≪中野京子『はじめてのルーヴル』を読んで その6 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第16、17章の2章の内容を紹介してみたい。
次の2点の絵画が中心に解説されている。
〇アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
アントワーヌ・カロン(1521~1599)
またはアンリ・ルランベール
『アモルの葬列』
1580年頃 164cm×209cm リシュリュー翼3階展示室10
写実主義の画家クールベは、「天使など見たことがない。だから描かない」と言った。
現実世界から遠い神々や天使、古代史の一場面などの主題にしがみついたままのアカデミーに対する批判であったようだ。逆に、象徴派のモローは「眼に見えないもの、感じるものしか信じない」と言っている。
ヨーロッパの美術館は天使にあふれており、ルーヴルで天使探しをすれば、途中で数えるのに飽きるほどであるといわれる(善天使、堕天使、顔しかない天使、キューピッド風天使など)。
天使とは何かと定義するのは、かなりややこしいようだ。
文字どおり、「天の使い」という日本語訳も混乱に拍車をかけているし、そもそも日本人にとって天使に善役と悪役がいるということ自体、形容矛盾とも感じられる。
そこで、一応の定義として、「神より下、人間より上の霊的存在が天使」としている。悪い天使というのは、かつて天使だったルシファーが神に反逆して悪魔に堕したものだそうだ。
紀元5世紀には、善い天使(御使い)にも階級制度が導入され、3階級9種類の天使がいたらしい。
〇第1階級~熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使
※熾天使は神への愛で燃えているため赤い色で、智天使は智にあふれていて、色は青であり、座天使は特に色の指定がない。
※モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場する恋に恋した若者、ケルビーノの名は、智天使(ケルビム)からきているという。
〇第2階級~主天使、力天使、能天使
※星と四大元素を支配するが、絵画にはほとんど描かれない。
〇第3階級~権(ごん)天使、大天使、天使
※大天使には、悪魔と戦うミカエル、処女マリアに受胎告知するガブリエル、若者や旅人の守護者ラファエルが有名である。美術作品への登場回数はきわめて多い。
※天使はたいてい群れをなしている。もともとは髭の男性がイメージされていたようだが、ルネサンス期の両性具有的で光輪を持つ姿を経て、バロック期に有翼(ゆうよく)の幼児姿へと変じたため、クピドと見分けがつかなくなったそうだ。
ここに問題点の1つがあると中野氏は指摘している。
すなわち、天使階級の末端にいる天使を、バロックの画家たちが、ギリシア・ローマ神話におけるクピド(キューピッド、アモル、エロス)と同じ姿形に描いたために、宗教画と神話画の区別が難しくなったという。
次にクピドとは何かというのも、ややこしい。クピドはヴィーナスの息子である。
(ただし、父は誰かわからず、戦の神マルス説、ゼウス説、また無性生殖説があるようだ)
クピドは愛を司り、その黄金の矢に射られた者は恋の虜となる。
このいたずらな愛の神は、初めのうち優美な若者として描かれたが、やがて少年となり、ついには幼児となった。
クピドは画面に増殖してゆき、彼らがいるだけで愛のテーマが暗示されるというコンセンサスもできてくる。
西洋人も区別するのがめんどうになったらしく、有翼幼児をひとまとめにして、「プットー(ラテン語の「男の子」が語源)と呼ぶことにしたそうだ。こうしてプットーは、ある時は天使、ある時はヴィーナスの息子、ある時は単なる愛の印となる。判別するには、聖書に関連した人物の周りにいわば天使、ゼウスやヴィーナスなど神話の登場人物の周りにいればクピドとなると中野氏は説明している。
グールモンのこの絵画も、ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室9にある。
これは、聖母マリアが厩(うまや)でイエスを産むこと、羊飼いたちが拝みにやって来た、という聖書の一節を絵画化した作品である。
