≪大学受験の国語力とは?~石原千秋氏の著作より≫
(2022年8月28日投稿)
国語力、論理力とは何か?
この疑問を抱きつつ、この夏は次のような著作に目を通してみた。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
〇小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年
〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]
〇渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]
〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年
これらの本に目を通して、受験における国語力とは何か? また国語で試される論理力とはどのようなものか?について考えてみた(論理力はとりわけ国語の選択肢問題で問われることが多い)。
今回のブログでは、大学受験の国語力とは何かをめぐって、上記の著作の中から、石原千秋氏の次の著作を参照しながら、考えてみたい。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。
【石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)はこちらから】
石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・石原千秋氏は、この本の目的および対象とする読者について、次のようにいう。
①大学受験国語をきっかけに日本の国語教育について考えたいという読者に、その基本的な分析結果を提供すること。
②ただ、実際に大学受験国語の解き方を分析しているので、結果として受験生諸君にも有益な方法を提供することになった。
・石原千秋氏は、この本を執筆する前に、入試国語に関わる本を5冊書いている。
①『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書)
②『評論入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
③『小説入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
④『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)
⑤『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)
・このように、中学から大学までの受験国語について書き、結果として五部作になったという。
その他、義務教育の国語教科書論(国語教育論ではない)としては、『国語教科書の思想』(ちくま新書)もある。
主張は同じであるようだ。つまり、「日本の国語教育は道徳教育である」というものである。
・どの本もテーマ別の構成である。
(『大学受験のための小説講義』以外はすべてテーマ別)
これは、国語教育が道徳教育である以上、学校空間で教えられるレパートリーは限られているのだから、紙の上の学校空間とも言える入試国語でも出題できるレパートリーは限られているという分析結果によっているという。
(ただ、大学受験国語はこの縛りが緩い。そして時代のトレンドにも敏感だから、変化が早くしてレパートリーも多少は豊富である)
・先の5冊で入試国語について書いた後、次のような問題意識がわいてきたという。
つまり、入試国語が試している「国語力」とはいったいどういうものなのだろうかという問題意識である。
日本の国語教育を究極のところで規定している大学受験国語の現代文に絞って、この問題を考えてみようと試みた。それが本書の正味のところである。
〇この本は、前半と後半とに分かれている。
・前半では、まず戦後の大学受験国語のトレンドをおさらいする。次に戦前から戦後期の大学受験国語を参照して、現在の大学受験国語との違いを明らかにしている。
⇒この二つの作業によって、現在の大学受験国語の特徴を浮かび上がらせている。
・後半では、実際に現在の大学受験国語を解いている。それまでの本との違いは、解き方に焦点を絞ったところにあるという。
(読解問題が中心となった現在の大学受験国語を考えれば、解き方の方により多く大学受験国語が求める「国語力」の特質が現れていると考えたようだ)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、7頁~9頁)
「第一章 大学受験国語は時代を映す」の「小林秀雄と市民社会派の失墜」(25頁~28頁)以降では、戦後の大学受験国語の定番の変遷を振り返っている。
〇昭和40年代後半くらいまで、「高校受験の中村光夫、大学受験の小林秀雄」と言われていたようだ。
つまり、高校受験の水準では中村光夫の「です、ます」体の、当時としては平易な文章が出題された。大学受験になると、何が書いてあるのかサッパリわからない小林秀雄の文章が出題されるという意味だそうだ。
また、文学論では山本健吉の文章も多く出題された。
エッセイという語感が持つ一種の「軽み」もないし、文字通りやや古風な「随筆」という語感がピッタリする。
ところが、少なくとも昭和40年代までは小林秀雄の文章が評論の中心的存在だった。
小林秀雄一流の非常に飛躍の多い、論理的には破綻しているとしか思えない文章が、大学受験国語にはちょうどよかったのだとみる。
これは、それまで長く続いた「文学主義」の尻尾だったのだろうという。
<コメント>
※現在の感覚では、小林秀雄の文章はどれも評論としては読めないと、石原氏はみなしている。
小林秀雄の文章についての評価は、今でも見解が分かれるようである。
なお、上記の著作のうち、高橋昌一郎氏の『小林秀雄の哲学』では、小林秀雄の文章を高く評価している。丸谷才一が亡くなった翌年の2013年、大学センター試験の国語の長文問題に小林秀雄の『鐔(つば)』が出題されたことはよく知られている。
この文章は、小林の骨董に関するエッセイの一部で、日本刀の鐔がどのようなものかを知らない現代の受験生に対して、問題文には21もの脚注が付けられている。
この問題のおかげで、この年の国語の平均点は、前年度から約17点も下回り、センター試験始まって以来の過去最低記録となったそうだ。
この件について、高橋氏は次のようなコメントを付している。
「なぜ膨大な数の小林の著作の中から、この特殊な作品が選ばれたのかは不明である。多くの高校教員から批判されているように、21もの脚注が必要とされる時点で、すでに「現代文」の出題として「不適当」だとみなされるのも当然かもしれない。もし小林が生きていたら、この問題を見て何と言ったか、想像してみるとおもしろい。」
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、23頁~25頁参照のこと)
この点、後日のブログで取り上げてみたい。
〇その次に、加藤周一や林達夫や丸山眞男など、比較的明晰な文章を書いていた評論家たちの時代が来る。
彼らの文章が戦後民主主義を代表するリベラル派、市民社会派の文章として出題されていた時期があった。
しかし、現代の出題者は彼らの文章を積極的に選ばない。その理由は、いわゆる「過去問」とバッティングしてしまう可能性が高いかららしい。
それ以外にも、民主主義の捉え方が変化してきたことも指摘している。
たとえば、丸山眞男の世代にとっては、アメリカの民主主義が理想そのものだった。が、いまアメリカ型の民主主義を純粋に信頼した文章が入試に出題できるかと言えば、無理がある。
※まだ大学生が社会の中の少数派で、大学進学率が2割程度であった時代には、大学生は民主主義を担うエリートとして機能した。それが全国で5割、都市部では6割から7割に達している状況にあっては、大学生も民主主義の消費者にすぎなくなった。(大学生もただの一票、つまり大衆にすぎなくなった)
※入試問題において理念となる価値観は「私の社会化」であり、「社会化された私」であるという。
これは小林秀雄以来連綿とつづく大テーマかもしれない。学校教育の目的が社会への適応にある以上、当然だと言える。「社会化された私」に最大の価値を置くという一点では、入試が学校教育のひとコマである以上、おそらく変わらないと石原氏はみている。
〇「山崎正和、そしてニュー・アカデミズム」
・1970年代以降の一時期には、文学論・芸術論の分野で詩人でもある大岡信と、劇作家でもある山崎正和が一時代を築いた。
特に、山崎正和は、すぐれた芸術論のほかに、近代が到達した大衆社会の解説者として良質の文章を数多く書いた。産業社会が大衆消費社会に移っていく1970年代から80年代にかけた境目の社会状況を目配りよく解説した。つまり、この時代に起きた社会のパラダイム・チェンジをバランスよく解説した。
(現代でも山崎正和は大学受験国語のトップランナーの一人である)
・1970年代後半から1980年代は、ニュー・アカデミズムの全盛期となった。
「近代知」よりも「情念」や「感性」を優先すべきだと説いてきた中村雄二郎が、「ニューアカ」でも先頭を切って走った。特に、『共通感覚論 知の組みかえのために』(岩波書店、1979年)は、ニューアカの基礎を築いた記念碑的な書物だった。中村雄二郎は、大学受験国語でもトップランナーとなった。
※ニューアカの最大の功績は、「哲学」を一部の思想家の「持ち物」ではなく、大衆に開放したことだと言われる。それは大衆消費社会に見合った出来事だった。戦後がサルトルが知識人のファッションだったと時代だとすれば、ニューアカは「哲学」を大衆のファッションに変えた。
