前回に引き続き、川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像描かれなかったドラマ』(講談社+α文庫、2015年)の内容と紹介して、私の感想とコメントを記してみたい。
川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)
今回は、7枚目の『ガブリエル・デストレとその妹』から紹介してみたい。今回の執筆項目次のようになる。
ブルボン王朝創始者アンリ4世の愛妾だったガブリエル・デストレについて、川島氏は、次のように形容している。
「女として生まれたからには、そのひとつでも授かりたいものと願うことのすべてを備えていたのが、ガブリエル・デストレ」であるという。彼女は「自然が生んだ傑作」と呼ばれていた。
ルーヴルのフォンテーヌブロー派の『ガブリエル・デストレとその妹』という絵は、右にガブリエル、左に妹のヴィヤール公爵夫人が描かれている。妹が姉の胸に触れているが、それは姉が子どもを宿していることを意味している。また、二人の後ろには、生まれる子どもの産衣を縫っている侍女の姿が見える。
絵の制作は、1594年とされている。この年の前年1593年7月25日、ガブリエルの進言、願いに従って、プロテスタントからカトリックに改宗している。そして、翌年1594年6月7日に、ガブリエルは国王の最初の息子、後のヴァンドーム公爵セザールを生み、幸せの絶頂にいた(それからわずか5年後に、ガブリエルは28歳の若い生涯を閉じてしまうのだが)。
ガブリエル・デストレがアンリ4世に出会ったのは、19歳のときだったが、国王には既に王妃がいた。
その王妃は、通称マルゴと呼ばれた。アンリ2世と、カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれた末娘、マルグリット・ド・ヴァロアである。
マルゴは、母に似ず、非の打ち所のない美人であった。イタリアのメディチ家出身の母と異なり、フランス語も完璧だし、知識も豊富だった。しかし、マルゴは、病的なほど男好きで、これが大きな欠点であった。
母カトリーヌがそんな娘の結婚相手として選んだのは、アンリ・ド・ブルボンという男であった。ピレネー山脈のふもとにある小さなナバラ王国の国王で、しかもプロテスタントの指導者だった。
当時、フランスはカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争が激化していた。それを解消するために、カトリックのマルゴをプロテスタントのアンリに嫁がせ、国に平和をもたらしたいというのが、母カトリーヌの思惑だった。カトリーヌは、夫アンリ2世が騎馬試合で負傷して世を去った後、摂政を行っていたので、決定権をもっていた。カトリーヌには、3人の息子がいたが、どの息子も後継者を残さず、直系子孫は絶えた。そこでカトリーヌは、マルゴの夫アンリ・ド・ブルボンに国を任せようとした。
1589年、思いがけずにフランス国王の座に就いたアンリ・ド・ブルボンは、アンリ4世の名のもとに統治する(フランス最後の王朝となるブルボン王朝を築く)。
ガブリエル・デストレは、侯爵家という家柄に生まれ、無比の美貌に恵まれていた。ただ、その家は無類の多情な家系であり、ガブリエルも15歳のころから、その徴候が現れたようだ(母フランソワーズも破格の情熱家で、若い侯爵に夢中になり、夫も娘ガブリエルも捨てて駆け落ちしてしまい、叔母スルディ夫人がガブリエルを育てた)。
その妖艶なガブリエルは、ピカルディ地方のクーヴル城に暮らしていたが、両手にあまるほどの愛人がいた。その一人アンリ4世の家臣ベルガド公爵に、ガブリエルは特に好意を抱いていた。ベルガドは、そのことが自慢で、ある日国王にもその話をしたところ、アンリ4世がぜひともガブリエルに会いたいと言い出した。
国王の希望であるから、ベルガドは1590年11月、アンリ4世を、ガブリエルが住むクーヴル城へお連れした。すると国王は彼女に一目ぼれしたが、肝心のガブリエルは、ベルガドにしか目になかった。このことは、自分の誘惑を拒否する女性などいなかった国王にとって衝撃であったが、アンリ4世のガブリエルへの想いは、その後ますます激しくなる。
ガブリエルの方も、徐々に心を開くようになった。その陰には、ガブリエルの父、叔父、叔母の執拗な説得があったようだ。
そして出会いから半年後の1591年5月、ガブリエルはついにアンリ4世の愛妾になる。ただ、ガブリエルは、ベルガドへの愛を断ち切ることはできず、国王が戦場に出陣すると、ベルガドと密会した。
すると、国王は、ガブリエルを結婚させることを思いつき、ダメルヴァルという小さな領土を所有するふたりの子持ち男を選び、彼女をダメルヴァル夫人としてしまう。それ以降も、国王の愛妾であることに変わりはなかった。
ところで、ガブリエルは、外見的魅力を備えているだけではなく、知性と優れた判断力をもつ女性でもあった。そして自分が正しいと思うことは、君主であっても、躊躇することなく、進言する女性だった。
長年続いていたカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争に、アンリ4世が終止符を打つことができたのは、その陰に、ガブリエルの進言があったからであるといわれる。
プロテスタントのアンリ4世は国王になったとはいえ、首都パリはカトリックの手中にあり、彼らはアンリ4世をフランス国王認めない強硬な態度をとった。アンリ4世はそれに武力で対抗していた。
ところが、ガブリエルは、アンリ4世に、プロテスタントからカトリックに改宗し、平和的解決をすることが賢明であるとすすめたのである。それ以前にも側近が何度も進言していたが、国王は聞く耳を持たなかったが、ガブリエルの願いとあって、国王は改宗を決心した。1593年7月25日のことだった。
その翌年1594年6月、ガブリエルはアンリ4世の息子を出産する。王妃マルゴとの間に子どもがいなかったので、国王は大層喜んだそうだ。
国王の子どもを生み、ますます自信を持ったガブリエルは、夫と離婚し、2番目、3番目の子どもを生む。宮廷で幅をきかせるようになった。ガブリエルは、国王とマルゴを離婚させ、自分が正式に王妃の座につくことを望んだ。
ガブリエルとの結婚はアンリ4世も望んでいた。後はマルゴの承認が必要なだけであるが、その当時、マルゴは宮廷から追い出され、オヴェルニュ地方の城塞に住んでいた。夫から再婚相手がガブリエルだと知らされると、国王に3人の子どもを授けたとはいえ、名のない小貴族出身であり、男性遍歴が噂されていた愛妾を、王妃に昇格させることには大反対であった。
それでも、アンリ4世は、交渉を重ねて、ついにマルゴに離婚に同意させた。
アンリ4世は、一刻も早く正式の妃にすることを望んだが、思いもよらない突然の出来事が起こる。それは1599年4月のことである。
4人目の子どもを身ごもっていたガブリエルは、イタリア人の財政家の館で食事をしていると、突然に苦しみ出し、その翌日苦しみから解放されることなく、息を引き取ってしまう(死因は急性脳溢血の可能性が強いとされているが、今でも毒殺説は消えていない)。
国王は、その死をひどく悼み、パリの中心にあるサン・ジェルマン・ローセワ教会で葬儀を行い、遺体は彼女の妹(アンジェリック・デストレ)が指導者となっていた、モービュイソン修道院に手厚く埋葬させた。
ただ、ガブリエルが世を去った後、彼女の妹ヴィヤール公爵夫人がアンリ4世の愛人になった。ルーヴルの絵で、左側の方の女性である。国王が、マリー・ド・メディシスと再婚した後も、ヴィヤール公爵夫人は愛妾の座を保っていたが、しばらくして宮廷から離れていった。
多くの愛人を持ったアンリ4世だったが、心底から愛したのは、ガブリエルだけだったといわれる。それほど、ガブリエル・デストレは、比類なき女性であったようだ。
(川島、2015年、103頁~121頁)。
バロックの巨匠ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、マリーの生涯の歩みを24枚の連作で描いた大作である。
マリー・ド・メディシス(1573-1642)は、イタリアの大富豪メディチ家出身で、フランス国王アンリ4世の妃に選ばれ、多額の持参金とともに、マルセイユからフランス入りした女性である。
ルーベンスの大作は、マリーの誕生から始まり、結婚や統治など、彼女の人生の主だった場面を描いている。作品の依頼主はマリー自身だった。自らの偉大さを後世に残すために、神格化したり美化したりして、マリーは美しく、威厳があるように描かれている。
アンリ4世がマリー・ド・メディシスを妃として迎えたのは、1600年である。それは、最初の妃マルグリット・ド・ヴァロア(通称マルゴ)と離婚した翌年のことだった。
当時のフランスは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争で、国庫は枯渇していたので、それを救うために、フィレンツェの大富豪メディチ家に目をつける。
27歳のマリーは、当時にしては、婚期を逸しており、特筆するほど美人ではなかった。ただ、豊満な体が魅力的だった。
しかし、フランス語は片言程度で、破格の財産家に生まれ育ったためか、わがままで、浪費家であった。
一方、多情なアンリ4世には複数の愛人がいて、マリーは不満であった。その上、マリーは語学力が充分でないため、周囲とも打ち解けられず、孤独であった。それでもふたりの間には6人の子どもが生まれた。1601年に生まれた第一子は王子で、後のルイ13世である(フォンテーヌブロー城で誕生したときの様子も、ルーヴルの連作に描かれている)。
また、後のルイ13世はマリーと仲たがいし、実の母を追放処分にすることになる。