絵画では、厩ではなく、壮麗なローマ建築の廃墟が舞台となっている。そして聖家族や羊飼いより、プットーたちの方が目立っている。彼らの中には、雲霞(うんか)のごとく飛び回っている。
これらのプットーは天使である。天井近くの中央部には、顔だけの天使3人が隊列を組んでホバリングしているのが注目される。これこそ、天使たちの最高峰、ケルビムやセラフィムであるそうだ。
一方、第2章でみたヴァトーの『シテール島の巡礼』にも、画面左手、船の上を飛翔しているプットーがいた。彼らは、天使ではなく、神話の住人クピドである。というのは、このシテール島が愛欲と美の女神ヴィーナスを祀っているからである。
このようにプットーを区別しうると、中野氏は説明している。ちなみにキューピー人形につても付言している。
日本人は、羽をつけた「はだかんぼう赤ちゃん」といえば、キューピー人形をイメージする。アメリカ産キューピー(Kewpie)はスペルこそ故意に変えたものだが、もちろんクピド(キューピッド Cupid)をモチーフにしたものである。
ただ、天使の種類については、画家も間違ったり、画面の効果のため勝手に変更したりするので注意を要する。例えば、フーケの『ムーランの聖母子』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がそうである。
ここには聖母を天へ運ぶ赤いセラフィムと青いケルビムが描かれているが、本来なら顔だけのはずの第一級天使が胴体を持ち、しかも翼にまで色が付いている(ただし、この絵の場合、椅子ごと持ち上げるため、手足が必要だったかもしれないと中野氏は推測している)
タイトルに天使か否かが明記されていれば、話が早い。
カロン(ないしカロン工房)作『アモルの葬列』がそうである。
原題の「アモル」は単数形であるから、アモルたちが担ぐ死者は人間ではなく、仲間のひとりだとわかる。
技術的には、下手うま絵の部類に属するようだが、その着想の奇抜さが面白いと中野氏は評している。
画面全体も葬列のわりに明るく、黒頭巾姿のアモルたちはチャーミングだし、主題は謎めいており、日本人に人気な作品だそうだ。
舞台は古代ローマで、アモルたちは死んだ仲間を、月の女神ディアナの神殿に運ぼうとしている(天空にはその処女神自らが金の橇[そり]に乗っている)。
本作の完成年は特定されておらず、1580年頃とされる。なぜなら、1560年代半ばに死去した有名人がいるからである。それは、アンリ2世の寵姫だった絶世の美女ディアーヌ(ディアナのフランス語読み)である。
またカロンは、宮廷詩人ロンサールと仲が良かった。プレイヤッド派の筆頭ロンサールは、詩集『讃歌集』において宮廷を神話世界になぞらえている。アンリ2世をローマ神話最高神ユピテル(ゼウス)に、王妃カトリーヌ・ド・メディシスをその妻ユノ(ヘラ)に、愛妾ディアヌ・ド・ポワティエを女神ディアナに見立てて讃えた。
これらの事実から、『アモルの葬列』において、柩に横たわる蒼白のキューピッドは、肌の透きとおる白さで知られたディアーヌと解釈されている。おおぜいの詩人を従え、葬列の後ろで指揮するのはロンサールであるとされる。
ところで、当時でさえ、アンリ2世のディアーヌへの執心ぶりは驚嘆の的だった。ふたりの出合いは11歳と31歳の時である。まだ王太子だったアンリの教育係として、20歳も年上の未亡人ディアーヌがあらわれた。美しさと賢さを備えた彼女に少年は恋をし、王になっても、正妃カトリーヌ・ド・メディシスを娶っても、その思いは揺るがなかった。この運命的な恋は何と30年近くも続いた。アモルの矢に貫かれた神秘のなせる愛ともみなされた。しかし、40歳のアンリ2世が、馬上槍試合で事故死し、恋人たちに別れが突然やってくる(有名なノストラダムスの予言がからむともいわれる)。
ディアーヌは田舎に退き、7年後、66歳で病死した。引き続き宮廷詩人の座に留まったロンサールは、ディアーヌがいた頃の華やかな宮廷を懐かしんだことであろう。
アンリの死後、政治の実権は妃カトリーヌに握られ、国は宗教内紛(「ユグノー戦争」へ発展)へ突入していく。
『アモルの葬列』はそんな頃、描かれた。
しかし一つ奇妙な点があると中野氏は付言している。
カロンが直接仕えていたのは、アンリではなく妃カトリーヌだった。彼女の恋仇ともいうべきディアーヌの王への讃美するのは許されるのか? それとも本作は反カトリーヌ派の貴族に依頼されたものか? そもそもこの絵はディアーヌにもアンリにも全く無関係なのか?