※ニューアカの人々の文章が大学受験国語に向いていた理由について、石原氏は次のように考えている。
それまで日本が目標としてきた近代的システムへの疑いをわかりやすい形で解説したところにあるとみる。山崎正和が近代的システム転換期における上質の解説者だったとすれば、ニューアカの人々は近代的システム転換期における上質の批判者だった。それは、時代状況とみごとにシンクロナイズしていた。
〇「ニューアカは新しい時代の象徴」
・ニューアカの人々とは次のような人々をさす。
身体論の市川浩と滝浦静雄、権力論の野村雅一、言語論の池上嘉彦、貨幣論の岩井克人、大衆社会論の上野千鶴子、文化論の多木浩二、子供論の本田和子(ますこ)。
<補足>
※岩井克人の貨幣論、上野千鶴子の大衆社会論から出題された入試問題文については、次回のブログで、
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
石原氏の別著を紹介する際に、取り上げてみることにする。
・ニュー・アカデミズムの評論が大学受験国語で好んで出題されたが、大学受験国語の素材としてちょうどいい、次のような5つの特徴があったという。
①適度に具体例があること。
数少ない具体例から議論を一気に抽象化する彼らの手法が、大学受験国語にはピッタリだった。
②自己を見直す契機となること。
たとえば、市川浩の身体論は、身も心も成長期にある高校生が、変化する身体を見つめることで自己について思いをめぐらすことは難しい思考だったはずなので、大学受験国語にはうってつけだった。
③ふだん意識できない暗黙のルールを暴くニューアカのやり方が、知的興味をよびやすかったこと。
たとえば、岩井克人の貨幣論は、「人はなぜある種の紙切れを「貨幣」と認識するのか」というような、虚を突く問が、高校生に知性を磨く機会を与えた。常識を問い直すことは難しいことだが、それだからこそ大学受験国語にはふさわしかった。
④刷り込まれた価値観の転倒をもくろんだこと。
たとえば、滝浦静雄の身体論は、自分は自分だけで作られるのではないと主張し、自己と他者との重みの違いに気づかせ、ともすると自己中心的な思考にとらわれやすい高校生に刺激を与えることができる。大学受験国語が教育効果をも発揮できた。
⑤ニューアカの評論が、見えない権力をソフトな形で暴いたこと。
たとえば、野村雅一は、身体に刻み込まれた「自然」な動作は、実は近代的な権力が教え込んだものだという指摘し、目に見えにくいソフトなイデオロギーを目に見える形にした。こういう身近なところから高校生に権力について考える機会を提供できた。それは大学受験国語がそれなりの社会性を試すいい機会となった。
〇「ニューアカからカルチュラル・スタディーズへ」
・入試問題文は抽象的な議論だけでも成立しないし、具体例だけでも成立しない。
多少の飛躍を伴いながら、具体から抽象へと論旨が展開していなければならない。
⇒ニューアカの文章はそれが抜群にうまかったようだ。
2000字から3000字程度の文章でそれができた。これが大学受験国語や国語教科書に採用しやすかった最大の理由だった。
・先に挙げた5つのもくろみを見てみると、新しい時代の大学生にふさわしい教養のありかたを思い浮かべることができると、石原氏はいう。
教養が、単に知識の量や高級な趣味を指す時代は終わった。それは、高等教育がごく限られたエリートのものだった時代の話である。
大衆教育社会のいま、教養は思考の柔軟性を意味するものでなければならないとする。
(それは、思考の枠組の変更が自覚的にできるということである)
ニューアカの評論は、高校国語の教材としてもうってつけであった。そして、大学受験国語でも彼らの評論から出題した。
・大学受験国語では、遅れてきたニューアカといった感のある身体論の鷲田清一の独壇場になった。
その評論は、先に示した5つの特徴を過不足なく備えていた。
〇「鷲田清一、あるいは未来形の近代批判と過去形の近代批判」
・バブル崩壊後の1990年代にはいると、大学受験国語も近代批判一本鎗ではやっていけなくなった。(なにしろ近代そのものが壊れてしまったことが明白になったのだから)
・バブルが崩壊して、ますます新しいビジョンが描けなくなったとき、二つの傾向があらわれて来た。
①文章の中にブラックボックスのようなタームを仕掛ける評論の登場である。
世の中が不透明になるとパラレルに、評論も不透明な部分を抱えているものがもてやはされるようになった。
それをみごとに書いたのが、現在大学入試国語のトップランナーとなった鷲田清一であろう。
鷲田清一は、もともとは現象学を専門とする哲学者である。
現象学の得意とするジャンルに身体論があるが、それを応用して『モードの迷宮』(中央公論社、1989年)という秀抜なファッション論を書いたことから、一般にも名前が知られるようになったそうだ。ニューアカの旗手の一人で身体論を切り開いた市川浩の後継者といえる。
(市川が提示した「錯綜体としての身体」というブラックボックス的な身体概念を発展させたのが、鷲田清一である)
また、鷲田清一の文章には、過去形の近代批判と未来形の近代批判とが、バランスよく混在していると、石原氏はみている。
②もう一つの傾向は、大学受験国語にも使われ始めた、斎藤孝の言説に顕著に表れている。
斎藤孝の議論は「後ろ向きのビジョン」と石原氏は呼んでいる。斎藤は「コシ・ハラの文化」を重視し、肚や腰が据わるということが大切だと説く。そのときに戦前の身体(と斎藤が想定するもの)をモデルにしているからである。
(これは、臍下丹田(せいかたんでん)に気をためてという保守的な身体像である。斎藤の論調には、昔に帰ればすべて解決するかのような趣があると、石原氏は批判している。つまり、後ろ向きの近代批判であり、過去形の近代批判であるという。)
※先の見えない日本の状況のなかで、ブラックボックスに逃げ込むか、それとも後ろ向きになるか、どちらかしかないというのが現状だったという。
〇「国語」は「道徳」である
・多くの人は、合格答案作成のためのテクニックがあたかも「国語力」であるかのように錯覚している。あるいは、その錯覚が「国語力」というものの現実である。この点について、石原氏はコメントしている。
・適切そうな選択肢を選ぶとか、文章の趣旨らしきものを読み取るとか、傍線部を別のレベルの表現に言い換えるといった、ごく限定された能力が「国語力」であるという半ば無意識の「合意」ができあがってしまっている。
しかし、正解を正解たらしめる構造、つまりどういう枠組みから問題文が選ばれて、それがどういう設問によって答えへと誘導されるのかという、ある種のイデオロギーのようなものが見えなくなっていると、石原氏はいう。
※入試問題を解く側からはそれでいいかもしれないが、作る側から見れば、少し事情が違ってくるという。
実際には問題文を選ぶ段階ですでにある種の道徳的な(社会的な)自己規制が働き、設問はさらにそれが強く働くように作られる。
設問とは、受験生に読みのコードを与えて、このとおり読んで下さいという指示を出すことにほかならない。その読みのコードを与える段階で、まさに道徳というイデオロギーが強化されていく。(だから、「国語は修身の代用品である」という。)
・「あるべき姿」を説き、刷り込む役割が「国語」に背負い込まされて、次第しだいに道徳教育の側面を強くしていった。「国語は道徳である」と石原氏はいう。
〇答案を書くということ
・最後に、中学入試国語に触れながら、大学受験国語のあり方について、石原氏は提案している。
中学入試国語は6年後の大学受験を視野に入れて作られるので、そこには大学受験国語の特質が凝縮されて現れているものらしい。
最近の中学入試国語においては、評論重視の傾向が顕著になってきているそうだ。
これは近年の大学受験国語の傾向に直結している。大学受験国語が評論重視であったのはかなり以前からだったが、その評論文の基準が変わってきている。
・大学受験国語においては、ふた昔前は小林秀雄の文章が「評論」であり、一昔前は中村雄二郎の文章が「評論」であり、現在は鷲田清一の文章が「評論」とされる。
論理性の重視と難易度上昇の傾向はあまりにも顕著である。
かなりごつい文章を読みこなせないと、現在の大学受験国語には対応できない。その訓練を中学入試国語の段階から積ませようという志向が、近年の評論重視の傾向を作り出しているようだ。
・学校で教える国語が、読解力の養成に加えて、文章の訓練や思考の訓練に多くの時間を費やすべきだという。
読解力といういわば人の言葉を真似る訓練だけでなく、自己表現という個性を養成する領域にも重きを置くべきである。現在の国語教育に最も欠けているのは、文章による自己表現の訓練であると、石原氏は主張している。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、25頁~46頁)
「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「論理的思考とは何か――評論文の読解」と題して、評論文について、石原氏は、次のように章立てして解説している。
一 論理的思考とは何か――評論文の読解
1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
2 「消去法」という魔術――「抽象化能力」を眠らせる方法
1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
・2006年、今後の国語教育に関する中央教育審議会(中教審)が、これまでの教育内容を見直す検討を始めた。
その中で、国語を学習の基本に位置づけること、わけても「論理的思考力」を育てなければならないという趣旨のことが語られている。