第一子誕生から約9年後、1610年、マリーの夫アンリ4世が暗殺されてしまう。犯人は強硬派のカトリック信者ラヴァイヤックだった。
かつてアンリ4世は、フランスを二分していた宗教戦争に終止符を打つために、1598年、ナントの勅令を発布し、プロテスタントにも信仰の自由を与えた。それに不満を抱いたのが、この犯人だった。
父の不慮の死で、8歳の王太子がルイ13世として即位し、母マリーが摂政となった。しかし、マリーには政治力もなければ、国事への興味もなく、側近に頼るばかりだった(カトリーヌ・ド・メディシスが、夫アンリ2世亡き後、摂政を立派に務めたのと対照的である)。
マリーが信頼を寄せていたのは、彼女と同郷のフィレンツェ生まれのコンチーニだった。そのコンチーニの一番の功績は、もともと聖職者だったリシュリューの才覚に目をつけたことである。リシュリューは、ルイ13世の時代の宰相として、華々しい足跡を歴史に残した。
さらに、コンチーニは、ルイ13世の妃として、スペイン王フェリペ3世の王女アンヌ・ドートリッシュを選ぶことを、マリーに進言した。当時のスペインは、ハプスブルク家の支配下にあり、フランスとハプスブルクとの間の戦いに終止符を打つのが目的であった。そして、この結婚により、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの間に、ルイ14世が誕生することになる(いうまでもなく、ルイ14世は、絶対王政を確立し、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建築し、フランス最大の国王と謳われる)。
マリーの庇護を受けていたコンチーニは、元帥の称号を得て、まるで一国の君主かと思うほどの権力を振るい始めるようになる。ルイ13世も、そのような傲慢なコンチーニに敵意を抱くようになる。15歳の国王と反コンチーニ派の貴族は結束し、1617年、国王の命令によるコンチーニ暗殺が実行された。
彼の妻レオノーラは、バスティーユ監獄に閉じ込められた後、魔女の汚名をきせられ、斬首刑に処せられた。国王の母であるマリーは息子の命令で捕えられ、ロワール河畔のブロワ城に軟禁される。マリーは息子に対して反乱を起こそうとしたことがあったが、未然におさえられてしまう。その後、1621年、国王に信頼されていたリシュリューが仲介して、国王とその母マリーが和解することになる。
ルーヴルの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、その翌年にマリーがルーベンスに依頼した作品である。マリーの住まいだったパリのリュクサンブール宮殿の壁を飾っていた。夫亡き後のマリーは、それまで暮らしていた重苦しい建築様式のルーヴル宮を嫌うようになり、自分に相応しい宮殿がほしいと思うようになる。セーヌ河左岸のリュクサンブール公の広大な土地を、公爵から買い上げ、生まれ故郷フィレンツェの宮殿を模倣して、陽光あふれる宮殿を完成させた(現在、旧リュクサンブール宮殿には上院が置かれ、その庭園はパリ市民の憩いの場である)。
ところで、1630年、母后マリーは再び反乱を起こす。今度はリシュリューのことが原因であった。宰相であり、枢機卿でもあったリシュリューは権力を握りすぎるとして、自尊心の強いマリーは、国王を説得して、リシュリューを失脚させようとした。しかし、歴史に名を残すほどのやり手であるリシュリューは、クーデターを鎮圧し、マリーは再び囚われの身となり、パリの地にあるコンピニーニュ城に監禁されてしまう。
1631年、マリーは脱出して、ベルギーに逃亡し、各国を転々として、最終的にドイツのケルンに落ち着いた。ケルンには、友人の画家ルーベンスが暮らしていた。あのルーヴルの連作の作者である。そして1642年7月3日にマリーは、このケルンで生涯を閉じた。
「大富豪メディチ家に生まれ、フランス王妃となったマリー・ド・メディシスであったが、その最期はルーヴルの絢爛豪華な連作からほど遠い惨めなものだった」と川島氏は締めくくっている。
(川島、2015年、123頁~137頁)
17世紀のオランダの代表的な画家レンブラントには、かけがえのない女性がふたりいた。
一人は、最初の妻サスキア
もう一人は、愛人で後に二番目の妻になったヘンドリッキェ(1625-1663、38歳で死去)
(もっともヘンドリッキェとは正式に結婚しなかったという説もあるが、二人の間には子どもも生まれ、妻と同じ存在だった)
ルーヴルにあるヘンドリッキェの肖像画からは、慎ましやかで、地味で、目立たない感じの女性とみられるかもしれない。実際は、いざというときに勇気と実行力を発揮する女性だったようだ。
川島氏は、次のような例示をひいている。亡き妻サスキアの遺言により、レンブラントは再婚した場合には、財産を相続できないことになっていたために、ヘンドリッキェとレンブラントは内縁関係を保っていた。
そうした関係を不謹慎だと、教会会議が批難し、ヘンドリッキェに出頭を求めたことがあった。けれどもヘンドリッキェはそれを無視し、応じようとしなかった。このように、ヘンドリッキェは自分が正しいと判断したことは曲げない強さも持っていたとみる。
サスキアとの間に生まれた義理の息子を立派に育て、自らも娘を授けられた。ヘンドリッキェはモデルとなったり、画商となって創作活動に貢献し、レンブラントに欠かせない女性であった。レンブラントの才能に心酔し、惜しみなく支援し続けた気丈な女性であった。
レンブラント(1606-1669)は、1606年、オランダのライデンに生まれた。製粉業を営む家庭に生まれ、経済的に恵まれていた。そして生まれ故郷ライデンにいた時代から、画家としてある程度知られていた。
しかし、1631年、レンブラントが25歳のとき、より以上の成功を求めて、華やかで活気に満ちたアムステルダムへと向かう。
画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルクの家に住み、レンブラントはそのアトリエで仕事をしていたが、画商の姪の美しいサスキアと恋におち結婚する。
サスキアは裕福な名士の娘だったので、そのお陰でレンブラントは、芸術を愛する上流階級の人々に接する機会が増え、サスキアの莫大な持参金で、自分のアトリエを持つこともできた。彼が描くブルジョア好みの肖像画や宗教画も高く評価され、注文も相次ぎ、幸せの頂点にいた。またレンブラントは愛するサスキアをモデルとして作品も手がけた。
名声と富を得たレンブラントは、美術品をコレクションするようになり、1639年には、アムステルダムの中心に、瀟洒な邸宅を購入し、豪勢な生活を好んだ。
ただ、家庭的には不幸が相次ぎ、サスキアとの間に生まれた3人の子どもが半年も経たないうちに死んでしまう。生き延びたのは息子ひとりだった。
さらに、1642年、29歳のサスキアが胸の病で帰らぬ人となる。1歳の息子とふたりきりになり、レンブラントは乳母ヘールチェを雇う。
そのレンブラント家に、家政婦ヘンドリッキェが新たに加わる。
軍曹の家に生まれたヘンドリッキェが生家を離れ、自力で生活をはじめたのは、1647年1月のことだった。
ヘンドリッキェがレンブラントの家で働くようになったいきさつは不明らしい。当初は家政婦として働いていたが、そのうちモデルもつとめるようになる。その作品からすると、ふくよかな身体と温厚な性格の女性であったように見える。
レンブラントは20歳年下のヘンドリッキェを愛人にするが、そうなるとヘールチェは、レンブラントからもらった指輪を証拠に、婚約不履行で訴えた(その結果、ヘールチェに年金を支払うはめになる。ところが後にレンブラントは、ヘールチェが宝飾品を盗んだと反撃、告訴すると、彼女は結局、病院に送られ、5年後に病院から出てきたが、翌年病気で世を去る)。
その後、1652年、レンブラントとヘンドリッキェとの間に、子どもが生まれるが、生後数日で亡くなってしまう。この年の不幸はそれだけでなく、オランダがイギリスとの戦争(英蘭戦争)に突入する。この戦争により、絵の注文が激減してしまう。オランダは海洋貿易で潤っていた国であったので、その経済は下降をたどる一方だった。
それにもかかわらず、レンブラントは浪費をやめられず、借金がかさんだ。英蘭戦争は2年続いたが、それが一段落した1654年にヘンドリッキェは娘を生んだ。借金の返済のため、コレクションしていた美術品を競売で売り、館まで手放す。
当時アムステルダムにあった画家ギルドは、スキャンダルにまみれたレンブラントを画家として認めない方針とした。そのときヘンドリッキェは立ち上がり、サスキアの息子ティトゥス(20歳)と共同で、画商になる決心をする。この2人はレンブラントのために絵の注文をとり、それを高値で売ることに努めた。
レンブラントの苦難の時を献身的に支え続けた気丈なヘンドリッキェであったが、その後、アムステルダムを襲ったペストに感染し、1663年、38歳の生涯を閉じる。アムステルダムの運河のほとりにあり、オランダ最大のプロテスタント教会である西教会に、ヘンドリッキェは埋葬される。レンブラントがその教会に葬られたのは、それから6年後の1669年であった。
(川島、2015年、139頁~149頁)。
ルーヴルの『モナ・リザ』のモデルとして、イザベラ・デステ説について言及し、共通点と相違点を指摘している。
共通点としては、
・どちらも右手を左手の上に置いているポーズ
・右手の人差し指が中指から離れている
・どちらの服装も襟元が大きく開いていて、ふくよかな胸を想像できる
・額は広く、理知的な顔立ち
・髪は肩をおおうほど、豊かで長く、真ん中から分けてさらりと流している
一方、大きな違いは、
・『モナ・リザ』が正面を向いているのに対して、『イザベラ・デステ』は横向きになっている
・『モナ・リザ』が完成した絵で、『イザベラ・デステ』はデッサンで終わっている