実は本作も、近年アンリ・ルランベール作という説が出されているという。
(作者が確定するまでは、魅惑のディアーヌとこの死んだクピドを結びつけておくことにすると中野氏は断っている)
(中野、2016年[2017年版]、212頁~224頁)
ダ・ヴィンチ(1452~1519)
『モナ・リザ』
1503~1506年 77cm×53cm ドゥノン翼2階展示室6
中野氏は、『モナ・リザ』を解説するにあたり、ポプラの木の話から始めている。
周知のように、物品としての『モナ・リザ』は、カンバスに描かれたものではなく、ポプラ材である。すでに500年以上も経っているので、環境の変化に弱く、脆い。保護ガラスを付けた上、7~8センチの防弾ガラス付きで完全防御されるのも、やむをえない。
このフランスの至宝は、1962年にアメリカへ、1974年に日本と旧ソ連に貸与され、1911年の盗難事件のときにイタリアへ持ち出されたことがある。しかし、もう二度と海外へ貸し出される可能性もない。ルーヴル門外不出の傑作である。
次にレオナルドの生い立ちを述べている。周知のように、レオナルド・ダ・ヴィンチという名は、「ヴィンチ村のレオナルド」の意で、トスカナ地方のヴィンチ村で生まれたので、そう呼ばれる。
公証人をしていた父と、若い女性の間に生まれた庶子だった。まもなく父は別の女性と結婚し、村を出てしまい、実母も2年足らずで他の男性へ嫁いだので、レオナルドは父方の祖父母のもとで正式な教育は授けられずに育った。
(庶子は公証人のようなエリート職にはつけられず、両親とりわけ母親の欠落は精神面に影響があったであろう)
中野氏は、幼い頃からのレオナルドの特徴として、姿形の美しさ、旺盛な好奇心と移り気を挙げている。好奇心とセットになった移り気は死ぬまで変わらなかった。レオナルドの関心は絵画や彫刻だけでなく、建築学など幅広く、死体の解剖も30体ほど試みた。そして左手ですらすら書かれた鏡文字で、膨大な手稿(5300ページ分が現存)を遺したことは有名である。
老年になるまで興味の的が変わり、なかなか完成させられない欠点があった。このことは、ヴァザーリも『ルネサンス画人伝』において「彼があれほど気まぐれで不安定でなければ、その博識と学問上の知識から多大な利益を引き出せたであろうに」と記している。
未完成に終わらせるこの癖は、レオナルドの完璧主義というもう一面からきているとも、満足へのハードルが高すぎたともいえる。『モナ・リザ』さえも未完なのだから。
さて、巨匠の第一歩は、14歳でヴィンチ村を出て、フィレンツェでもっとも盛名あるヴェロッキオ工房に入った時に始まる。その後、20歳で独立して画家組合に登録された。
この頃の作とされる『受胎告知』は、花の雌蕊と雄蕊を敢えて描き入れることで、聖書の処女受胎のありえなさをひそかに暴いたとされる。24歳のとき、男色容疑で逮捕されるという危機もあったが、幸い無罪放免となる。
レオナルドには、ラファエロのように大規模工房を経営して、多作に励み、後継者を育成しようという能力も興味もなかった。また生涯独身で、少数の弟子や美少年を連れ、パトロンを求めて、イタリア各地を転々とした。
(端的に言えば、変人であると中野氏はみなす)。
30歳でミラノ公イル・モーロに気に入られ、ミラノへ移住する。
ここでは、次の2点を完成させる。
〇『岩窟の聖母』
(ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5、グランドギャラリー)
〇『最後の晩餐』
(イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)
ただし、どちらも大きな問題を残した。
『岩窟の聖母』の方は、依頼者である教会との契約を守らず、訴訟沙汰のあげく、もう1枚描かねばならなくなる。
(ただし、ヴァージョンをレオナルド本人が全て描いたかどうか疑問符がつく。こちらはロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵であるが、ルーヴル版より見劣りする)
最初に描いた作品は依頼者が受け取りを拒否したため、巡り巡ってルーヴルに収まった。モナ・リザにも匹敵する魅惑の天使が登場する傑作であり、教会側に見る目がなかったとしか言いようがないと中野氏はみている)
次に『最後の晩餐』については、画像消滅問題である。
本来、壁画にふさわしいのは、フレスコ画法である。漆喰を下塗りし、それが乾かないうちに顔料で描く画法である。しかし、手早さが必要な上、修正がきかないという欠点がある。レオナルドのように完璧主義者がもっとも嫌う技法である。
そこで、レオナルドは、顔料に卵や油などを混ぜるテンペラで仕上げた。案の定、完成直後から顔料が剥落してしまう。
さて、レオナルドは47歳でミラノを去ることになる。フランス軍が進撃し、イル・モーロが失脚したことによる。マントヴァ、ヴェネチアとまわり、再びフィレンツェへ戻る。かのチェーザレ・ボルジアのもと、建築総監督の職を得る。この時、次の作品を手がけている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇壁画『アンギアリの戦い』