(これは、日本人は感情に流されやすく論理的思考力に欠けるという、いつの時代にも流通している日本人論を踏まえた検討だろうと、石原氏はみている)
・大学受験の評論問題は、どのような質の「論理的思考力」を試すように作られているだろうか、という問の立て方で、石原氏は論じている。
その際に、大学受験国語の選択肢問題の雛形(ひながた)とも典型とも言われる大学入試センター試験を分析することで、この問に答えようとしている。
・分析の対象としているのは、2005年に実施された「国語Ⅰ・Ⅱ」の「本試験」である。
問題文は、映画監督の吉田喜重の映画論、『小津安二郎の反映画』(岩波書店、1998年)によっている。
⇒映画監督小津安二郎の魅力を、吉田喜重が語った文章である。
小津映画の不思議な時間感覚の魅力と意味を伝えている。
しかし、文章はいたって平明であるという。
というのは、全体がすっきりした二項対立の記述によって組み立てられているからである。
・だから、本文と選択肢との対応関係を「正確」に把握することが大学受験国語における「国語力」ということになるとする。
〇この文章の論理的構成を把握するために、この文章で用いられている二項対立を挙げている。
<人間の眼/カメラのレンズ>
<見る/見ることの死>
<連続する総体としての世界/(切断された世界)>
<運動/停止>
<空間の拡がり/選び=排除=無視>
<視線を滑らせ=さまざまな視点から自由に眺め/あくまで特定の視点を強要>
<浮遊感=軽やか=移ろいゆく/見入っている時間に至るまできびしく制限>
<剰余の眼の動き=眼の無用な動き/集中=抑圧>
<静止して動くことのない/一方通行的に早い速度で流れる時間>
<(多様な意味)/ひとつの意味>
<見られる/見せる>
<反映画/映画>
※入試国語に出題される評論文は「論理的」であることが求められるが、現在一般的に「論理的」と言われている思考は、単純化すれば<善/悪>という根源的な二項対立によって世界が成り立っていると考えるような世界観によっている。
(これは、特にキリスト教文化圏に特徴的な思考方法だが、近代日本でもこういう思考方法以外の思考方法は、極端に言えば「論理的」とは見なされていないようなところがあると、石原氏はコメントしている)
⇒そこで、入試国語に出題される評論文も二項対立によって整理することができるとする。
したがって、こういう具合に二項対立によって適度に図式化して理解することは、入試国語の基本となる。
(その図式化のために入試国語でキーワードになりそうな言葉を解説した受験参考書も刊行されている。受験生は、そのキーワードを中心にして二項対立の図式を組み上げていく)
※この段階で躓(つまず)くようだと、「論理的思考力が欠けている」ということになる。
〇「読解」の最終的な目的は、最も適切なキーワードを使って問題文を要約することである。
日常的にも、私たちは読書をしたときにはその全文を覚えていられるわけではないので、それを要約して頭の中に収める。
⇒それが読書が身に付いたということの意味である。要約が日常生活で実際に役立つ場合である。だからこそ、「読解力」の最終目的は要約であるという。
・では、この問題文を適切に要約するには、先のキーワード群からどれを選びだせばよいのだろうか。この作業のためには、二つの能力が試されるという。
①大学受験国語ではどういうキーワード群が重要なセットなのかを知っていることである。
(基本的にはかなり抽象化されたキーワードが重要であることが多い)
②どのキーワードが本文の要約にふさわしいかを見分ける能力である。
(キーワード群から、どのキーワードが最も一般的でかつ抽象度が高いかを見分け、そしてそれを使うかが重要)
・この問題文を要約すれば、<一般的な「映画」が見る人を抑圧するのに対して、小津安二郎の「反映画」は見る人を解放する>ということになるとする。
「抑圧」と「解放」の対句仕立てである。
(ただし、この場合、「抑圧」は本文に使われているが、「解放」は使われていないので注意。
二項対立において使われていないもう一つのキーワードを思い浮かばせてセット化する作業を行った結果が、この要約文である)
・記述問題ならば、このようなやり方で、設問に設定された字数制限の8割以上の字数にまでふくらませればいい。
そのときにキーワードの配置を間違えないのが、国語で言う「論理的思考力」ということになるという。
・選択肢問題においては、問うことができる「国語力」はごく限られたものとなる。
①その一つは、前後の文脈を正確に二項対立に図式化する二項対立整理能力である。
②もう一つは、本文の言葉を別のレベルの言葉に置き換える翻訳能力である。
※一般的には、①は「論理的思考力」に近似している。②は「抽象化能力」とでも呼ばれるべき能力に近似している。
ここで言う「抽象化能力」とは、複数の具体的な事例から共通する性質を読み取り、それらを抽象化して一つの言葉にまとめ上げる能力のことである。
現実には、「論理的思考力」と「抽象化能力」とを合わせて、「読解力」と呼んでいると理解してよいようだ。
・ただ、解答の技法から言えば、どちらの問であっても、選択肢問題の宿命として「消去法」を用いざるを得ない。
したがって、評論問題においては、「消去法」を正しく使えることが、選択肢問題における「国語力」であると、石原氏は結論づけている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、111頁~128頁)
「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「想像力的読解とは何か――小説の読解」と題して、小説について、石原氏は解説している。
二 想像力的読解とは何か――小説の読解
・評論文の読解の基本が要約にあるとするなら、小説の読解の基本は「物語」を作ることにあると、石原氏は主張している。
この場合の「物語」とはストーリーというほどの意味である。
・意味や物語は読者には見えない。見えているのは活字である。見えている活字から見えない意味や物語を読むのが文学的想像力の仕事なのである。
これは小説問題の出題原理でもあるという。
〇実際に大学受験国語の小説問題を解くには、二段階の作業が求められるそうだ。
①第一段階は本文を一つの文章にまとめることである。
この文章を「物語文」と呼んでいる。
(中学入試国語では、「物語文」を作る能力がまず試されている)
②次の第二段階の「読解力」が主に大学受験国語では求められる。
それは、「物語文」を基準として「読んだだけではわからない」部分を「読み込む」ことである。いわば「深読み」の能力である。
その「読み込む」ことは、「書かれてはいないが隠されている意味」を「読む」ことではなく、「物語文」(読みの枠組み)に沿って「意味を作る」(=生成する)ことであるという。
(これは文学理論ではもはや常識に属することである)
※これには文学的想像力が深く関わるので、訓練で簡単に身に付くようなものではないらしい。
もし対策があるとすれば、できるだけ多く小説を読み、物語のパターンを身につけるしかない。
※評論文に必要とされる二項対立整理能力が一般的な受験勉強である程度は身に付くのに対して、小説問題が一般的な受験勉強ではなかなか点が上がらないのには、こういう事情があるとする。
〇では、どうすれば小説問題でコンスタントに高得点がとれるようになるのか。
・それは、技術的には先に選択肢を読み、選択肢に示されたキーワードを上手に「物語文」に織り込むことである。
・さらに、そういう訓練を積み重ねて、学校空間で好まれる「物語文」の種類(パターン)を身につけてしまうことである。
(学校空間で好まれる「物語文」とは、道徳的で、主人公が成長し、予定調和的な(つまり、悲劇的でない)物語である)
⇒これを意識しながら繰り返し訓練すれば、小説問題の得点は高いところで安定するはずだという。
☆つぎに、選択肢の問題文を掲載して、具体的に検討している。
問題文は、日本を代表する小説家遠藤周作の『肉親再会』からである。
次の文章は、遠藤周作の小説『肉親再会』の一節で、主人公の「私」が七年ぶりに妹に会いパリを訪れた場面である。
(省略)
・この本文を「物語文」にまとめれば、<かつて生活のために芸術を諦めた兄が、まだ俳優になる希望を捨てていない妹に会うことで、かつての自分を見つめ直す物語>となるという。
⇒「自己発見の物語」か「自己を再認識する物語」として読めばいい。
※小説では、書かれていないことはいくらでも自由に読んでいい。それにもかかわらず「正解」が一つに決められるのは、入試小説問題にはある決まりがあるからであるという。
この小説に即していうならば、こういう予定調和的な物語として読まない限り、「正解」は一つには決められない。それが、入試小説問題の鉄則であるらしい。
・この鉄則を身につけるのには、少し手間がかかる。
①まず、小説を「自由」に読みたい自分を殺さなければならない。
②次に、「学校空間」にふさわしい物語がどういうものかを身につけなければならないという
〇この小説では、芸術への情熱を失わない妹を見て、主人公の「私」はしだいにかつて自分がそれを諦めたことを後悔し始める。しかし、その「後悔」という言葉は書き込まれない。小説の言葉はその周辺を巡るだけである。
一番言いたいことだけを言わないことが、この小説の最大の美点であるとみる。
(文学理論では、「黙説法」と呼ぶ技法であるそうだ)
この問題はなぜ「「後悔」という言葉を語っていないこと」が読者にはわかるのかという点にあると、石原氏は解説している。