次に、川島氏は、イザベラ・デステの生い立ちについて述べている。イザベラは1474年5月18日に生まれる。父はイタリアのフェラーラ公国の君主であり、母はアラゴン王の王女である。両親はメディチ家以後、もっとも芸術家を庇護する君主夫妻と敬われていた。そして、フェラーラのルネサンス初期の建物の多くは、現在ユネスコの世界遺産に登録されているが、それらはイザベラの父の時代のものである。イザベラも、幼い頃から芸術に格別の関心を抱いていた。
1490年、15歳で、フェラーラ公国の隣国マントヴァ国の当主、26歳のフランチェスコ2世ゴンザーガ侯爵と結婚した。夫は勇敢で武術に秀で、しかも芸術にも大きな興味があった。それは父フェデリコ1世の影響だった(父フェデリコ1世は、ルネサンス期の画家アンドレア・マンテーニャと親しく、その作品を多数購入していた)。
また、マントヴァは、人工的に造られた3つの美しい湖に囲まれた風光明媚な土地で、『ロミオとジュリエット』の舞台になったほどの麗しい国だった。
(悲劇『ロミオとジュリエット』で、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放されるが、直ちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いて、ヴェローナへ帰還する)。
結婚後、イザベラは重厚な趣のドゥカーレ宮殿に暮らした。この宮殿の「夫婦の間」は、天井にも壁にも、巨匠マンテーニャのフレスコ画が描かれている。
ゴンザーガ家の繁栄と栄光を願って描かれたために、マンテーニャはゴンザーガ家の家族が和やかに団欒している光景を描いた。
マンテーニャのフレスコ画は、これを鑑賞するためだけでも、マントヴァを訪れる価値がある、と語られていた。イザベラは、芸術家の庇護を積極的に行っていたゴンザーガ家の一員となり、マントヴァを華麗な芸術の花が咲く国にしようという思いを強くしたようだ。
ところで、当時、もっとも華やいでいたのは、マントヴァからさほど遠くないミラノ公国だった。その支配者ルドヴィコ・スフォルツァ、通称イル・モーロに嫁いだのは、イザベラの妹ベアトリーチェだった(イザベラが結婚した翌年1491年ことだった)。
イル・モーロは結婚して4年後、甥を抑えて、正式にミラノ公国になる。文芸を重んじていた彼の宮廷では、作家や哲学者、芸術家を中心とした華やかな社交がくり広げられていた。その公妃となった妹ベアトリーチェは、金に糸目をつけない宝飾品で身を包み、光り輝いていた。姉イザベラは、そうした妹に嫉妬を抱いていたようだ。
イザベラが悔しがったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに招かれ、公爵夫妻のために、あらゆる分野で才能を発揮していたことであると川島氏はみている。
時代は少し遡るが、ダ・ヴィンチがイル・モーロの招きに応じて、フィレンツェからミラノに移り住んだのは、1482年だった。その理由には諸説がある。宮廷画家として、または宮廷の音楽師として招かれたとか、武器の発明家として必要とされたとか、イル・モーロが亡き父のブロンズの騎馬像を依頼するためだったとか、いわれている。万能のダ・ヴィンチであったから、そのすべてをかわれて、ミラノに招かれたかもしれない。
栄華を誇っていたミラノ公国の権力者に認められたことは、ダ・ヴィンチにとって幸運なことであり、その活躍は素晴らしかった。画家として最大の業績としては、ルーヴルの『岩窟の聖母』と、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画『最後の晩餐』といった秀作を残したことである。これらの作品は、「時空を超える無比の才能の輝きを宿している」と川島氏は評している。
煌びやかなミラノが一挙に崩れるときが来た。1498年、ローマやヴェネツィアを味方にして、フランス国王ルイ12世がミラノ侵略を開始した。無残にも敗北したミラノ公爵イル・モーロは捕虜になり、フランスに連行され、ロワール河畔の城の牢に幽閉され、そこで1508年に死去してしまう(彼の妃ベアトリーチェは、1495年に既に21歳の若い生涯を閉じていた)。
そうなると、イル・モーロの庇護下にあった芸術家たちは、ミラノを後にし、その多くはヴェネツィアへと向かった。ダ・ヴィンチもそのひとりだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴェネツィアへ向かう途中で、マントヴァに立ち寄った。そのことを知ったイザベラは、手放しで喜んだにちがいない。イザベラは、彼の才能に、ますます魅了されていた。とくに1489年、イル・モーロの若く麗しい愛妾、チェチリア・ガッレラーニの肖像画(1489年~1490年頃)を見たときから、イザベラは自分の肖像画を描いてもらいたいと熱望していた。
現在ポーランドのツァルトリスキ美術館にある『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれるチェチリアの肖像画である。それは、「あふれるほどの気品と知性がほとばしる女性として描かれている」と川島氏は評している。
この優美な絵をイザベラがどこで見たかは明らかになっていないが、1498年との記録があり、マントヴァだったと想像されている。というのは、その年にフランスがミラノに攻め入り、身の危険を感じたチェチリアが、イザベラに保護を求めてマントヴァに来たから。おそらく、イル・モーロが、最愛の人に亡き妃の姉の国を勧めたのだろうとみられる。その時、チェチリアは、ダ・ヴィンチが描いた肖像画を持参し、イザベラが目にしたと考えられている。
イザベラが、妹のライバルともいえるチェチリアを温かく迎えたのは、ラテン語を理解し、詩を綴るなど、知性のある女性であることを知っていたとみられる。イザベラは、マントヴァを文芸を重んじる国にしたかったので、チェチリアのような女性が必要だったのであろう。
ダ・ヴィンチがひとりの女性の肖像画を手がけるのは珍しいことであった。しかも、チェチリアをモデルにした絵は素晴らしかった。イザベラは感激して譲ってほしいと思ったが、結局それはかなわなかった。
しかし、それを描いたダ・ヴィンチが、自分の国マントヴァにいる。このチャンスに、イザベラは、あの、チェチリアの肖像画のような静謐な絵を描いてもらいたかった。イザベラから依頼を受けたダ・ヴィンチは、何故かデッサンを描いた。その1枚がルーヴルの『イザベラ・デステ』である。シンプルな服に身を包み、彼女の横顔を描いた素画である。
デッサンではなく、ぜひとも肖像画を描いてほしいと、その後イザベラは何度もダ・ヴィンチに依頼した。ダ・ヴィンチがマントヴァを離れ、ヴェネツィアやフィレンツェにいる間にも、マントヴァ大使を通じて催促した。しかし、ダ・ヴィンチは実現しなかった。多忙を理由にいつか描きますといいながら、描かなかった。
(ただし、川島氏は、「もしも、『モナ・リザ』がイザベラでないのであるならば」と付記することを忘れていない)。
1509年は、イザベラにとって苦難の年だった。夫フランチェスコ2世が、ヴェネツィアとの戦いで捕虜となり、幽閉された。夫は囚われの身となり、跡取りの息子はまだ少年であった。
イザベラが政治に目覚め、軍を組織し、国民の団結を呼びかけ、諸外国の君主に援助要請の手紙を矢継ぎ早に書いた。その功績が実を結び、夫は釈放された。約1年間の屈辱的幽閉から解放された夫ではあったが、妻の政治手腕によって妻イザベラの方は人気が高くなり、夫婦仲は悪化したようだ。
イザベラの活躍で、マントヴァは芸術家を支援する注目の国となった。そしてイザベラは、かねてから憧憬を抱いていたローマへと旅立ち、その地に滞在する。1514年、40歳のことである(ローマでは、ミケランジェロやラファエロが活躍し、ルネサンスの華麗な花が咲き誇っていた)。
その後、マントヴァに戻り、侯爵夫人としての役割をこなしていたが、1519年3月、夫のフランチェスコ2世が52歳で逝去してしまう。15歳の長男が侯爵の称号を継ぎ、イザベラは摂政を務める。
1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマに進入したときには、イザベラはローマに滞在し、コロンナ家の居城にいた。この「ローマ略奪」と呼ばれる侵略で、カール5世の皇帝軍は、ローマを破壊し、文化人はローマから逃げ出した。1450年から続いていた最盛期のルネサンスは終焉を迎えた。
コロンナ家は皇帝軍側にいたため、イザベラがいたコロンナ城は破壊を免れたが、輝かしい文化を誇っていたローマは廃墟と化した。
1530年、イザベラの息子は成長し立派に国を治めるようになり、侯爵から公爵に昇格した。その後、イザベラは、ステュディオーロ(書斎)で過ごすことが多くなったようだ。その部屋には、マンテーニャの絵が数枚あったし、ティツィアーノとロマーノの描いたイザベラの肖像画も飾られていたといわれる。彼女は教養を重んじる格別な女性であった。
1539年2月13日、稀に見る才知と魅力を備えている女性として敬われていたイザベラ・デステは、64歳の生涯を閉じた。
このイザベラ・デステの項を、川島氏は、次のような含みのある文章で結んでいる。
「これほどのイザベラ・デステである。そうなると、ダ・ヴィンチが単なるデッサンだけで終えたとは、とても思えなくなる。彼はイザベラに何かを感じたはずである。
素画はルーヴルの一枚だけでなく数枚描いたと記録されている。それをもとにして彼が、何年もかけて描き続けているうちに、ついに理想的な女性像となった。それが『モナ・リザ』だということも考えられないことはない」(169頁)。
(川島、2015年、151頁~169頁)
ルーヴル美術館の『モナ・リザ』は、「女王的存在」「傑作中の傑作」である。