政府から依頼され着手したが、またもフレスコではなく、顔料に蝋を混ぜた独自の油彩を使い、早く乾かそうと火を当てたので、顔料が溶け、大失態となり幻の大傑作となってしまう。嫌気がさしてそのまま放り出してしまう。
54歳でまたもミラノに移る。フランス人総督シャルル・ダンボワーズに庇護され、絵画はほとんど描かず、好きな研究をして過ごしたが、7年後に終わりを迎える。ダンボワーズの急逝とミラノの政治情勢の悪化が原因であった。
61歳のレオナルドは、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招待により、ローマに移るが、ここも安住の地にはならなかった。3年後、ジュリアーノが病死して後ろ盾を失ったことによる。
フランス王の若き王フランソワ1世が救いの手を差しのべる。右手も麻痺し、もはや大作完成は不可能なレオナルドは、ようやく放浪の旅を終える。
フランソワ1世は以前からこのイタリアの巨匠に心酔していたので、豪華な邸宅と高額の年金で遇して敬意を表した。
レオナルドは二度と故郷に戻らぬつもりで、全ての荷を馬車に積んだが、そこには、次の3点の絵画が含まれている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー
(※2作品の制作年代、サイズは不記載)
レオナルドは3年近い悠々自適の余生を送る。
ここで中野氏は、『モナ・リザ』の解説をしている。
まず最初に、『モナ・リザ』については、語り尽くされ研究し尽くされた感があると断っている。イメージはあふれかえり、すでに大衆向けイコン(聖画像)の域に達している。詩やポップスやSF小説にまで取り上げられ、デュシャンの髭モナ・リザなどのパロディ画も多い。
こうなると、現代日本人が偏見のない目でモナ・リザに向き合うのは、至難の業だともいう。夏目漱石の小説集『永日小品』で、「気味の悪い顔です事ねえ」「此の女は何をするか分らない人相だ」という明治時代の主婦がもらした感想が新鮮に思えるほどだと中野氏は嘆いている。
『モナ・リザ』の解説は、まずモデル問題について言及している。
モデルに関しては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステだとか、レオナルド本人だとか、さまざまな説があった。しかし、2008年、ハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが見つかり、長年の論争に決着がついたとみている。
その書き込みには、
「レオナルド・ダ・ヴィンチは今三枚の絵を描いており、その一つがジョコンド夫人のリザである」
とある。
これにより、ヴァザーリの時代から言われていたとおり、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、この絵の別名が『ジョコンダ』なのも正しかったと中野氏は述べている。
しかしそれなら、なぜ注文主に渡さなかったのかという疑問がわく。
この点については、これが未完だったからかもしれないとする。
例えば、椅子の肘掛けに置いた左手をよく見ると、人差し指と中指が、まだ指としての体(てい)を成していないし、小指も不完全だとわかる。
画面では、いわゆる回廊の円柱に注意を促している。
椅子の背の向こうは手摺りになって、その厚みの部分に半円の黒いもの(画面両側)が見えるが、円柱であろうとみられている。というのは『モナ・リザ』を見て感動したラファエロがいくつか似た作品を描いており、どれにも回廊の円柱が描き込まれているからである。したがって『モナ・リザ』は両端を切り取られた可能性がある。
次に背景について目を向けている。この背景は明らかに現実の景色ではないという。
地平線が右は高く、左は低い。視線も右は鳥瞰的だが、左はそれより下からのもので、両者は繋がらない。右に古代のローマ水道橋が見えているので、左は原初の風景、右は文明時代を示すという説がある。
いずれにせよ、レオナルドが特別に好んだものは、岩石と水であった。『モナ・リザ』のドレスの複雑な模様も水の性質に関連するかもしれないともいわれている。
周知のように、『モナ・リザ』はスフマート手法で描かれている。
スフマートとは「煙」からきた言葉で、明暗の微妙で繊細な諧調によって、輪郭線を靄(もや)のようにぼかす効果のことである。
ダ・ヴィンチはその『絵画論』において、「現実の色彩には固有の色がない。物体には線としての輪郭はない」と記している。この言葉どおり、スフマート技法で描かれたリザ夫人は、まるで生きてそこにいるかのように生々しいと感じられる。
次に、『モナ・リザ』の笑みと顔について触れている。
この絵の吸引力は、彼女の不思議な笑みと顔にある。
ここで中野氏は、顔に関する心理実験を例に引いている。
つまり、個人より複数の女性の顔をコンピューターで合成した顔の方が、美人と認知される確率が高まるそうだ。それも10人20人と数多くなればなるほど魅力的と結論づけられるという。
それはつまり平均的な顔ということになり、実在しない顔ということになる。これは、モナ・リザの普遍的イメージに似ていると中野氏は主張している。