〇それは、読者がそれまでの読書体験や人生体験から、「この小説はこうなるだろう」という小説の全体像をどこかに持っていて(文学理論では「期待の地平」という)、それを規範として小説の結末を予想して読むからである。
※入試国語では「正解」は一つに決められてしまう。すなわち、読み方が一つに決められてしまう。(入試国語とはそういう暴力的なものであるともいう)
それを避けて通れないとしたら、「自分の読み方」をとりあえず括弧に括って、入試国語ではどういう原理で読み方が一つに決められてしまうのかを、受験技術として覚えてしまうしかないとする。
(その原理こそが、「学校空間にふさわしいように読むこと」であると石原氏は捉えている)
・この小説の場合は、<経済的な豊かさよりも、貧しくても芸術の方が尊い>という、学校空間的なモラルが入試国語としての読み方を規定している。
(それは、世間一般の「建前的常識」でもある)
それが、入試国語で言う「国語力」というものの正体なのであると、石原氏はいう。
・「物語文」をもっと短くまとめれば、<妹を鏡として、かつての自分を自覚する物語>となる。
ただし、小説の場合はここまで抽象化してしまうと、設問を解くためには役立たないことが多いらしい。入試国語のほとんどは日常を模倣したリアリズム小説からの出題なので、ある程度の具体性を含んだ、適切なレベルの抽象化が求められるからである。
〇小説問題においては、あくまで「物語文」を参照することが基本である。
「消去法」はあまり役に立たないそうだ。だからこそ、小説問題は受験技術を学んだ程度ではなかなか点数が上がらないという。
入試国語においては、評論文からの出題よりも小説からの出題の方が、受験生が持っている能力(国語力)を選別する機能が高いようだ。
※ただし、この場合の「能力」とは広い意味での「学校空間への適応力」のことであると、石原氏は捉えている。
大学受験国語も「学校空間」内部での「試験」の一つである以上、「学校空間への適応力」を早い段階で身につけた子供を確保することは、偏差値の高い大学への進学率が経営上の正否を決める中高一貫校にとっては死活問題であるともいう。
<小説問題についての石原氏の見解>
・小説問題においては、具体性を保持しながらも適度に抽象化された「物語文」を作り、それを参照することが最良の「読解」方法となる。
・また、自由に読むことができる小説問題では、消去法はあまり有効ではない。
・したがって、受験技術で得点が飛躍的に伸びることは期待できないので、「読解力」を試す入試国語としては評論文よりも有効であると、石原氏は判断している。
・さらに言えば、学校空間への適応力を計る入試国語としても、評論問題よりもすぐれているとする。
(ただし、それが果たして小説にとって幸福なことかどうか、あるいは受験生にとって好ましいことかどうかは、別の問題であると断っている)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、134頁~150頁)
石原氏は、入試国語で試される能力について、次のようにまとめている。
〇大学入試センター試験や私立型の選択肢問題で求められ能力
①文脈参照能力
選択肢の言っていることが本文のどこと対応しているのかがわからなければ、出発もできない。
②二項対立整理能力
その上で、二項対立に図式化する二項対立整理能力が試される
③翻訳能力
さらにそれを前提として、本文の言葉を選択肢の言葉と対照する翻訳能力が試される
〇入試国語で試されそうな能力【評論の場合】
①そこが前後の文脈の簡潔なまとめになっている場合。これは文脈要約能力とでも呼べる「能力」としていることになる。
②そこが、論の転回点になっている場合。これは、構成把握能力を試そうとしていることになる。
③そこが全体の中で難解な表現や気取ったわかりにくい表現になっている場合。これは、構成把握能力を前提として、やさしく言い換える翻訳能力を試そうとしていることになる。
④そこが全体のキーワードや決めゼリフや結論になっている場合。これは、テーマ把握能力を試そうとしていることになる。
※【評論の場合】は、大体この4パターンに収まるという。
【小説の場合】は、さらにいくつかの要素が加わる。
⑤行為を中心に書かれているリアリズム小説において(入試国語に出るのはほとんどリアリズム小説)、そのときの登場人物の「気持ち」を問う場合。これは、感情移入能力を試そうとしていることになる。
⑥登場人物の言動の意味を問う場合。これは、意味付け能力を試そうとしていることになる。
※小説問題の場合は、これらが中心である。
(要するに、言葉にできないことを言葉にせよと言っている)
【評論の場合】について、具体的に2題ほど検討している。(ここでは本文・問題文省略)
〇「言葉の残余」と題して、東北大学の問題(2006年施行)
出典は、長谷川宏『ことばへの道 言語意識の存在論』(勁草書房、1978年)から。
長谷川宏は、その後ヘーゲルなどの難解と言われていた哲学書を実にわかりやすい日本語に翻訳した翻訳者として勇名を馳せただけあって、読書の量と質が半端ではないという。現在でも通用する議論を展開している。
本文の全体を見渡して、ひねりやねじれがあるところ、つまり論が展開しているところを見つけ出し、まずは二項対立の図式にまとめることからはじめることになる。
(二項対立の図式をとりあえずの手がかりとして、それに修正を加えながら全体を理解するようにしなければならないという)
この文章の展開は、3回ある。
①<個人の意識=体験/社会的共同的なもの>
②<体験/記号=表現/共同の場>
③<沈黙の体験の秩序/記号=表現の秩序>
④<体験/表現行為の反作用/沈黙の秩序>
【要約】
<体験は個人的なものだが、それを表現したとき社会性を帯びることになる。しかし、表現する必要のない「沈黙の体験」もある。その「沈黙の体験」とそれを表現したものとは別次元にあるが、表現行為それ自体が一つの体験である以上、表現は体験を新たに組み替えていくものとなる>
【さらに短い要約】
<体験とその表現は別次元のものだが、表現行為は一つの体験として体験する主体を変えることができる>
【この文章のテーマ】
・「言語の牢獄」から抜け出す仕組みの解明、その可能性を探ること
※<まとめ>
・記述問題が求めている「国語力」は、記述力を前提として、「情報処理能力」と「文脈要約能力」が中心である。
(下手に「解釈」を入れない方が減点のおそれがない)
・よく、記述問題や小論文の答案に個性がないと嘆く声が聞かれるが、そもそも制限字数が「解釈」を排除しているようでは、個性など求めようがない。
(受験生が「受かる答案」ではなく、「落ちない答案」を書くのはことの必然であるという)
〇「死者は生きている」と題して、東京大学の問題(2006年施行)
出典は、宇都宮輝夫「死と宗教――来世観の歴史性と不変性」(『岩波講座 宗教3 宗教史の可能性』岩波書店、2004年)による。
本文は特にこれといったひねりやねじれもなく、素直な展開を持った文章であるようだ。
二項対立の図式もシンプルなもの。
①<死者/消滅>
②<死者=実在/無>
③<他者の命=自分の命/執着>
【要約】
<宗教の来世観は、死者は消滅しないと考えるところから来ている。したがって、生者と死者は連続していることになるが、この連続性は伝統を形成し社会を安定させるだけでなく、若い他者に道を譲るために死を受け入れる勇気と諦めを支えている。>
【解法】
・問(一)~(四)は、要するに文脈要約能力が試されている。
ただし、それがかなりの広範囲に及ぶところが、高度なのである。逆に言えば、それだけが高度なのであるという。
文脈要約能力が必要とされる記述問題では、問われている傍線部の直前の傍線部から直後の傍線部までの本文を「要約」すれば「正解」となるのがふつうである。
(問題を作る側からすれば、その傍線部の守備範囲が終ったと判断したから次の傍線を引くのだから、当然と言えば当然だろうと、石原氏は付記している)
・問(五)はこれまでの問題と少し違い、本文にはきちんと述べられていない。
それに、二項対立の図式も使えない。ここまで来てはじめて、本文から発展した「解釈」を含んだ解答を求める設問が設定されたとする。
※記述式の評論問題を2題見てわかること。
・試される能力はごく限られたものであることがわかる。これが「国語力」と呼ばれているものの実態なのであるという。
・選択肢問題の方が解くのには複雑な操作が必要かもしれないが、それはかなり特別な能力である。はっきり言えば、受験を終えればほとんど必要がなくなる能力であるという。
・記述問題を解く能力の方が大学に入学してから役立つという事実は厳然としてある。それがいかに没個性的な文章であったとしても、文章力であることには変わりはないからであると、石原氏はコメントしている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、209頁~234頁)
・小説問題の基本は、登場人物の「気持ち」を問うことにある。
そこで、入試国語に採用されている小説のほとんどはリアリズム小説となっている。
しかも、人の心の内面にはあまり触れず、主に外面から人物が書かれている小説である。
(外側から心を読めというわけである)
・どうして小説問題が解けるのか。それは、学校空間では小説の読み方はパターン化されてしまっているからであるという。
大学受験国語でも最も重要なことは、小説を自由に読むことではなく、そのパターンを身につけてしまうことであると石原氏は言い切っている。それができてはじめて、「気持ち」を言葉にすることができるとする。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、234頁)
(2022年8月28日投稿)
【はじめに】
国語力、論理力とは何か?