『モナ・リザ』には、誰が描かれた絵画なのかというモデルの問題がある。
イタリア美術史専門家のカルラ・グロリは、ミラノ公爵の娘ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァと確言している。ビアンカは15歳で世を去っているけれど、レオナルドはビアンカに年をとらせて描いたという驚くべき説を川島氏は紹介している。
その他、レオナルドの自画像説、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ説、ミラノ公妃イザベラ・ダラゴン説を挙げている。
ルーヴル美術館の絵の本来のタイトルは、『ラ・ジョコンド』つまりジョコンド夫人で、『モナ・リザ』は通称である。ちなみにモナ・リザは私のリザという意味のイタリア語である。
リザがフィレンツェのゲラルディーニ家に長女として生まれたのは、1479年6月15日である。1495年3月、彼女が15歳のときに、同じフィレンツェ生まれの14歳年上のフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した。リザは2番目の妻だった。
ジョコンド家は、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に家族の墓所があり、かなり立派な家系だった。
1501年、レオナルドはその教会の修道院に世話になっていた。そのときにジョコンドがレオナルドと知り合い、後に妻の肖像画を依頼したのではないかとみられている。
ジョコンドは絹織物を取り扱う裕福な商人で、リザとの仲はむつまじく、二人の間には5人の子供がいた。ジョコンド夫妻のふたりの娘は修道女になっている。
1499年、ジョコンドは行政官に選ばれ、メディチ家と親しくなっている。ジョコンド家はメディチ家ほど大規模ではなかったが、芸術を愛した。
レオナルドがジョコンドに頼まれて、その妻リザの肖像画を描き始めたのは、1503年で、彼女が24歳だった。妻の肖像画を依頼したのは、2つの理由が推測されている。すなわち
、その前年に二番目の息子アンドレアが生まれたこと、そして新たな家を購入したことである。
レオナルドが『モナ・リザ』を1503年から描いていたことは、レオナルドの友人であるフィレンツェの公証人、アゴスチーノ・ヴェスプッチが残した当時の記録から明らかになっている(ドイツのハイデルベルク図書館にあるメモによると、レオナルドは3枚の絵を描いていて、そのうちの1枚はリザ・デル・ジョコンドの肖像画であるという。この図書館は、2008年にこの事実を発表した)。
けれども、レオナルドは依頼主ジョコンドに、彼の妻の肖像画を渡すことはなかった。その理由についても諸説ある。ジョコンドが気に入らなかったというのも一つである。
代金を支払ったという記録もなく、肖像画はレオナルドの手元に最後まで残っていた。
ここで、川島氏は、再び、モナ・リザのモデル問題について取り上げている。
レオナルドが筆を進めるうちに、目の前にいるリザに、母の面影を重ねていったという説を紹介している。
公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチと、農民カテリーナの間に私生児として生まれ、幼いときに父親によって母から引き離されたレオナルドは、母への思慕に大きかったとみて、母を求め続けていたレオナルドが、リザになつかしい母の姿を重ねたというのである。
あるいは、『モナ・リザ』は、レオナルドの母を超え、全人類の生みの母、聖母マリアなのかもしれないという。当初はリザを目の前に置いて、その肖像画を描き始めたが、時が経つに従って、自分にとって理想と思える女性に変わっていったことも考えられるとする。
いずれにしても、1516年にフランス国王フランソワ1世の招きに応じて、フランスに暮らすようになったときにも、この絵を伴っている。
さて、レオナルドがフィレンツェを去った後も、平和に暮らしていたリザだったが、1538年、大流行したペストで夫に先立たれた。未亡人となったリザは、最初長男の家族と暮らしていたが、しばらくして病にかかり、娘のいるサンタ・オルソラ修道院に入ったが、そこで1542年7月15日、63歳で生涯を閉じた。そして同じ修道院に埋葬された。
ジョコンドの名は17世紀に消滅したらしいが、リザの子孫は今も健在で15代目の女性がおり、雑誌のインタヴューに答えたという。こうなると、『モナ・リザ』となった女性が、あまり現実的になり、絵の見方まで変わってしまいそうで、残念な気がしないでもないと川島氏は感想を述べている。
そして、川島氏は次のような文章で締めくくっている。
「『モナ・リザ』は、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、その後数年間にわたって筆が加えられ、モデルとなった女性から離れ、実際には地上に存在しなかったダ・ヴィンチの理想の女性となった。ダ・ヴィンチはその人を常に近くに置き、見つめ、語りかけ、聞えない声を聞き、自分慰め、心に平和を広げていたのだと信じていたい。」と。
川島氏も、『モナ・リザ』について、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、筆が加えるうちに、モデルとなった女性から離れ、ダ・ヴィンチの理想の女性となったという説を支持している。
(川島、2015年、171頁~181頁)
以上、川島ルミ子氏の著作内容を紹介してきた。女性の肖像画の像主について、その人生のドラマを、物語性と叙述性を備えて、簡潔に記されており、絵画鑑賞に参考となる著作であることが納得していただけたのではないかと思う。
とりわけ、冒頭に取り上げてあるジャンヌ・ダルクの絵は、アングルの想像の産物であったことには、注意する必要があろう。そもそも、ジャンヌ・ダルクが歴史上注目されだした理由は、フランス近代のナショナリズムの勃興と深く関連するという説がある。つまり、フランス国民の意識を高揚するために、ナポレオンが“救国の少女”として、ジャンヌ・ダルクを取り上げたというのである。
そう考えると、ナポレオンの宮廷画家ダヴィッドの弟子アングルが、ジャンヌ・ダルク像を絵画に残したことも、より納得できる。
また、ジョゼフィーヌの肖像画において、女性の肖像画というカテゴリーにこだわったために、プリュードンの絵を選択せざるをえなくなったものと推測される。
しかし、ルーヴル美術館で、ジョゼフィーヌの登場する絵といえば、何といっても、ダヴィッドの大作「ナポレオン一世の聖別式とジョゼフィーヌ皇后の戴冠」(1806/1807、621×979㎝)であろう。
横10メートル近い大作で、ジョゼフィーヌはナポレオンから冠をかぶせてもらいかけている場面である。ダヴィッドは、当時リュクサンブール宮にあったルーベンスの連作の1枚である「マリー・ド・メディシスの戴冠」(今はルーヴル美術館にある。川島ルミ子氏も取り上げていた)の構図を参考にしたとみられている(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年、213頁。およびミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年、104頁~105頁)。
この絵およびダヴィッドについては、鈴木杜幾子氏の上記の著作に詳しい。画家ダヴィッドについては、第3番目の『マダム・レカミエ』の作者として、取り上げているが、物足りない。
飯塚信雄氏は、プロイセンのフリードリッヒ大王と、ポンパドゥール侯爵夫人の肖像画について、次のようなエピソードを記している。
「大王はポンパドゥール侯爵夫人に丁寧な書簡をおくり、ラトゥールの描いた侯爵夫人像の複製をぜひちょうだいしたいと猫なで声でお願いする一方、できるだけ侯爵夫人にゴマをすれ、とフランス駐在大使に訓令した」
(飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年、198頁)
このエピソードは、ポンパドゥール侯爵夫人が、フランスという国を代表して、いかに外交に力をもっていたかがわかると同時に、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによるポンパドゥール侯爵夫人の肖像画が知られていたかを物語るものといえよう。
パステル画のラ・トゥールの方の肖像画は、ポンパドゥール侯爵夫人のブドワール(私室)で蔵書にかこまれて描かれている。
夫人の机の上の本には、有名な本が並べられているそうだ。モンテスキューの『法の精神』や、ディドロらがまとめた啓蒙思想の集大成である『百科全書』がある。この『百科全書』は、イエズス会に発刊を妨害されたが、その時夫人は出版長官のマルゼルブとともに出版を助けた。夫人は新興ブルジョワジーの出であるので、開明思想に共鳴したのであろう。マルゼルブは、ルソーやディドロの友人であった。彼は『百科全書』の原稿差押え命令が出された時、その執行を故意に遅らせ、原稿を官邸に隠させたりしている。そして実際にも編集に携わった(『百科全書』は4100部を予約出版したが、この時代としては、画期的な売れ行きであった)。
ところで「ポンパドゥール侯爵夫人」を描いた有名な画家として、もう1人フランソワ・ブーシェがいる。ロココの全盛期を代表する画家である。幸福感に満ちた可能的な絵を得意とした。1日に10時間も精力的に仕事をして、生涯1万点もの絵を描いた。
このブーシェの映画いた夫人の肖像画は、ラ・トゥールのものより、かわいらしく描かれている。夫人はのちにブーシェから絵を習っている。