ところで、通常の肖像画では、家紋や宝石などモデルを特定するためのヒントを画面に入れるものなのに、ダ・ヴィンチはいっさいそれをしていない。というのは、たとえモデルはリザ夫人でも、ダ・ヴィンチがその先に求めたのは、それこそコンピューター合成のような、どこにも実在しない究極の美だったと中野氏は私見を述べている。
(中野、2016年[2017年版]、225頁~239頁)
【補注】
※夏目漱石の『永日小品』については、以前のブログで触れたことがあった。次の記事を参照にして頂きたい。
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫
(2020年4月18日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
今回は、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])の第16、17章の2章の内容を紹介してみたい。
次の2点の絵画が中心に解説されている。
〇アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
〇レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
第16章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール『アモルの葬列』
・西洋絵画と天使
・天使の種類
・クピドについて
・プットーについて
・ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について
・カロン作『アモルの葬列』について
第17章 モナ・リザ レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
・『モナ・リザ』とポプラの木
・レオナルドの生涯と作品
・『モナ・リザ』について
第⑯章 天使とキューピッド アントワーヌ・カロンまたはアンリ・ルランベール 『アモルの葬列』
アントワーヌ・カロン(1521~1599)
またはアンリ・ルランベール
『アモルの葬列』
1580年頃 164cm×209cm リシュリュー翼3階展示室10
西洋絵画と天使
写実主義の画家クールベは、「天使など見たことがない。だから描かない」と言った。
現実世界から遠い神々や天使、古代史の一場面などの主題にしがみついたままのアカデミーに対する批判であったようだ。逆に、象徴派のモローは「眼に見えないもの、感じるものしか信じない」と言っている。
ヨーロッパの美術館は天使にあふれており、ルーヴルで天使探しをすれば、途中で数えるのに飽きるほどであるといわれる(善天使、堕天使、顔しかない天使、キューピッド風天使など)。
天使とは何かと定義するのは、かなりややこしいようだ。
文字どおり、「天の使い」という日本語訳も混乱に拍車をかけているし、そもそも日本人にとって天使に善役と悪役がいるということ自体、形容矛盾とも感じられる。
そこで、一応の定義として、「神より下、人間より上の霊的存在が天使」としている。悪い天使というのは、かつて天使だったルシファーが神に反逆して悪魔に堕したものだそうだ。
天使の種類
紀元5世紀には、善い天使(御使い)にも階級制度が導入され、3階級9種類の天使がいたらしい。
〇第1階級~熾天使(セラフィム)、智天使(ケルビム)、座天使
※熾天使は神への愛で燃えているため赤い色で、智天使は智にあふれていて、色は青であり、座天使は特に色の指定がない。
※モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』に登場する恋に恋した若者、ケルビーノの名は、智天使(ケルビム)からきているという。
〇第2階級~主天使、力天使、能天使
※星と四大元素を支配するが、絵画にはほとんど描かれない。
〇第3階級~権(ごん)天使、大天使、天使
※大天使には、悪魔と戦うミカエル、処女マリアに受胎告知するガブリエル、若者や旅人の守護者ラファエルが有名である。美術作品への登場回数はきわめて多い。
※天使はたいてい群れをなしている。もともとは髭の男性がイメージされていたようだが、ルネサンス期の両性具有的で光輪を持つ姿を経て、バロック期に有翼(ゆうよく)の幼児姿へと変じたため、クピドと見分けがつかなくなったそうだ。
ここに問題点の1つがあると中野氏は指摘している。
すなわち、天使階級の末端にいる天使を、バロックの画家たちが、ギリシア・ローマ神話におけるクピド(キューピッド、アモル、エロス)と同じ姿形に描いたために、宗教画と神話画の区別が難しくなったという。
クピドについて
次にクピドとは何かというのも、ややこしい。クピドはヴィーナスの息子である。
(ただし、父は誰かわからず、戦の神マルス説、ゼウス説、また無性生殖説があるようだ)
クピドは愛を司り、その黄金の矢に射られた者は恋の虜となる。
このいたずらな愛の神は、初めのうち優美な若者として描かれたが、やがて少年となり、ついには幼児となった。
クピドは画面に増殖してゆき、彼らがいるだけで愛のテーマが暗示されるというコンセンサスもできてくる。