この疑問を抱きつつ、この夏は次のような著作に目を通してみた。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
〇小林公夫『論理思考の鍛え方』講談社現代新書、2004年
〇小林公夫『法曹への論理学 適性試験で問われる論理力の基礎トレーニング<第3版>』早稲田経営出版、2004年[2006年第3版]
〇渡辺パコ『論理力を鍛えるトレーニングブック』かんき出版、2001年[2006年版]
〇高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年
これらの本に目を通して、受験における国語力とは何か? また国語で試される論理力とはどのようなものか?について考えてみた(論理力はとりわけ国語の選択肢問題で問われることが多い)。
今回のブログでは、大学受験の国語力とは何かをめぐって、上記の著作の中から、石原千秋氏の次の著作を参照しながら、考えてみたい。
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
【石原千秋氏のプロフィール】
・1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。
・現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。
・専攻は日本近代文学
・現代思想を武器に文学テクストを分析、時代状況ともリンクさせた斬新な試みを提出する。
・また、「入試国語」を中心に問題提起を行っている。
【石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)はこちらから】
石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)
〇石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]
【目次】
・はじめに
・第一章 大学受験国語は時代を映す
・第二章 近代の大学受験国語――教養主義の時代
・第三章 大学入試センターが求める国語力
・第四章 私立大学受験国語は二項対立整理能力
・第五章 国立大学受験国語は文脈要約能力
・あとがき
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・はじめに
・第一章 大学受験国語は時代を映す
・論理的思考とは何か――評論文の読解~第三章より
・想像力的読解とは何か――小説の読解~第三章より
・国立大学受験国語は文脈要約能力~第五章より
はじめに
・石原千秋氏は、この本の目的および対象とする読者について、次のようにいう。
①大学受験国語をきっかけに日本の国語教育について考えたいという読者に、その基本的な分析結果を提供すること。
②ただ、実際に大学受験国語の解き方を分析しているので、結果として受験生諸君にも有益な方法を提供することになった。
・石原千秋氏は、この本を執筆する前に、入試国語に関わる本を5冊書いている。
①『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書)
②『評論入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
③『小説入門のための高校入試国語』(NHKブックス)
④『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)
⑤『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)
・このように、中学から大学までの受験国語について書き、結果として五部作になったという。
その他、義務教育の国語教科書論(国語教育論ではない)としては、『国語教科書の思想』(ちくま新書)もある。
主張は同じであるようだ。つまり、「日本の国語教育は道徳教育である」というものである。
・どの本もテーマ別の構成である。
(『大学受験のための小説講義』以外はすべてテーマ別)
これは、国語教育が道徳教育である以上、学校空間で教えられるレパートリーは限られているのだから、紙の上の学校空間とも言える入試国語でも出題できるレパートリーは限られているという分析結果によっているという。
(ただ、大学受験国語はこの縛りが緩い。そして時代のトレンドにも敏感だから、変化が早くしてレパートリーも多少は豊富である)
・先の5冊で入試国語について書いた後、次のような問題意識がわいてきたという。
つまり、入試国語が試している「国語力」とはいったいどういうものなのだろうかという問題意識である。
日本の国語教育を究極のところで規定している大学受験国語の現代文に絞って、この問題を考えてみようと試みた。それが本書の正味のところである。
〇この本は、前半と後半とに分かれている。
・前半では、まず戦後の大学受験国語のトレンドをおさらいする。次に戦前から戦後期の大学受験国語を参照して、現在の大学受験国語との違いを明らかにしている。
⇒この二つの作業によって、現在の大学受験国語の特徴を浮かび上がらせている。
・後半では、実際に現在の大学受験国語を解いている。それまでの本との違いは、解き方に焦点を絞ったところにあるという。
(読解問題が中心となった現在の大学受験国語を考えれば、解き方の方により多く大学受験国語が求める「国語力」の特質が現れていると考えたようだ)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、7頁~9頁)
第一章 大学受験国語は時代を映す
「第一章 大学受験国語は時代を映す」の「小林秀雄と市民社会派の失墜」(25頁~28頁)以降では、戦後の大学受験国語の定番の変遷を振り返っている。
〇昭和40年代後半くらいまで、「高校受験の中村光夫、大学受験の小林秀雄」と言われていたようだ。
つまり、高校受験の水準では中村光夫の「です、ます」体の、当時としては平易な文章が出題された。大学受験になると、何が書いてあるのかサッパリわからない小林秀雄の文章が出題されるという意味だそうだ。
また、文学論では山本健吉の文章も多く出題された。
エッセイという語感が持つ一種の「軽み」もないし、文字通りやや古風な「随筆」という語感がピッタリする。
ところが、少なくとも昭和40年代までは小林秀雄の文章が評論の中心的存在だった。
小林秀雄一流の非常に飛躍の多い、論理的には破綻しているとしか思えない文章が、大学受験国語にはちょうどよかったのだとみる。
これは、それまで長く続いた「文学主義」の尻尾だったのだろうという。
<コメント>
※現在の感覚では、小林秀雄の文章はどれも評論としては読めないと、石原氏はみなしている。
小林秀雄の文章についての評価は、今でも見解が分かれるようである。
なお、上記の著作のうち、高橋昌一郎氏の『小林秀雄の哲学』では、小林秀雄の文章を高く評価している。丸谷才一が亡くなった翌年の2013年、大学センター試験の国語の長文問題に小林秀雄の『鐔(つば)』が出題されたことはよく知られている。
この文章は、小林の骨董に関するエッセイの一部で、日本刀の鐔がどのようなものかを知らない現代の受験生に対して、問題文には21もの脚注が付けられている。
この問題のおかげで、この年の国語の平均点は、前年度から約17点も下回り、センター試験始まって以来の過去最低記録となったそうだ。
この件について、高橋氏は次のようなコメントを付している。
「なぜ膨大な数の小林の著作の中から、この特殊な作品が選ばれたのかは不明である。多くの高校教員から批判されているように、21もの脚注が必要とされる時点で、すでに「現代文」の出題として「不適当」だとみなされるのも当然かもしれない。もし小林が生きていたら、この問題を見て何と言ったか、想像してみるとおもしろい。」
(高橋昌一郎『小林秀雄の哲学』朝日新書、2013年、23頁~25頁参照のこと)
この点、後日のブログで取り上げてみたい。
〇その次に、加藤周一や林達夫や丸山眞男など、比較的明晰な文章を書いていた評論家たちの時代が来る。
彼らの文章が戦後民主主義を代表するリベラル派、市民社会派の文章として出題されていた時期があった。
しかし、現代の出題者は彼らの文章を積極的に選ばない。その理由は、いわゆる「過去問」とバッティングしてしまう可能性が高いかららしい。
それ以外にも、民主主義の捉え方が変化してきたことも指摘している。
たとえば、丸山眞男の世代にとっては、アメリカの民主主義が理想そのものだった。が、いまアメリカ型の民主主義を純粋に信頼した文章が入試に出題できるかと言えば、無理がある。
※まだ大学生が社会の中の少数派で、大学進学率が2割程度であった時代には、大学生は民主主義を担うエリートとして機能した。それが全国で5割、都市部では6割から7割に達している状況にあっては、大学生も民主主義の消費者にすぎなくなった。(大学生もただの一票、つまり大衆にすぎなくなった)
※入試問題において理念となる価値観は「私の社会化」であり、「社会化された私」であるという。
これは小林秀雄以来連綿とつづく大テーマかもしれない。学校教育の目的が社会への適応にある以上、当然だと言える。「社会化された私」に最大の価値を置くという一点では、入試が学校教育のひとコマである以上、おそらく変わらないと石原氏はみている。
〇「山崎正和、そしてニュー・アカデミズム」
・1970年代以降の一時期には、文学論・芸術論の分野で詩人でもある大岡信と、劇作家でもある山崎正和が一時代を築いた。
特に、山崎正和は、すぐれた芸術論のほかに、近代が到達した大衆社会の解説者として良質の文章を数多く書いた。産業社会が大衆消費社会に移っていく1970年代から80年代にかけた境目の社会状況を目配りよく解説した。つまり、この時代に起きた社会のパラダイム・チェンジをバランスよく解説した。