ブーシェは、40歳を過ぎてから、ポンパドゥール夫人に気に入られ、首席宮廷画家に就任し、のちの絵画アカデミーの会長にもなった。またゴブラン製作所の所長も務めた。そしてセーヴル陶器工場の下絵デザインや、オペラ座の舞台装置も手掛け、多才ぶりを発揮した。
アンリ4世の最初の妻、王妃マルゴについては、アレクサンドル・デュマの歴史小説があり、映画にもなったので、広く知られている。
アレクサンドル・デュマ(1802-1870)は、フランスのロマン派を代表する作家である。『三銃士(Les Trois Mousquetaires)』(1844)、『モンテ=クリスト伯(Le Comte de Monte-Christo)』(1844-45)などの歴史小説の傑作によって世界中に親しまれている。『王妃マルゴ』もそうである。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。
一方、『椿姫(La Dame aux camélia)』(1848)は、デュマ・フィス(子)(1824-1895)と呼ばれる息子の方の作品である。
例えば、本や映画は次のものがある。本では、アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]。
訳者榊原晃三氏も「訳者あとがき」(377頁~384頁)で述べているように、小説『王妃マルゴ』において、マルゴとラモル(そしてココナスとアンリエット)の悲痛な愛を縦糸として、その周囲にカトリーヌ母后、シャルル9世、アンリ・ド・ナヴァール、ギーズ公、アランソン公などの実在の人物と、実際に起こった出来事とをほぼそのまま配して、ヴァロワ王朝の実体とこの時代の特徴を描いている。
ルネサンス期、宗教戦争に明け暮れたフランス、ヴァロワ王家の内幕の特徴をとらえていると訳者は評している(デュマ[榊原訳]、下巻、1994年[1995年版]、380頁~381頁)。
物語は、1572年8月18日、パリのルーヴル宮での盛大な婚儀から始まる。シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ)と、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボン(ブルボン王朝の始祖で、のちのアンリ4世)との婚儀である。周知のように、1572年8月24日のサン・バルテルミの事件のきっかけとなり、物語が展開する。
映画『王妃マルゴ(La Reine Margot)』(1994年、フランス映画)は、イザベル・アジャーニが王妃マルゴを熱演し、1994年カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した。
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『モナ・リザ』のモデル問題には、諸説がある。最近では、元木幸一氏は、
「近年、≪モナ・リザ≫のモデルがモナ・リザ(リザ夫人)であることがほぼ確定した」(45頁)と明言し、「≪モナ・リザ≫の笑顔は、第一義的には注文主である夫ジョコンドに向けられている」(99頁)と解釈している(元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年、45頁、99頁)。
一方、そのモデルをイザベラ・デステだと主張する代表的な美術史家に田中英道氏がいる。
イザベラ・デステの肖像と「モナ・リザ」図の類似性について、述べている。すなわち、『モナ・リザ』のモデルが、ゲラルディーニ家の娘リザではなく、イザベラ・デステであることを、「第8章 果たしてモナ・リザか」の第2節の「イザベラ・デステの像」において、論述している。
「イザベラの肖像の素描と「モナ・リザ」図における顔ばかりでなく手の組み方まで似ている類似性、そしてイザベラの手紙とそれに対する返事は、レオナルドがイザベラの肖像画を制作していたことを証拠だてているといってよいだろう。恐らく1506年までまだ未完成で、引渡す状態ではなかったであろう。その後催促がとだえてから、イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求していたのかもしれない。しかし、「貴婦人の肖像」においてモデルがあのように深化した肖像になったのは、何よりもマントヴァ侯夫人イザベラに対する敬愛の念があったからではなかったか、と想像されるのである。」
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、262頁)
このように、「貴婦人の肖像」を、リザではなく、イザベラ・デステとする。そして、イザベラの催促がとだえてから、「イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求」したと推測している。そのように深化した肖像になった理由は、イザベラに対する敬愛の念に求めている。
最終的には、「より理想化して描き進むにつれ、それが肖像画を離れて一個の聖母画のごとき理想画に進行していく」と、田中英道氏は理解している。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、266頁)
川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれに同一の見解である。以前にも紹介したが、久保氏は次のように記している。
「現在、パリのルーヴル美術館が所蔵するレオナルドのいわゆる『モナ・リザ』( “Monna Lisa”, detto“La Gioconda”)は、芸術的見地からすれば、ある特定の婦人の肖像画、などという生やさしい絵ではない。レオナルドの天才は、この絵を制作しているうちに、いつしか特定の婦人像という枠を超えて、たしかに女性そのものの本体の表現にまで至らしめた。そのことは、この絵が、特定の婦人の特殊的な一回的なあるいは偶然的な顕れでない、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を形象化した普遍的人格像、にまで高められているということである。それが、この巨匠にしてはじめて可能な至芸であったことは、この絵の無数の模作と較べてみればよくわかる。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究――その美術家像』美術出版社、1972年、237頁。「第3章 レオナルド芸術の諸問題」の「『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代」より)。
川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれと同一の見解である。それは、『モナ・リザ』をレオナルドの自画像とするといった見解とせず、奇をてらうことなく、正当で穏当な見解であろう。
なお、『モナ・リザ』のモデル問題については、後日、詳述してみたい。
また、ルーヴル美術館にある女性肖像画で、像主が一般市民で、いわゆる“有名人”でないために、候補から漏れた絵もある。絵そのものの美しさからいえば、ルーヴルのベスト10に入る女性肖像画だと個人的には考える、フェルメール「レースを編む女」(1665年頃)がある(ラクロット、1994年、216頁)。
こうした今回取り上げられていないルーヴル美術館の女性肖像画をも、今後解説してもらいたい。
今回は、川島ルミ子氏が取り上げた女性の肖像画を紹介したが、著者が違えば、その肖像画も異同が生じる。例えば、木村泰司氏は、『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』(光文社新書、2010年)において、川島氏と重なる肖像画を取り扱っている。
例えば、
第2章 イザベラ・デステ――ルネサンスの熱狂を生きた美女
第8章 ガブリエル・デストレ――王と国家に尽くした寵姫の鑑
第9章 マリー・ド・メディシス――尊大な自我の運命
第12章 ポンパドゥール夫人――ロココの「女王」の華やかな戦い
また、川島氏が間接的に言及されたマリー・アントワネットも扱っている。
第13章 マリー・アントワネット――国民に憎悪された王妃
機会があれば、木村泰司氏の著作も紹介してみたいが、章立てのみ、ここでは記しておく。
【参考文献】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年
ミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年
飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年
アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]
田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ――芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』光文社新書、2010年
川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)
川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)
今回は、7枚目の『ガブリエル・デストレとその妹』から紹介してみたい。今回の執筆項目次のようになる。
『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派
『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス
『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン
『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
【読後の感想とコメント】
『ガブリエル・デストレとその妹』フォンテーヌブロー派
ルーヴルの『ガブリエル・デストレとその妹』という絵
ブルボン王朝創始者アンリ4世の愛妾だったガブリエル・デストレについて、川島氏は、次のように形容している。
「女として生まれたからには、そのひとつでも授かりたいものと願うことのすべてを備えていたのが、ガブリエル・デストレ」であるという。彼女は「自然が生んだ傑作」と呼ばれていた。
ルーヴルのフォンテーヌブロー派の『ガブリエル・デストレとその妹』という絵は、右にガブリエル、左に妹のヴィヤール公爵夫人が描かれている。妹が姉の胸に触れているが、それは姉が子どもを宿していることを意味している。また、二人の後ろには、生まれる子どもの産衣を縫っている侍女の姿が見える。
絵の制作は、1594年とされている。この年の前年1593年7月25日、ガブリエルの進言、願いに従って、プロテスタントからカトリックに改宗している。そして、翌年1594年6月7日に、ガブリエルは国王の最初の息子、後のヴァンドーム公爵セザールを生み、幸せの絶頂にいた(それからわずか5年後に、ガブリエルは28歳の若い生涯を閉じてしまうのだが)。
アンリ4世とマルゴ
ガブリエル・デストレがアンリ4世に出会ったのは、19歳のときだったが、国王には既に王妃がいた。
その王妃は、通称マルゴと呼ばれた。アンリ2世と、カトリーヌ・ド・メディシスの間に生まれた末娘、マルグリット・ド・ヴァロアである。
マルゴは、母に似ず、非の打ち所のない美人であった。イタリアのメディチ家出身の母と異なり、フランス語も完璧だし、知識も豊富だった。しかし、マルゴは、病的なほど男好きで、これが大きな欠点であった。
母カトリーヌがそんな娘の結婚相手として選んだのは、アンリ・ド・ブルボンという男であった。ピレネー山脈のふもとにある小さなナバラ王国の国王で、しかもプロテスタントの指導者だった。
当時、フランスはカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争が激化していた。それを解消するために、カトリックのマルゴをプロテスタントのアンリに嫁がせ、国に平和をもたらしたいというのが、母カトリーヌの思惑だった。カトリーヌは、夫アンリ2世が騎馬試合で負傷して世を去った後、摂政を行っていたので、決定権をもっていた。カトリーヌには、3人の息子がいたが、どの息子も後継者を残さず、直系子孫は絶えた。そこでカトリーヌは、マルゴの夫アンリ・ド・ブルボンに国を任せようとした。
1589年、思いがけずにフランス国王の座に就いたアンリ・ド・ブルボンは、アンリ4世の名のもとに統治する(フランス最後の王朝となるブルボン王朝を築く)。
ガブリエルの経歴とアンリ4世との恋
ガブリエル・デストレは、侯爵家という家柄に生まれ、無比の美貌に恵まれていた。ただ、その家は無類の多情な家系であり、ガブリエルも15歳のころから、その徴候が現れたようだ(母フランソワーズも破格の情熱家で、若い侯爵に夢中になり、夫も娘ガブリエルも捨てて駆け落ちしてしまい、叔母スルディ夫人がガブリエルを育てた)。
その妖艶なガブリエルは、ピカルディ地方のクーヴル城に暮らしていたが、両手にあまるほどの愛人がいた。その一人アンリ4世の家臣ベルガド公爵に、ガブリエルは特に好意を抱いていた。ベルガドは、そのことが自慢で、ある日国王にもその話をしたところ、アンリ4世がぜひともガブリエルに会いたいと言い出した。
国王の希望であるから、ベルガドは1590年11月、アンリ4世を、ガブリエルが住むクーヴル城へお連れした。すると国王は彼女に一目ぼれしたが、肝心のガブリエルは、ベルガドにしか目になかった。このことは、自分の誘惑を拒否する女性などいなかった国王にとって衝撃であったが、アンリ4世のガブリエルへの想いは、その後ますます激しくなる。
ガブリエルの方も、徐々に心を開くようになった。その陰には、ガブリエルの父、叔父、叔母の執拗な説得があったようだ。
そして出会いから半年後の1591年5月、ガブリエルはついにアンリ4世の愛妾になる。ただ、ガブリエルは、ベルガドへの愛を断ち切ることはできず、国王が戦場に出陣すると、ベルガドと密会した。
すると、国王は、ガブリエルを結婚させることを思いつき、ダメルヴァルという小さな領土を所有するふたりの子持ち男を選び、彼女をダメルヴァル夫人としてしまう。それ以降も、国王の愛妾であることに変わりはなかった。
ガブリエルの進言
ところで、ガブリエルは、外見的魅力を備えているだけではなく、知性と優れた判断力をもつ女性でもあった。そして自分が正しいと思うことは、君主であっても、躊躇することなく、進言する女性だった。
長年続いていたカトリックとプロテスタントの間の宗教戦争に、アンリ4世が終止符を打つことができたのは、その陰に、ガブリエルの進言があったからであるといわれる。
プロテスタントのアンリ4世は国王になったとはいえ、首都パリはカトリックの手中にあり、彼らはアンリ4世をフランス国王認めない強硬な態度をとった。アンリ4世はそれに武力で対抗していた。
ところが、ガブリエルは、アンリ4世に、プロテスタントからカトリックに改宗し、平和的解決をすることが賢明であるとすすめたのである。それ以前にも側近が何度も進言していたが、国王は聞く耳を持たなかったが、ガブリエルの願いとあって、国王は改宗を決心した。1593年7月25日のことだった。
ガブリエルの出産と急死
その翌年1594年6月、ガブリエルはアンリ4世の息子を出産する。王妃マルゴとの間に子どもがいなかったので、国王は大層喜んだそうだ。
国王の子どもを生み、ますます自信を持ったガブリエルは、夫と離婚し、2番目、3番目の子どもを生む。宮廷で幅をきかせるようになった。ガブリエルは、国王とマルゴを離婚させ、自分が正式に王妃の座につくことを望んだ。
ガブリエルとの結婚はアンリ4世も望んでいた。後はマルゴの承認が必要なだけであるが、その当時、マルゴは宮廷から追い出され、オヴェルニュ地方の城塞に住んでいた。夫から再婚相手がガブリエルだと知らされると、国王に3人の子どもを授けたとはいえ、名のない小貴族出身であり、男性遍歴が噂されていた愛妾を、王妃に昇格させることには大反対であった。
それでも、アンリ4世は、交渉を重ねて、ついにマルゴに離婚に同意させた。
アンリ4世は、一刻も早く正式の妃にすることを望んだが、思いもよらない突然の出来事が起こる。それは1599年4月のことである。
4人目の子どもを身ごもっていたガブリエルは、イタリア人の財政家の館で食事をしていると、突然に苦しみ出し、その翌日苦しみから解放されることなく、息を引き取ってしまう(死因は急性脳溢血の可能性が強いとされているが、今でも毒殺説は消えていない)。
国王は、その死をひどく悼み、パリの中心にあるサン・ジェルマン・ローセワ教会で葬儀を行い、遺体は彼女の妹(アンジェリック・デストレ)が指導者となっていた、モービュイソン修道院に手厚く埋葬させた。
ただ、ガブリエルが世を去った後、彼女の妹ヴィヤール公爵夫人がアンリ4世の愛人になった。ルーヴルの絵で、左側の方の女性である。国王が、マリー・ド・メディシスと再婚した後も、ヴィヤール公爵夫人は愛妾の座を保っていたが、しばらくして宮廷から離れていった。
多くの愛人を持ったアンリ4世だったが、心底から愛したのは、ガブリエルだけだったといわれる。それほど、ガブリエル・デストレは、比類なき女性であったようだ。
(川島、2015年、103頁~121頁)。
『マリー・ド・メディシスの生涯』ピーテル・パウル・ルーベンス
ルーヴル美術館の大作『マリー・ド・メディシスの生涯』という絵
バロックの巨匠ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、マリーの生涯の歩みを24枚の連作で描いた大作である。
マリー・ド・メディシス(1573-1642)は、イタリアの大富豪メディチ家出身で、フランス国王アンリ4世の妃に選ばれ、多額の持参金とともに、マルセイユからフランス入りした女性である。
ルーベンスの大作は、マリーの誕生から始まり、結婚や統治など、彼女の人生の主だった場面を描いている。作品の依頼主はマリー自身だった。自らの偉大さを後世に残すために、神格化したり美化したりして、マリーは美しく、威厳があるように描かれている。
マリーとアンリ4世との結婚
アンリ4世がマリー・ド・メディシスを妃として迎えたのは、1600年である。それは、最初の妃マルグリット・ド・ヴァロア(通称マルゴ)と離婚した翌年のことだった。
当時のフランスは、カトリックとプロテスタントの宗教戦争で、国庫は枯渇していたので、それを救うために、フィレンツェの大富豪メディチ家に目をつける。
27歳のマリーは、当時にしては、婚期を逸しており、特筆するほど美人ではなかった。ただ、豊満な体が魅力的だった。
しかし、フランス語は片言程度で、破格の財産家に生まれ育ったためか、わがままで、浪費家であった。
一方、多情なアンリ4世には複数の愛人がいて、マリーは不満であった。その上、マリーは語学力が充分でないため、周囲とも打ち解けられず、孤独であった。それでもふたりの間には6人の子どもが生まれた。1601年に生まれた第一子は王子で、後のルイ13世である(フォンテーヌブロー城で誕生したときの様子も、ルーヴルの連作に描かれている)。
また、後のルイ13世はマリーと仲たがいし、実の母を追放処分にすることになる。
アンリ4世の暗殺とマリーの摂政