プットーについて
西洋人も区別するのがめんどうになったらしく、有翼幼児をひとまとめにして、「プットー(ラテン語の「男の子」が語源)と呼ぶことにしたそうだ。こうしてプットーは、ある時は天使、ある時はヴィーナスの息子、ある時は単なる愛の印となる。判別するには、聖書に関連した人物の周りにいわば天使、ゼウスやヴィーナスなど神話の登場人物の周りにいればクピドとなると中野氏は説明している。
ジャン・ド・グールモン『羊飼いの礼拝』について
グールモンのこの絵画も、ルーヴル美術館リシュリュー翼3階展示室9にある。
これは、聖母マリアが厩(うまや)でイエスを産むこと、羊飼いたちが拝みにやって来た、という聖書の一節を絵画化した作品である。
絵画では、厩ではなく、壮麗なローマ建築の廃墟が舞台となっている。そして聖家族や羊飼いより、プットーたちの方が目立っている。彼らの中には、雲霞(うんか)のごとく飛び回っている。
これらのプットーは天使である。天井近くの中央部には、顔だけの天使3人が隊列を組んでホバリングしているのが注目される。これこそ、天使たちの最高峰、ケルビムやセラフィムであるそうだ。
一方、第2章でみたヴァトーの『シテール島の巡礼』にも、画面左手、船の上を飛翔しているプットーがいた。彼らは、天使ではなく、神話の住人クピドである。というのは、このシテール島が愛欲と美の女神ヴィーナスを祀っているからである。
このようにプットーを区別しうると、中野氏は説明している。ちなみにキューピー人形につても付言している。
日本人は、羽をつけた「はだかんぼう赤ちゃん」といえば、キューピー人形をイメージする。アメリカ産キューピー(Kewpie)はスペルこそ故意に変えたものだが、もちろんクピド(キューピッド Cupid)をモチーフにしたものである。
ただ、天使の種類については、画家も間違ったり、画面の効果のため勝手に変更したりするので注意を要する。例えば、フーケの『ムーランの聖母子』(ベルギーのアントワープ王立美術館蔵)がそうである。
ここには聖母を天へ運ぶ赤いセラフィムと青いケルビムが描かれているが、本来なら顔だけのはずの第一級天使が胴体を持ち、しかも翼にまで色が付いている(ただし、この絵の場合、椅子ごと持ち上げるため、手足が必要だったかもしれないと中野氏は推測している)
カロン作『アモルの葬列』について
タイトルに天使か否かが明記されていれば、話が早い。
カロン(ないしカロン工房)作『アモルの葬列』がそうである。
原題の「アモル」は単数形であるから、アモルたちが担ぐ死者は人間ではなく、仲間のひとりだとわかる。
技術的には、下手うま絵の部類に属するようだが、その着想の奇抜さが面白いと中野氏は評している。
画面全体も葬列のわりに明るく、黒頭巾姿のアモルたちはチャーミングだし、主題は謎めいており、日本人に人気な作品だそうだ。
舞台は古代ローマで、アモルたちは死んだ仲間を、月の女神ディアナの神殿に運ぼうとしている(天空にはその処女神自らが金の橇[そり]に乗っている)。
本作の完成年は特定されておらず、1580年頃とされる。なぜなら、1560年代半ばに死去した有名人がいるからである。それは、アンリ2世の寵姫だった絶世の美女ディアーヌ(ディアナのフランス語読み)である。
またカロンは、宮廷詩人ロンサールと仲が良かった。プレイヤッド派の筆頭ロンサールは、詩集『讃歌集』において宮廷を神話世界になぞらえている。アンリ2世をローマ神話最高神ユピテル(ゼウス)に、王妃カトリーヌ・ド・メディシスをその妻ユノ(ヘラ)に、愛妾ディアヌ・ド・ポワティエを女神ディアナに見立てて讃えた。
これらの事実から、『アモルの葬列』において、柩に横たわる蒼白のキューピッドは、肌の透きとおる白さで知られたディアーヌと解釈されている。おおぜいの詩人を従え、葬列の後ろで指揮するのはロンサールであるとされる。
ところで、当時でさえ、アンリ2世のディアーヌへの執心ぶりは驚嘆の的だった。ふたりの出合いは11歳と31歳の時である。まだ王太子だったアンリの教育係として、20歳も年上の未亡人ディアーヌがあらわれた。美しさと賢さを備えた彼女に少年は恋をし、王になっても、正妃カトリーヌ・ド・メディシスを娶っても、その思いは揺るがなかった。この運命的な恋は何と30年近くも続いた。アモルの矢に貫かれた神秘のなせる愛ともみなされた。しかし、40歳のアンリ2世が、馬上槍試合で事故死し、恋人たちに別れが突然やってくる(有名なノストラダムスの予言がからむともいわれる)。
ディアーヌは田舎に退き、7年後、66歳で病死した。引き続き宮廷詩人の座に留まったロンサールは、ディアーヌがいた頃の華やかな宮廷を懐かしんだことであろう。
アンリの死後、政治の実権は妃カトリーヌに握られ、国は宗教内紛(「ユグノー戦争」へ発展)へ突入していく。
『アモルの葬列』はそんな頃、描かれた。
しかし一つ奇妙な点があると中野氏は付言している。
カロンが直接仕えていたのは、アンリではなく妃カトリーヌだった。彼女の恋仇ともいうべきディアーヌの王への讃美するのは許されるのか? それとも本作は反カトリーヌ派の貴族に依頼されたものか? そもそもこの絵はディアーヌにもアンリにも全く無関係なのか?