(現代でも山崎正和は大学受験国語のトップランナーの一人である)
・1970年代後半から1980年代は、ニュー・アカデミズムの全盛期となった。
「近代知」よりも「情念」や「感性」を優先すべきだと説いてきた中村雄二郎が、「ニューアカ」でも先頭を切って走った。特に、『共通感覚論 知の組みかえのために』(岩波書店、1979年)は、ニューアカの基礎を築いた記念碑的な書物だった。中村雄二郎は、大学受験国語でもトップランナーとなった。
※ニューアカの最大の功績は、「哲学」を一部の思想家の「持ち物」ではなく、大衆に開放したことだと言われる。それは大衆消費社会に見合った出来事だった。戦後がサルトルが知識人のファッションだったと時代だとすれば、ニューアカは「哲学」を大衆のファッションに変えた。
※ニューアカの人々の文章が大学受験国語に向いていた理由について、石原氏は次のように考えている。
それまで日本が目標としてきた近代的システムへの疑いをわかりやすい形で解説したところにあるとみる。山崎正和が近代的システム転換期における上質の解説者だったとすれば、ニューアカの人々は近代的システム転換期における上質の批判者だった。それは、時代状況とみごとにシンクロナイズしていた。
〇「ニューアカは新しい時代の象徴」
・ニューアカの人々とは次のような人々をさす。
身体論の市川浩と滝浦静雄、権力論の野村雅一、言語論の池上嘉彦、貨幣論の岩井克人、大衆社会論の上野千鶴子、文化論の多木浩二、子供論の本田和子(ますこ)。
<補足>
※岩井克人の貨幣論、上野千鶴子の大衆社会論から出題された入試問題文については、次回のブログで、
〇石原千秋『教養としての大学受験国語』ちくま新書、2000年[2008年版]
石原氏の別著を紹介する際に、取り上げてみることにする。
・ニュー・アカデミズムの評論が大学受験国語で好んで出題されたが、大学受験国語の素材としてちょうどいい、次のような5つの特徴があったという。
①適度に具体例があること。
数少ない具体例から議論を一気に抽象化する彼らの手法が、大学受験国語にはピッタリだった。
②自己を見直す契機となること。
たとえば、市川浩の身体論は、身も心も成長期にある高校生が、変化する身体を見つめることで自己について思いをめぐらすことは難しい思考だったはずなので、大学受験国語にはうってつけだった。
③ふだん意識できない暗黙のルールを暴くニューアカのやり方が、知的興味をよびやすかったこと。
たとえば、岩井克人の貨幣論は、「人はなぜある種の紙切れを「貨幣」と認識するのか」というような、虚を突く問が、高校生に知性を磨く機会を与えた。常識を問い直すことは難しいことだが、それだからこそ大学受験国語にはふさわしかった。
④刷り込まれた価値観の転倒をもくろんだこと。
たとえば、滝浦静雄の身体論は、自分は自分だけで作られるのではないと主張し、自己と他者との重みの違いに気づかせ、ともすると自己中心的な思考にとらわれやすい高校生に刺激を与えることができる。大学受験国語が教育効果をも発揮できた。
⑤ニューアカの評論が、見えない権力をソフトな形で暴いたこと。
たとえば、野村雅一は、身体に刻み込まれた「自然」な動作は、実は近代的な権力が教え込んだものだという指摘し、目に見えにくいソフトなイデオロギーを目に見える形にした。こういう身近なところから高校生に権力について考える機会を提供できた。それは大学受験国語がそれなりの社会性を試すいい機会となった。
〇「ニューアカからカルチュラル・スタディーズへ」
・入試問題文は抽象的な議論だけでも成立しないし、具体例だけでも成立しない。
多少の飛躍を伴いながら、具体から抽象へと論旨が展開していなければならない。
⇒ニューアカの文章はそれが抜群にうまかったようだ。
2000字から3000字程度の文章でそれができた。これが大学受験国語や国語教科書に採用しやすかった最大の理由だった。
・先に挙げた5つのもくろみを見てみると、新しい時代の大学生にふさわしい教養のありかたを思い浮かべることができると、石原氏はいう。
教養が、単に知識の量や高級な趣味を指す時代は終わった。それは、高等教育がごく限られたエリートのものだった時代の話である。
大衆教育社会のいま、教養は思考の柔軟性を意味するものでなければならないとする。
(それは、思考の枠組の変更が自覚的にできるということである)
ニューアカの評論は、高校国語の教材としてもうってつけであった。そして、大学受験国語でも彼らの評論から出題した。
・大学受験国語では、遅れてきたニューアカといった感のある身体論の鷲田清一の独壇場になった。
その評論は、先に示した5つの特徴を過不足なく備えていた。
〇「鷲田清一、あるいは未来形の近代批判と過去形の近代批判」
・バブル崩壊後の1990年代にはいると、大学受験国語も近代批判一本鎗ではやっていけなくなった。(なにしろ近代そのものが壊れてしまったことが明白になったのだから)
・バブルが崩壊して、ますます新しいビジョンが描けなくなったとき、二つの傾向があらわれて来た。
①文章の中にブラックボックスのようなタームを仕掛ける評論の登場である。
世の中が不透明になるとパラレルに、評論も不透明な部分を抱えているものがもてやはされるようになった。
それをみごとに書いたのが、現在大学入試国語のトップランナーとなった鷲田清一であろう。
鷲田清一は、もともとは現象学を専門とする哲学者である。
現象学の得意とするジャンルに身体論があるが、それを応用して『モードの迷宮』(中央公論社、1989年)という秀抜なファッション論を書いたことから、一般にも名前が知られるようになったそうだ。ニューアカの旗手の一人で身体論を切り開いた市川浩の後継者といえる。
(市川が提示した「錯綜体としての身体」というブラックボックス的な身体概念を発展させたのが、鷲田清一である)
また、鷲田清一の文章には、過去形の近代批判と未来形の近代批判とが、バランスよく混在していると、石原氏はみている。
②もう一つの傾向は、大学受験国語にも使われ始めた、斎藤孝の言説に顕著に表れている。
斎藤孝の議論は「後ろ向きのビジョン」と石原氏は呼んでいる。斎藤は「コシ・ハラの文化」を重視し、肚や腰が据わるということが大切だと説く。そのときに戦前の身体(と斎藤が想定するもの)をモデルにしているからである。
(これは、臍下丹田(せいかたんでん)に気をためてという保守的な身体像である。斎藤の論調には、昔に帰ればすべて解決するかのような趣があると、石原氏は批判している。つまり、後ろ向きの近代批判であり、過去形の近代批判であるという。)
※先の見えない日本の状況のなかで、ブラックボックスに逃げ込むか、それとも後ろ向きになるか、どちらかしかないというのが現状だったという。
〇「国語」は「道徳」である
・多くの人は、合格答案作成のためのテクニックがあたかも「国語力」であるかのように錯覚している。あるいは、その錯覚が「国語力」というものの現実である。この点について、石原氏はコメントしている。
・適切そうな選択肢を選ぶとか、文章の趣旨らしきものを読み取るとか、傍線部を別のレベルの表現に言い換えるといった、ごく限定された能力が「国語力」であるという半ば無意識の「合意」ができあがってしまっている。
しかし、正解を正解たらしめる構造、つまりどういう枠組みから問題文が選ばれて、それがどういう設問によって答えへと誘導されるのかという、ある種のイデオロギーのようなものが見えなくなっていると、石原氏はいう。
※入試問題を解く側からはそれでいいかもしれないが、作る側から見れば、少し事情が違ってくるという。
実際には問題文を選ぶ段階ですでにある種の道徳的な(社会的な)自己規制が働き、設問はさらにそれが強く働くように作られる。
設問とは、受験生に読みのコードを与えて、このとおり読んで下さいという指示を出すことにほかならない。その読みのコードを与える段階で、まさに道徳というイデオロギーが強化されていく。(だから、「国語は修身の代用品である」という。)
・「あるべき姿」を説き、刷り込む役割が「国語」に背負い込まされて、次第しだいに道徳教育の側面を強くしていった。「国語は道徳である」と石原氏はいう。
〇答案を書くということ
・最後に、中学入試国語に触れながら、大学受験国語のあり方について、石原氏は提案している。
中学入試国語は6年後の大学受験を視野に入れて作られるので、そこには大学受験国語の特質が凝縮されて現れているものらしい。
最近の中学入試国語においては、評論重視の傾向が顕著になってきているそうだ。
これは近年の大学受験国語の傾向に直結している。大学受験国語が評論重視であったのはかなり以前からだったが、その評論文の基準が変わってきている。
・大学受験国語においては、ふた昔前は小林秀雄の文章が「評論」であり、一昔前は中村雄二郎の文章が「評論」であり、現在は鷲田清一の文章が「評論」とされる。
論理性の重視と難易度上昇の傾向はあまりにも顕著である。
かなりごつい文章を読みこなせないと、現在の大学受験国語には対応できない。その訓練を中学入試国語の段階から積ませようという志向が、近年の評論重視の傾向を作り出しているようだ。
・学校で教える国語が、読解力の養成に加えて、文章の訓練や思考の訓練に多くの時間を費やすべきだという。
読解力といういわば人の言葉を真似る訓練だけでなく、自己表現という個性を養成する領域にも重きを置くべきである。現在の国語教育に最も欠けているのは、文章による自己表現の訓練であると、石原氏は主張している。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、25頁~46頁)
論理的思考とは何か――評論文の読解~第三章より
「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「論理的思考とは何か――評論文の読解」と題して、評論文について、石原氏は、次のように章立てして解説している。
一 論理的思考とは何か――評論文の読解