第一子誕生から約9年後、1610年、マリーの夫アンリ4世が暗殺されてしまう。犯人は強硬派のカトリック信者ラヴァイヤックだった。
かつてアンリ4世は、フランスを二分していた宗教戦争に終止符を打つために、1598年、ナントの勅令を発布し、プロテスタントにも信仰の自由を与えた。それに不満を抱いたのが、この犯人だった。
父の不慮の死で、8歳の王太子がルイ13世として即位し、母マリーが摂政となった。しかし、マリーには政治力もなければ、国事への興味もなく、側近に頼るばかりだった(カトリーヌ・ド・メディシスが、夫アンリ2世亡き後、摂政を立派に務めたのと対照的である)。
マリーが信頼を寄せていたのは、彼女と同郷のフィレンツェ生まれのコンチーニだった。そのコンチーニの一番の功績は、もともと聖職者だったリシュリューの才覚に目をつけたことである。リシュリューは、ルイ13世の時代の宰相として、華々しい足跡を歴史に残した。
さらに、コンチーニは、ルイ13世の妃として、スペイン王フェリペ3世の王女アンヌ・ドートリッシュを選ぶことを、マリーに進言した。当時のスペインは、ハプスブルク家の支配下にあり、フランスとハプスブルクとの間の戦いに終止符を打つのが目的であった。そして、この結婚により、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの間に、ルイ14世が誕生することになる(いうまでもなく、ルイ14世は、絶対王政を確立し、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建築し、フランス最大の国王と謳われる)。
マリーの庇護を受けていたコンチーニは、元帥の称号を得て、まるで一国の君主かと思うほどの権力を振るい始めるようになる。ルイ13世も、そのような傲慢なコンチーニに敵意を抱くようになる。15歳の国王と反コンチーニ派の貴族は結束し、1617年、国王の命令によるコンチーニ暗殺が実行された。
ルイ13世とその母マリーとルーヴルの連作
彼の妻レオノーラは、バスティーユ監獄に閉じ込められた後、魔女の汚名をきせられ、斬首刑に処せられた。国王の母であるマリーは息子の命令で捕えられ、ロワール河畔のブロワ城に軟禁される。マリーは息子に対して反乱を起こそうとしたことがあったが、未然におさえられてしまう。その後、1621年、国王に信頼されていたリシュリューが仲介して、国王とその母マリーが和解することになる。
ルーヴルの『マリー・ド・メディシスの生涯』は、その翌年にマリーがルーベンスに依頼した作品である。マリーの住まいだったパリのリュクサンブール宮殿の壁を飾っていた。夫亡き後のマリーは、それまで暮らしていた重苦しい建築様式のルーヴル宮を嫌うようになり、自分に相応しい宮殿がほしいと思うようになる。セーヌ河左岸のリュクサンブール公の広大な土地を、公爵から買い上げ、生まれ故郷フィレンツェの宮殿を模倣して、陽光あふれる宮殿を完成させた(現在、旧リュクサンブール宮殿には上院が置かれ、その庭園はパリ市民の憩いの場である)。
ところで、1630年、母后マリーは再び反乱を起こす。今度はリシュリューのことが原因であった。宰相であり、枢機卿でもあったリシュリューは権力を握りすぎるとして、自尊心の強いマリーは、国王を説得して、リシュリューを失脚させようとした。しかし、歴史に名を残すほどのやり手であるリシュリューは、クーデターを鎮圧し、マリーは再び囚われの身となり、パリの地にあるコンピニーニュ城に監禁されてしまう。
1631年、マリーは脱出して、ベルギーに逃亡し、各国を転々として、最終的にドイツのケルンに落ち着いた。ケルンには、友人の画家ルーベンスが暮らしていた。あのルーヴルの連作の作者である。そして1642年7月3日にマリーは、このケルンで生涯を閉じた。
「大富豪メディチ家に生まれ、フランス王妃となったマリー・ド・メディシスであったが、その最期はルーヴルの絢爛豪華な連作からほど遠い惨めなものだった」と川島氏は締めくくっている。
(川島、2015年、123頁~137頁)
『ヘンドリッキェの肖像画』レンブラント・ファン・レイン
ルーヴルにある『ヘンドリッキェの肖像画』
17世紀のオランダの代表的な画家レンブラントには、かけがえのない女性がふたりいた。
一人は、最初の妻サスキア
もう一人は、愛人で後に二番目の妻になったヘンドリッキェ(1625-1663、38歳で死去)
(もっともヘンドリッキェとは正式に結婚しなかったという説もあるが、二人の間には子どもも生まれ、妻と同じ存在だった)
ルーヴルにあるヘンドリッキェの肖像画からは、慎ましやかで、地味で、目立たない感じの女性とみられるかもしれない。実際は、いざというときに勇気と実行力を発揮する女性だったようだ。
川島氏は、次のような例示をひいている。亡き妻サスキアの遺言により、レンブラントは再婚した場合には、財産を相続できないことになっていたために、ヘンドリッキェとレンブラントは内縁関係を保っていた。
そうした関係を不謹慎だと、教会会議が批難し、ヘンドリッキェに出頭を求めたことがあった。けれどもヘンドリッキェはそれを無視し、応じようとしなかった。このように、ヘンドリッキェは自分が正しいと判断したことは曲げない強さも持っていたとみる。
サスキアとの間に生まれた義理の息子を立派に育て、自らも娘を授けられた。ヘンドリッキェはモデルとなったり、画商となって創作活動に貢献し、レンブラントに欠かせない女性であった。レンブラントの才能に心酔し、惜しみなく支援し続けた気丈な女性であった。
レンブラントの生い立ちとサスキアとの結婚
レンブラント(1606-1669)は、1606年、オランダのライデンに生まれた。製粉業を営む家庭に生まれ、経済的に恵まれていた。そして生まれ故郷ライデンにいた時代から、画家としてある程度知られていた。
しかし、1631年、レンブラントが25歳のとき、より以上の成功を求めて、華やかで活気に満ちたアムステルダムへと向かう。
画商ヘンドリック・ファン・アイレンブルクの家に住み、レンブラントはそのアトリエで仕事をしていたが、画商の姪の美しいサスキアと恋におち結婚する。
サスキアは裕福な名士の娘だったので、そのお陰でレンブラントは、芸術を愛する上流階級の人々に接する機会が増え、サスキアの莫大な持参金で、自分のアトリエを持つこともできた。彼が描くブルジョア好みの肖像画や宗教画も高く評価され、注文も相次ぎ、幸せの頂点にいた。またレンブラントは愛するサスキアをモデルとして作品も手がけた。
名声と富を得たレンブラントは、美術品をコレクションするようになり、1639年には、アムステルダムの中心に、瀟洒な邸宅を購入し、豪勢な生活を好んだ。
ただ、家庭的には不幸が相次ぎ、サスキアとの間に生まれた3人の子どもが半年も経たないうちに死んでしまう。生き延びたのは息子ひとりだった。
さらに、1642年、29歳のサスキアが胸の病で帰らぬ人となる。1歳の息子とふたりきりになり、レンブラントは乳母ヘールチェを雇う。
レンブラントとヘンドリッキェ
そのレンブラント家に、家政婦ヘンドリッキェが新たに加わる。
軍曹の家に生まれたヘンドリッキェが生家を離れ、自力で生活をはじめたのは、1647年1月のことだった。
ヘンドリッキェがレンブラントの家で働くようになったいきさつは不明らしい。当初は家政婦として働いていたが、そのうちモデルもつとめるようになる。その作品からすると、ふくよかな身体と温厚な性格の女性であったように見える。
レンブラントは20歳年下のヘンドリッキェを愛人にするが、そうなるとヘールチェは、レンブラントからもらった指輪を証拠に、婚約不履行で訴えた(その結果、ヘールチェに年金を支払うはめになる。ところが後にレンブラントは、ヘールチェが宝飾品を盗んだと反撃、告訴すると、彼女は結局、病院に送られ、5年後に病院から出てきたが、翌年病気で世を去る)。
その後、1652年、レンブラントとヘンドリッキェとの間に、子どもが生まれるが、生後数日で亡くなってしまう。この年の不幸はそれだけでなく、オランダがイギリスとの戦争(英蘭戦争)に突入する。この戦争により、絵の注文が激減してしまう。オランダは海洋貿易で潤っていた国であったので、その経済は下降をたどる一方だった。
それにもかかわらず、レンブラントは浪費をやめられず、借金がかさんだ。英蘭戦争は2年続いたが、それが一段落した1654年にヘンドリッキェは娘を生んだ。借金の返済のため、コレクションしていた美術品を競売で売り、館まで手放す。
当時アムステルダムにあった画家ギルドは、スキャンダルにまみれたレンブラントを画家として認めない方針とした。そのときヘンドリッキェは立ち上がり、サスキアの息子ティトゥス(20歳)と共同で、画商になる決心をする。この2人はレンブラントのために絵の注文をとり、それを高値で売ることに努めた。
レンブラントの苦難の時を献身的に支え続けた気丈なヘンドリッキェであったが、その後、アムステルダムを襲ったペストに感染し、1663年、38歳の生涯を閉じる。アムステルダムの運河のほとりにあり、オランダ最大のプロテスタント教会である西教会に、ヘンドリッキェは埋葬される。レンブラントがその教会に葬られたのは、それから6年後の1669年であった。
(川島、2015年、139頁~149頁)。
『イザベラ・デステ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
『イザベラ・デステ』と『モナ・リザ』の比較
ルーヴルの『モナ・リザ』のモデルとして、イザベラ・デステ説について言及し、共通点と相違点を指摘している。
共通点としては、
・どちらも右手を左手の上に置いているポーズ
・右手の人差し指が中指から離れている
・どちらの服装も襟元が大きく開いていて、ふくよかな胸を想像できる
・額は広く、理知的な顔立ち
・髪は肩をおおうほど、豊かで長く、真ん中から分けてさらりと流している