実は本作も、近年アンリ・ルランベール作という説が出されているという。
(作者が確定するまでは、魅惑のディアーヌとこの死んだクピドを結びつけておくことにすると中野氏は断っている)
(中野、2016年[2017年版]、212頁~224頁)
第⑰章 モナ・リザ レオナルド・ダ・ヴィンチ『モナ・リザ』
ダ・ヴィンチ(1452~1519)
『モナ・リザ』
1503~1506年 77cm×53cm ドゥノン翼2階展示室6
『モナ・リザ』とポプラの木
中野氏は、『モナ・リザ』を解説するにあたり、ポプラの木の話から始めている。
周知のように、物品としての『モナ・リザ』は、カンバスに描かれたものではなく、ポプラ材である。すでに500年以上も経っているので、環境の変化に弱く、脆い。保護ガラスを付けた上、7~8センチの防弾ガラス付きで完全防御されるのも、やむをえない。
このフランスの至宝は、1962年にアメリカへ、1974年に日本と旧ソ連に貸与され、1911年の盗難事件のときにイタリアへ持ち出されたことがある。しかし、もう二度と海外へ貸し出される可能性もない。ルーヴル門外不出の傑作である。
レオナルドの生涯と作品
次にレオナルドの生い立ちを述べている。周知のように、レオナルド・ダ・ヴィンチという名は、「ヴィンチ村のレオナルド」の意で、トスカナ地方のヴィンチ村で生まれたので、そう呼ばれる。
公証人をしていた父と、若い女性の間に生まれた庶子だった。まもなく父は別の女性と結婚し、村を出てしまい、実母も2年足らずで他の男性へ嫁いだので、レオナルドは父方の祖父母のもとで正式な教育は授けられずに育った。
(庶子は公証人のようなエリート職にはつけられず、両親とりわけ母親の欠落は精神面に影響があったであろう)
中野氏は、幼い頃からのレオナルドの特徴として、姿形の美しさ、旺盛な好奇心と移り気を挙げている。好奇心とセットになった移り気は死ぬまで変わらなかった。レオナルドの関心は絵画や彫刻だけでなく、建築学など幅広く、死体の解剖も30体ほど試みた。そして左手ですらすら書かれた鏡文字で、膨大な手稿(5300ページ分が現存)を遺したことは有名である。
老年になるまで興味の的が変わり、なかなか完成させられない欠点があった。このことは、ヴァザーリも『ルネサンス画人伝』において「彼があれほど気まぐれで不安定でなければ、その博識と学問上の知識から多大な利益を引き出せたであろうに」と記している。
未完成に終わらせるこの癖は、レオナルドの完璧主義というもう一面からきているとも、満足へのハードルが高すぎたともいえる。『モナ・リザ』さえも未完なのだから。
さて、巨匠の第一歩は、14歳でヴィンチ村を出て、フィレンツェでもっとも盛名あるヴェロッキオ工房に入った時に始まる。その後、20歳で独立して画家組合に登録された。
この頃の作とされる『受胎告知』は、花の雌蕊と雄蕊を敢えて描き入れることで、聖書の処女受胎のありえなさをひそかに暴いたとされる。24歳のとき、男色容疑で逮捕されるという危機もあったが、幸い無罪放免となる。
レオナルドには、ラファエロのように大規模工房を経営して、多作に励み、後継者を育成しようという能力も興味もなかった。また生涯独身で、少数の弟子や美少年を連れ、パトロンを求めて、イタリア各地を転々とした。
(端的に言えば、変人であると中野氏はみなす)。
30歳でミラノ公イル・モーロに気に入られ、ミラノへ移住する。
ここでは、次の2点を完成させる。
〇『岩窟の聖母』
(ルーヴル美術館、ドゥノン翼2階展示室5、グランドギャラリー)
〇『最後の晩餐』
(イタリアのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院蔵)
ただし、どちらも大きな問題を残した。
『岩窟の聖母』の方は、依頼者である教会との契約を守らず、訴訟沙汰のあげく、もう1枚描かねばならなくなる。
(ただし、ヴァージョンをレオナルド本人が全て描いたかどうか疑問符がつく。こちらはロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵であるが、ルーヴル版より見劣りする)
最初に描いた作品は依頼者が受け取りを拒否したため、巡り巡ってルーヴルに収まった。モナ・リザにも匹敵する魅惑の天使が登場する傑作であり、教会側に見る目がなかったとしか言いようがないと中野氏はみている)
次に『最後の晩餐』については、画像消滅問題である。
本来、壁画にふさわしいのは、フレスコ画法である。漆喰を下塗りし、それが乾かないうちに顔料で描く画法である。しかし、手早さが必要な上、修正がきかないという欠点がある。レオナルドのように完璧主義者がもっとも嫌う技法である。
そこで、レオナルドは、顔料に卵や油などを混ぜるテンペラで仕上げた。案の定、完成直後から顔料が剥落してしまう。
さて、レオナルドは47歳でミラノを去ることになる。フランス軍が進撃し、イル・モーロが失脚したことによる。マントヴァ、ヴェネチアとまわり、再びフィレンツェへ戻る。かのチェーザレ・ボルジアのもと、建築総監督の職を得る。この時、次の作品を手がけている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇壁画『アンギアリの戦い』
政府から依頼され着手したが、またもフレスコではなく、顔料に蝋を混ぜた独自の油彩を使い、早く乾かそうと火を当てたので、顔料が溶け、大失態となり幻の大傑作となってしまう。嫌気がさしてそのまま放り出してしまう。
54歳でまたもミラノに移る。フランス人総督シャルル・ダンボワーズに庇護され、絵画はほとんど描かず、好きな研究をして過ごしたが、7年後に終わりを迎える。ダンボワーズの急逝とミラノの政治情勢の悪化が原因であった。