1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
2 「消去法」という魔術――「抽象化能力」を眠らせる方法
1 二項対立に整理すること――「情報処理」の基本
・2006年、今後の国語教育に関する中央教育審議会(中教審)が、これまでの教育内容を見直す検討を始めた。
その中で、国語を学習の基本に位置づけること、わけても「論理的思考力」を育てなければならないという趣旨のことが語られている。
(これは、日本人は感情に流されやすく論理的思考力に欠けるという、いつの時代にも流通している日本人論を踏まえた検討だろうと、石原氏はみている)
・大学受験の評論問題は、どのような質の「論理的思考力」を試すように作られているだろうか、という問の立て方で、石原氏は論じている。
その際に、大学受験国語の選択肢問題の雛形(ひながた)とも典型とも言われる大学入試センター試験を分析することで、この問に答えようとしている。
・分析の対象としているのは、2005年に実施された「国語Ⅰ・Ⅱ」の「本試験」である。
問題文は、映画監督の吉田喜重の映画論、『小津安二郎の反映画』(岩波書店、1998年)によっている。
⇒映画監督小津安二郎の魅力を、吉田喜重が語った文章である。
小津映画の不思議な時間感覚の魅力と意味を伝えている。
しかし、文章はいたって平明であるという。
というのは、全体がすっきりした二項対立の記述によって組み立てられているからである。
・だから、本文と選択肢との対応関係を「正確」に把握することが大学受験国語における「国語力」ということになるとする。
〇この文章の論理的構成を把握するために、この文章で用いられている二項対立を挙げている。
<人間の眼/カメラのレンズ>
<見る/見ることの死>
<連続する総体としての世界/(切断された世界)>
<運動/停止>
<空間の拡がり/選び=排除=無視>
<視線を滑らせ=さまざまな視点から自由に眺め/あくまで特定の視点を強要>
<浮遊感=軽やか=移ろいゆく/見入っている時間に至るまできびしく制限>
<剰余の眼の動き=眼の無用な動き/集中=抑圧>
<静止して動くことのない/一方通行的に早い速度で流れる時間>
<(多様な意味)/ひとつの意味>
<見られる/見せる>
<反映画/映画>
※入試国語に出題される評論文は「論理的」であることが求められるが、現在一般的に「論理的」と言われている思考は、単純化すれば<善/悪>という根源的な二項対立によって世界が成り立っていると考えるような世界観によっている。
(これは、特にキリスト教文化圏に特徴的な思考方法だが、近代日本でもこういう思考方法以外の思考方法は、極端に言えば「論理的」とは見なされていないようなところがあると、石原氏はコメントしている)
⇒そこで、入試国語に出題される評論文も二項対立によって整理することができるとする。
したがって、こういう具合に二項対立によって適度に図式化して理解することは、入試国語の基本となる。
(その図式化のために入試国語でキーワードになりそうな言葉を解説した受験参考書も刊行されている。受験生は、そのキーワードを中心にして二項対立の図式を組み上げていく)
※この段階で躓(つまず)くようだと、「論理的思考力が欠けている」ということになる。
〇「読解」の最終的な目的は、最も適切なキーワードを使って問題文を要約することである。
日常的にも、私たちは読書をしたときにはその全文を覚えていられるわけではないので、それを要約して頭の中に収める。
⇒それが読書が身に付いたということの意味である。要約が日常生活で実際に役立つ場合である。だからこそ、「読解力」の最終目的は要約であるという。
・では、この問題文を適切に要約するには、先のキーワード群からどれを選びだせばよいのだろうか。この作業のためには、二つの能力が試されるという。
①大学受験国語ではどういうキーワード群が重要なセットなのかを知っていることである。
(基本的にはかなり抽象化されたキーワードが重要であることが多い)
②どのキーワードが本文の要約にふさわしいかを見分ける能力である。
(キーワード群から、どのキーワードが最も一般的でかつ抽象度が高いかを見分け、そしてそれを使うかが重要)
・この問題文を要約すれば、<一般的な「映画」が見る人を抑圧するのに対して、小津安二郎の「反映画」は見る人を解放する>ということになるとする。
「抑圧」と「解放」の対句仕立てである。
(ただし、この場合、「抑圧」は本文に使われているが、「解放」は使われていないので注意。
二項対立において使われていないもう一つのキーワードを思い浮かばせてセット化する作業を行った結果が、この要約文である)
・記述問題ならば、このようなやり方で、設問に設定された字数制限の8割以上の字数にまでふくらませればいい。
そのときにキーワードの配置を間違えないのが、国語で言う「論理的思考力」ということになるという。
・選択肢問題においては、問うことができる「国語力」はごく限られたものとなる。
①その一つは、前後の文脈を正確に二項対立に図式化する二項対立整理能力である。
②もう一つは、本文の言葉を別のレベルの言葉に置き換える翻訳能力である。
※一般的には、①は「論理的思考力」に近似している。②は「抽象化能力」とでも呼ばれるべき能力に近似している。
ここで言う「抽象化能力」とは、複数の具体的な事例から共通する性質を読み取り、それらを抽象化して一つの言葉にまとめ上げる能力のことである。
現実には、「論理的思考力」と「抽象化能力」とを合わせて、「読解力」と呼んでいると理解してよいようだ。
・ただ、解答の技法から言えば、どちらの問であっても、選択肢問題の宿命として「消去法」を用いざるを得ない。
したがって、評論問題においては、「消去法」を正しく使えることが、選択肢問題における「国語力」であると、石原氏は結論づけている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、111頁~128頁)
想像力的読解とは何か――小説の読解~第三章より
「第三章 大学入試センターが求める国語力」において、「想像力的読解とは何か――小説の読解」と題して、小説について、石原氏は解説している。
二 想像力的読解とは何か――小説の読解
・評論文の読解の基本が要約にあるとするなら、小説の読解の基本は「物語」を作ることにあると、石原氏は主張している。
この場合の「物語」とはストーリーというほどの意味である。
・意味や物語は読者には見えない。見えているのは活字である。見えている活字から見えない意味や物語を読むのが文学的想像力の仕事なのである。
これは小説問題の出題原理でもあるという。
〇実際に大学受験国語の小説問題を解くには、二段階の作業が求められるそうだ。
①第一段階は本文を一つの文章にまとめることである。
この文章を「物語文」と呼んでいる。
(中学入試国語では、「物語文」を作る能力がまず試されている)
②次の第二段階の「読解力」が主に大学受験国語では求められる。
それは、「物語文」を基準として「読んだだけではわからない」部分を「読み込む」ことである。いわば「深読み」の能力である。
その「読み込む」ことは、「書かれてはいないが隠されている意味」を「読む」ことではなく、「物語文」(読みの枠組み)に沿って「意味を作る」(=生成する)ことであるという。
(これは文学理論ではもはや常識に属することである)
※これには文学的想像力が深く関わるので、訓練で簡単に身に付くようなものではないらしい。
もし対策があるとすれば、できるだけ多く小説を読み、物語のパターンを身につけるしかない。
※評論文に必要とされる二項対立整理能力が一般的な受験勉強である程度は身に付くのに対して、小説問題が一般的な受験勉強ではなかなか点が上がらないのには、こういう事情があるとする。
〇では、どうすれば小説問題でコンスタントに高得点がとれるようになるのか。
・それは、技術的には先に選択肢を読み、選択肢に示されたキーワードを上手に「物語文」に織り込むことである。
・さらに、そういう訓練を積み重ねて、学校空間で好まれる「物語文」の種類(パターン)を身につけてしまうことである。
(学校空間で好まれる「物語文」とは、道徳的で、主人公が成長し、予定調和的な(つまり、悲劇的でない)物語である)
⇒これを意識しながら繰り返し訓練すれば、小説問題の得点は高いところで安定するはずだという。
☆つぎに、選択肢の問題文を掲載して、具体的に検討している。
問題文は、日本を代表する小説家遠藤周作の『肉親再会』からである。
次の文章は、遠藤周作の小説『肉親再会』の一節で、主人公の「私」が七年ぶりに妹に会いパリを訪れた場面である。
(省略)
・この本文を「物語文」にまとめれば、<かつて生活のために芸術を諦めた兄が、まだ俳優になる希望を捨てていない妹に会うことで、かつての自分を見つめ直す物語>となるという。
⇒「自己発見の物語」か「自己を再認識する物語」として読めばいい。
※小説では、書かれていないことはいくらでも自由に読んでいい。それにもかかわらず「正解」が一つに決められるのは、入試小説問題にはある決まりがあるからであるという。
この小説に即していうならば、こういう予定調和的な物語として読まない限り、「正解」は一つには決められない。それが、入試小説問題の鉄則であるらしい。
・この鉄則を身につけるのには、少し手間がかかる。
①まず、小説を「自由」に読みたい自分を殺さなければならない。
②次に、「学校空間」にふさわしい物語がどういうものかを身につけなければならないという
〇この小説では、芸術への情熱を失わない妹を見て、主人公の「私」はしだいにかつて自分がそれを諦めたことを後悔し始める。しかし、その「後悔」という言葉は書き込まれない。小説の言葉はその周辺を巡るだけである。
一番言いたいことだけを言わないことが、この小説の最大の美点であるとみる。
(文学理論では、「黙説法」と呼ぶ技法であるそうだ)
この問題はなぜ「「後悔」という言葉を語っていないこと」が読者にはわかるのかという点にあると、石原氏は解説している。
