(あらかじ)め走舸を備へ、其の尾に繋ぐ。先づ書を以て操に遺り、詐(いつは)りて「降らんと欲す」と云ふ。時に東南風急なり。蓋(がい) 十艦を以て最も前に著(つ)け、中江に帆を擧げ、餘船 次を以て倶に進む。操の軍の吏士、皆營を出で立ちて觀、指さして『蓋降る』と言ふ。北軍を去ること二里餘にして、同時に火を發す。火烈(はげ)しく風猛(たけ)く、船往くこと箭(や)の如く、北船を焼盡し、延(ひ)いて岸上の營落に及ぶ。頃(しばら)くにして煙炎 天に張(みなぎ)り、人馬 焼溺(しようでき)し、死する者甚だ衆し。瑜等 輕鋭を率ゐ其の後を繼ぎ、靁鼓(らいこ)大いに震ふ。北軍大いに壞(やぶ)る。操 軍を引ゐ華容道より歩走す。泥濘に遇ひて道通ぜず。天又大いに風ふく。悉く羸兵(るいへい)をして艸(くさ)を負ひ之を塡(うづ)めしめ、騎乃ち過ぐるを得たり。贏兵 人馬の蹈藉(とうせき)する所と爲り、泥中に陷りて死する者甚だ衆し。劉備・周瑜、水陸並び進み、操を追ひて南郡に至る。時に操の軍 兼ぬるに饑疫を以てし、死する者大半なり。操乃ち征南將軍曹仁、横野將軍徐晃を留めて江陵を守らしめ、折衝將軍樂進には襄陽を守らしめ、軍を引ゐて北還す。(九)

【語句】
・引次江北=退いて揚子江の北岸に集結した。「次」は軍隊を駐屯すること。
・最著前=「殿最」という熟語があり、軍隊の前へ突き進むのを「最」といい、隊後に在るのを「殿」という。従って功多きを「最」といい、功少なきを「殿」という。
 ここでは、「最」は「著」の副詞、「前」は「著」の補語、「最前列的に前に著ける」。
 「最」はこのように動詞の副詞として用いる場合と、「最善」「最悪」のように形容詞の副詞として用いる場合とがある。
・頃之=ここの「之」は直接に指示するものはない。動詞として文字を使用するときに「之」をつけるのであって、ここでも「久之」などと同じく「頃」「久」一字だけでは口調の悪いとき、「之」をつけ口調をととのえ、かつ時間的経過をあらわしている。
・靁=太鼓をはやうちすること
・羸兵=つかれた兵。羸(るい)は「つかれる、やせる」の意。
・征南・横野・折衝=すべて将軍の名称。
 将軍というのは本来は常置してあるのではなく征討に際して任命したもので、官名として定まった名称もあるが、その都度の任務などによって名称がつけられることもあり、ここでは「南方の敵を征する」「大平原をよこぎる」「敵の衝をくじく」という意味で名称がつけられている。 
 なお「衝」とは敵陣につきあてる戦車、タンクのような役割をするもの。

(小川環樹・西田太一郎『漢文入門』岩波全書、1957年[1994年版]、310頁~333頁)



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