61歳のレオナルドは、教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの招待により、ローマに移るが、ここも安住の地にはならなかった。3年後、ジュリアーノが病死して後ろ盾を失ったことによる。
フランス王の若き王フランソワ1世が救いの手を差しのべる。右手も麻痺し、もはや大作完成は不可能なレオナルドは、ようやく放浪の旅を終える。
フランソワ1世は以前からこのイタリアの巨匠に心酔していたので、豪華な邸宅と高額の年金で遇して敬意を表した。
レオナルドは二度と故郷に戻らぬつもりで、全ての荷を馬車に積んだが、そこには、次の3点の絵画が含まれている。
〇『モナ・リザ』1503~1506年 77㎝×53㎝ ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6
〇『聖アンナと聖母子』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5 グランドギャラリー
〇『洗礼者ヨハネ』ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室5グランドギャラリー
(※2作品の制作年代、サイズは不記載)
レオナルドは3年近い悠々自適の余生を送る。
『モナ・リザ』について
ここで中野氏は、『モナ・リザ』の解説をしている。
まず最初に、『モナ・リザ』については、語り尽くされ研究し尽くされた感があると断っている。イメージはあふれかえり、すでに大衆向けイコン(聖画像)の域に達している。詩やポップスやSF小説にまで取り上げられ、デュシャンの髭モナ・リザなどのパロディ画も多い。
こうなると、現代日本人が偏見のない目でモナ・リザに向き合うのは、至難の業だともいう。夏目漱石の小説集『永日小品』で、「気味の悪い顔です事ねえ」「此の女は何をするか分らない人相だ」という明治時代の主婦がもらした感想が新鮮に思えるほどだと中野氏は嘆いている。
『モナ・リザ』の解説は、まずモデル問題について言及している。
モデルに関しては、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステだとか、レオナルド本人だとか、さまざまな説があった。しかし、2008年、ハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが見つかり、長年の論争に決着がついたとみている。
その書き込みには、
「レオナルド・ダ・ヴィンチは今三枚の絵を描いており、その一つがジョコンド夫人のリザである」
とある。
これにより、ヴァザーリの時代から言われていたとおり、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで、この絵の別名が『ジョコンダ』なのも正しかったと中野氏は述べている。
しかしそれなら、なぜ注文主に渡さなかったのかという疑問がわく。
この点については、これが未完だったからかもしれないとする。
例えば、椅子の肘掛けに置いた左手をよく見ると、人差し指と中指が、まだ指としての体(てい)を成していないし、小指も不完全だとわかる。
画面では、いわゆる回廊の円柱に注意を促している。
椅子の背の向こうは手摺りになって、その厚みの部分に半円の黒いもの(画面両側)が見えるが、円柱であろうとみられている。というのは『モナ・リザ』を見て感動したラファエロがいくつか似た作品を描いており、どれにも回廊の円柱が描き込まれているからである。したがって『モナ・リザ』は両端を切り取られた可能性がある。
次に背景について目を向けている。この背景は明らかに現実の景色ではないという。
地平線が右は高く、左は低い。視線も右は鳥瞰的だが、左はそれより下からのもので、両者は繋がらない。右に古代のローマ水道橋が見えているので、左は原初の風景、右は文明時代を示すという説がある。
いずれにせよ、レオナルドが特別に好んだものは、岩石と水であった。『モナ・リザ』のドレスの複雑な模様も水の性質に関連するかもしれないともいわれている。
周知のように、『モナ・リザ』はスフマート手法で描かれている。
スフマートとは「煙」からきた言葉で、明暗の微妙で繊細な諧調によって、輪郭線を靄(もや)のようにぼかす効果のことである。
ダ・ヴィンチはその『絵画論』において、「現実の色彩には固有の色がない。物体には線としての輪郭はない」と記している。この言葉どおり、スフマート技法で描かれたリザ夫人は、まるで生きてそこにいるかのように生々しいと感じられる。
次に、『モナ・リザ』の笑みと顔について触れている。
この絵の吸引力は、彼女の不思議な笑みと顔にある。
ここで中野氏は、顔に関する心理実験を例に引いている。
つまり、個人より複数の女性の顔をコンピューターで合成した顔の方が、美人と認知される確率が高まるそうだ。それも10人20人と数多くなればなるほど魅力的と結論づけられるという。
それはつまり平均的な顔ということになり、実在しない顔ということになる。これは、モナ・リザの普遍的イメージに似ていると中野氏は主張している。
ところで、通常の肖像画では、家紋や宝石などモデルを特定するためのヒントを画面に入れるものなのに、ダ・ヴィンチはいっさいそれをしていない。というのは、たとえモデルはリザ夫人でも、ダ・ヴィンチがその先に求めたのは、それこそコンピューター合成のような、どこにも実在しない究極の美だったと中野氏は私見を述べている。
(中野、2016年[2017年版]、225頁~239頁)
【補注】
≪元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ』を読んで その3 私のブック・レポート≫
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