〇それは、読者がそれまでの読書体験や人生体験から、「この小説はこうなるだろう」という小説の全体像をどこかに持っていて(文学理論では「期待の地平」という)、それを規範として小説の結末を予想して読むからである。
※入試国語では「正解」は一つに決められてしまう。すなわち、読み方が一つに決められてしまう。(入試国語とはそういう暴力的なものであるともいう)
それを避けて通れないとしたら、「自分の読み方」をとりあえず括弧に括って、入試国語ではどういう原理で読み方が一つに決められてしまうのかを、受験技術として覚えてしまうしかないとする。
(その原理こそが、「学校空間にふさわしいように読むこと」であると石原氏は捉えている)
・この小説の場合は、<経済的な豊かさよりも、貧しくても芸術の方が尊い>という、学校空間的なモラルが入試国語としての読み方を規定している。
(それは、世間一般の「建前的常識」でもある)
それが、入試国語で言う「国語力」というものの正体なのであると、石原氏はいう。
・「物語文」をもっと短くまとめれば、<妹を鏡として、かつての自分を自覚する物語>となる。
ただし、小説の場合はここまで抽象化してしまうと、設問を解くためには役立たないことが多いらしい。入試国語のほとんどは日常を模倣したリアリズム小説からの出題なので、ある程度の具体性を含んだ、適切なレベルの抽象化が求められるからである。
〇小説問題においては、あくまで「物語文」を参照することが基本である。
「消去法」はあまり役に立たないそうだ。だからこそ、小説問題は受験技術を学んだ程度ではなかなか点数が上がらないという。
入試国語においては、評論文からの出題よりも小説からの出題の方が、受験生が持っている能力(国語力)を選別する機能が高いようだ。
※ただし、この場合の「能力」とは広い意味での「学校空間への適応力」のことであると、石原氏は捉えている。
大学受験国語も「学校空間」内部での「試験」の一つである以上、「学校空間への適応力」を早い段階で身につけた子供を確保することは、偏差値の高い大学への進学率が経営上の正否を決める中高一貫校にとっては死活問題であるともいう。
<小説問題についての石原氏の見解>
・小説問題においては、具体性を保持しながらも適度に抽象化された「物語文」を作り、それを参照することが最良の「読解」方法となる。
・また、自由に読むことができる小説問題では、消去法はあまり有効ではない。
・したがって、受験技術で得点が飛躍的に伸びることは期待できないので、「読解力」を試す入試国語としては評論文よりも有効であると、石原氏は判断している。
・さらに言えば、学校空間への適応力を計る入試国語としても、評論問題よりもすぐれているとする。
(ただし、それが果たして小説にとって幸福なことかどうか、あるいは受験生にとって好ましいことかどうかは、別の問題であると断っている)
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、134頁~150頁)
国立大学受験国語は文脈要約能力~第五章より
石原氏は、入試国語で試される能力について、次のようにまとめている。
〇大学入試センター試験や私立型の選択肢問題で求められ能力
①文脈参照能力
選択肢の言っていることが本文のどこと対応しているのかがわからなければ、出発もできない。
②二項対立整理能力
その上で、二項対立に図式化する二項対立整理能力が試される
③翻訳能力
さらにそれを前提として、本文の言葉を選択肢の言葉と対照する翻訳能力が試される
〇入試国語で試されそうな能力【評論の場合】
①そこが前後の文脈の簡潔なまとめになっている場合。これは文脈要約能力とでも呼べる「能力」としていることになる。
②そこが、論の転回点になっている場合。これは、構成把握能力を試そうとしていることになる。
③そこが全体の中で難解な表現や気取ったわかりにくい表現になっている場合。これは、構成把握能力を前提として、やさしく言い換える翻訳能力を試そうとしていることになる。
④そこが全体のキーワードや決めゼリフや結論になっている場合。これは、テーマ把握能力を試そうとしていることになる。
※【評論の場合】は、大体この4パターンに収まるという。
【小説の場合】は、さらにいくつかの要素が加わる。
⑤行為を中心に書かれているリアリズム小説において(入試国語に出るのはほとんどリアリズム小説)、そのときの登場人物の「気持ち」を問う場合。これは、感情移入能力を試そうとしていることになる。
⑥登場人物の言動の意味を問う場合。これは、意味付け能力を試そうとしていることになる。
※小説問題の場合は、これらが中心である。
(要するに、言葉にできないことを言葉にせよと言っている)
【評論の場合】
【評論の場合】について、具体的に2題ほど検討している。(ここでは本文・問題文省略)
〇「言葉の残余」と題して、東北大学の問題(2006年施行)
出典は、長谷川宏『ことばへの道 言語意識の存在論』(勁草書房、1978年)から。
長谷川宏は、その後ヘーゲルなどの難解と言われていた哲学書を実にわかりやすい日本語に翻訳した翻訳者として勇名を馳せただけあって、読書の量と質が半端ではないという。現在でも通用する議論を展開している。
本文の全体を見渡して、ひねりやねじれがあるところ、つまり論が展開しているところを見つけ出し、まずは二項対立の図式にまとめることからはじめることになる。
(二項対立の図式をとりあえずの手がかりとして、それに修正を加えながら全体を理解するようにしなければならないという)
この文章の展開は、3回ある。
①<個人の意識=体験/社会的共同的なもの>
②<体験/記号=表現/共同の場>
③<沈黙の体験の秩序/記号=表現の秩序>
④<体験/表現行為の反作用/沈黙の秩序>
【要約】
<体験は個人的なものだが、それを表現したとき社会性を帯びることになる。しかし、表現する必要のない「沈黙の体験」もある。その「沈黙の体験」とそれを表現したものとは別次元にあるが、表現行為それ自体が一つの体験である以上、表現は体験を新たに組み替えていくものとなる>
【さらに短い要約】
<体験とその表現は別次元のものだが、表現行為は一つの体験として体験する主体を変えることができる>
【この文章のテーマ】
・「言語の牢獄」から抜け出す仕組みの解明、その可能性を探ること
※<まとめ>
・記述問題が求めている「国語力」は、記述力を前提として、「情報処理能力」と「文脈要約能力」が中心である。
(下手に「解釈」を入れない方が減点のおそれがない)
・よく、記述問題や小論文の答案に個性がないと嘆く声が聞かれるが、そもそも制限字数が「解釈」を排除しているようでは、個性など求めようがない。
(受験生が「受かる答案」ではなく、「落ちない答案」を書くのはことの必然であるという)
〇「死者は生きている」と題して、東京大学の問題(2006年施行)
出典は、宇都宮輝夫「死と宗教――来世観の歴史性と不変性」(『岩波講座 宗教3 宗教史の可能性』岩波書店、2004年)による。
本文は特にこれといったひねりやねじれもなく、素直な展開を持った文章であるようだ。
二項対立の図式もシンプルなもの。
①<死者/消滅>
②<死者=実在/無>
③<他者の命=自分の命/執着>
【要約】
<宗教の来世観は、死者は消滅しないと考えるところから来ている。したがって、生者と死者は連続していることになるが、この連続性は伝統を形成し社会を安定させるだけでなく、若い他者に道を譲るために死を受け入れる勇気と諦めを支えている。>
【解法】
・問(一)~(四)は、要するに文脈要約能力が試されている。
ただし、それがかなりの広範囲に及ぶところが、高度なのである。逆に言えば、それだけが高度なのであるという。
文脈要約能力が必要とされる記述問題では、問われている傍線部の直前の傍線部から直後の傍線部までの本文を「要約」すれば「正解」となるのがふつうである。
(問題を作る側からすれば、その傍線部の守備範囲が終ったと判断したから次の傍線を引くのだから、当然と言えば当然だろうと、石原氏は付記している)
・問(五)はこれまでの問題と少し違い、本文にはきちんと述べられていない。
それに、二項対立の図式も使えない。ここまで来てはじめて、本文から発展した「解釈」を含んだ解答を求める設問が設定されたとする。
※記述式の評論問題を2題見てわかること。
・試される能力はごく限られたものであることがわかる。これが「国語力」と呼ばれているものの実態なのであるという。
・選択肢問題の方が解くのには複雑な操作が必要かもしれないが、それはかなり特別な能力である。はっきり言えば、受験を終えればほとんど必要がなくなる能力であるという。
・記述問題を解く能力の方が大学に入学してから役立つという事実は厳然としてある。それがいかに没個性的な文章であったとしても、文章力であることには変わりはないからであると、石原氏はコメントしている。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、209頁~234頁)
【小説の場合】
・小説問題の基本は、登場人物の「気持ち」を問うことにある。
そこで、入試国語に採用されている小説のほとんどはリアリズム小説となっている。
しかも、人の心の内面にはあまり触れず、主に外面から人物が書かれている小説である。
(外側から心を読めというわけである)
・どうして小説問題が解けるのか。それは、学校空間では小説の読み方はパターン化されてしまっているからであるという。
大学受験国語でも最も重要なことは、小説を自由に読むことではなく、そのパターンを身につけてしまうことであると石原氏は言い切っている。それができてはじめて、「気持ち」を言葉にすることができるとする。
(石原千秋『秘伝 大学受験の国語力』新潮選書、2007年[2008年版]、234頁)
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