一方、大きな違いは、
・『モナ・リザ』が正面を向いているのに対して、『イザベラ・デステ』は横向きになっている
・『モナ・リザ』が完成した絵で、『イザベラ・デステ』はデッサンで終わっている
イザベラ・デステ(1474-1539)の生い立ちと結婚
次に、川島氏は、イザベラ・デステの生い立ちについて述べている。イザベラは1474年5月18日に生まれる。父はイタリアのフェラーラ公国の君主であり、母はアラゴン王の王女である。両親はメディチ家以後、もっとも芸術家を庇護する君主夫妻と敬われていた。そして、フェラーラのルネサンス初期の建物の多くは、現在ユネスコの世界遺産に登録されているが、それらはイザベラの父の時代のものである。イザベラも、幼い頃から芸術に格別の関心を抱いていた。
1490年、15歳で、フェラーラ公国の隣国マントヴァ国の当主、26歳のフランチェスコ2世ゴンザーガ侯爵と結婚した。夫は勇敢で武術に秀で、しかも芸術にも大きな興味があった。それは父フェデリコ1世の影響だった(父フェデリコ1世は、ルネサンス期の画家アンドレア・マンテーニャと親しく、その作品を多数購入していた)。
また、マントヴァは、人工的に造られた3つの美しい湖に囲まれた風光明媚な土地で、『ロミオとジュリエット』の舞台になったほどの麗しい国だった。
(悲劇『ロミオとジュリエット』で、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放されるが、直ちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いて、ヴェローナへ帰還する)。
マントヴァ国とミラノ公国の姉と妹
結婚後、イザベラは重厚な趣のドゥカーレ宮殿に暮らした。この宮殿の「夫婦の間」は、天井にも壁にも、巨匠マンテーニャのフレスコ画が描かれている。
ゴンザーガ家の繁栄と栄光を願って描かれたために、マンテーニャはゴンザーガ家の家族が和やかに団欒している光景を描いた。
マンテーニャのフレスコ画は、これを鑑賞するためだけでも、マントヴァを訪れる価値がある、と語られていた。イザベラは、芸術家の庇護を積極的に行っていたゴンザーガ家の一員となり、マントヴァを華麗な芸術の花が咲く国にしようという思いを強くしたようだ。
ところで、当時、もっとも華やいでいたのは、マントヴァからさほど遠くないミラノ公国だった。その支配者ルドヴィコ・スフォルツァ、通称イル・モーロに嫁いだのは、イザベラの妹ベアトリーチェだった(イザベラが結婚した翌年1491年ことだった)。
イル・モーロは結婚して4年後、甥を抑えて、正式にミラノ公国になる。文芸を重んじていた彼の宮廷では、作家や哲学者、芸術家を中心とした華やかな社交がくり広げられていた。その公妃となった妹ベアトリーチェは、金に糸目をつけない宝飾品で身を包み、光り輝いていた。姉イザベラは、そうした妹に嫉妬を抱いていたようだ。
ミラノ公国とレオナルド・ダ・ヴィンチ
イザベラが悔しがったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノに招かれ、公爵夫妻のために、あらゆる分野で才能を発揮していたことであると川島氏はみている。
時代は少し遡るが、ダ・ヴィンチがイル・モーロの招きに応じて、フィレンツェからミラノに移り住んだのは、1482年だった。その理由には諸説がある。宮廷画家として、または宮廷の音楽師として招かれたとか、武器の発明家として必要とされたとか、イル・モーロが亡き父のブロンズの騎馬像を依頼するためだったとか、いわれている。万能のダ・ヴィンチであったから、そのすべてをかわれて、ミラノに招かれたかもしれない。
栄華を誇っていたミラノ公国の権力者に認められたことは、ダ・ヴィンチにとって幸運なことであり、その活躍は素晴らしかった。画家として最大の業績としては、ルーヴルの『岩窟の聖母』と、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画『最後の晩餐』といった秀作を残したことである。これらの作品は、「時空を超える無比の才能の輝きを宿している」と川島氏は評している。
煌びやかなミラノが一挙に崩れるときが来た。1498年、ローマやヴェネツィアを味方にして、フランス国王ルイ12世がミラノ侵略を開始した。無残にも敗北したミラノ公爵イル・モーロは捕虜になり、フランスに連行され、ロワール河畔の城の牢に幽閉され、そこで1508年に死去してしまう(彼の妃ベアトリーチェは、1495年に既に21歳の若い生涯を閉じていた)。
そうなると、イル・モーロの庇護下にあった芸術家たちは、ミラノを後にし、その多くはヴェネツィアへと向かった。ダ・ヴィンチもそのひとりだった。
マントヴァとレオナルド・ダ・ヴィンチ
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴェネツィアへ向かう途中で、マントヴァに立ち寄った。そのことを知ったイザベラは、手放しで喜んだにちがいない。イザベラは、彼の才能に、ますます魅了されていた。とくに1489年、イル・モーロの若く麗しい愛妾、チェチリア・ガッレラーニの肖像画(1489年~1490年頃)を見たときから、イザベラは自分の肖像画を描いてもらいたいと熱望していた。
現在ポーランドのツァルトリスキ美術館にある『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれるチェチリアの肖像画である。それは、「あふれるほどの気品と知性がほとばしる女性として描かれている」と川島氏は評している。
この優美な絵をイザベラがどこで見たかは明らかになっていないが、1498年との記録があり、マントヴァだったと想像されている。というのは、その年にフランスがミラノに攻め入り、身の危険を感じたチェチリアが、イザベラに保護を求めてマントヴァに来たから。おそらく、イル・モーロが、最愛の人に亡き妃の姉の国を勧めたのだろうとみられる。その時、チェチリアは、ダ・ヴィンチが描いた肖像画を持参し、イザベラが目にしたと考えられている。
イザベラが、妹のライバルともいえるチェチリアを温かく迎えたのは、ラテン語を理解し、詩を綴るなど、知性のある女性であることを知っていたとみられる。イザベラは、マントヴァを文芸を重んじる国にしたかったので、チェチリアのような女性が必要だったのであろう。
ダ・ヴィンチがひとりの女性の肖像画を手がけるのは珍しいことであった。しかも、チェチリアをモデルにした絵は素晴らしかった。イザベラは感激して譲ってほしいと思ったが、結局それはかなわなかった。
しかし、それを描いたダ・ヴィンチが、自分の国マントヴァにいる。このチャンスに、イザベラは、あの、チェチリアの肖像画のような静謐な絵を描いてもらいたかった。イザベラから依頼を受けたダ・ヴィンチは、何故かデッサンを描いた。その1枚がルーヴルの『イザベラ・デステ』である。シンプルな服に身を包み、彼女の横顔を描いた素画である。
デッサンではなく、ぜひとも肖像画を描いてほしいと、その後イザベラは何度もダ・ヴィンチに依頼した。ダ・ヴィンチがマントヴァを離れ、ヴェネツィアやフィレンツェにいる間にも、マントヴァ大使を通じて催促した。しかし、ダ・ヴィンチは実現しなかった。多忙を理由にいつか描きますといいながら、描かなかった。
(ただし、川島氏は、「もしも、『モナ・リザ』がイザベラでないのであるならば」と付記することを忘れていない)。
イザベラ・デステにとっての苦境
1509年は、イザベラにとって苦難の年だった。夫フランチェスコ2世が、ヴェネツィアとの戦いで捕虜となり、幽閉された。夫は囚われの身となり、跡取りの息子はまだ少年であった。
イザベラが政治に目覚め、軍を組織し、国民の団結を呼びかけ、諸外国の君主に援助要請の手紙を矢継ぎ早に書いた。その功績が実を結び、夫は釈放された。約1年間の屈辱的幽閉から解放された夫ではあったが、妻の政治手腕によって妻イザベラの方は人気が高くなり、夫婦仲は悪化したようだ。
イザベラの活躍で、マントヴァは芸術家を支援する注目の国となった。そしてイザベラは、かねてから憧憬を抱いていたローマへと旅立ち、その地に滞在する。1514年、40歳のことである(ローマでは、ミケランジェロやラファエロが活躍し、ルネサンスの華麗な花が咲き誇っていた)。
その後、マントヴァに戻り、侯爵夫人としての役割をこなしていたが、1519年3月、夫のフランチェスコ2世が52歳で逝去してしまう。15歳の長男が侯爵の称号を継ぎ、イザベラは摂政を務める。
1527年に神聖ローマ皇帝カール5世がローマに進入したときには、イザベラはローマに滞在し、コロンナ家の居城にいた。この「ローマ略奪」と呼ばれる侵略で、カール5世の皇帝軍は、ローマを破壊し、文化人はローマから逃げ出した。1450年から続いていた最盛期のルネサンスは終焉を迎えた。
コロンナ家は皇帝軍側にいたため、イザベラがいたコロンナ城は破壊を免れたが、輝かしい文化を誇っていたローマは廃墟と化した。
1530年、イザベラの息子は成長し立派に国を治めるようになり、侯爵から公爵に昇格した。その後、イザベラは、ステュディオーロ(書斎)で過ごすことが多くなったようだ。その部屋には、マンテーニャの絵が数枚あったし、ティツィアーノとロマーノの描いたイザベラの肖像画も飾られていたといわれる。彼女は教養を重んじる格別な女性であった。
1539年2月13日、稀に見る才知と魅力を備えている女性として敬われていたイザベラ・デステは、64歳の生涯を閉じた。
このイザベラ・デステの項を、川島氏は、次のような含みのある文章で結んでいる。
「これほどのイザベラ・デステである。そうなると、ダ・ヴィンチが単なるデッサンだけで終えたとは、とても思えなくなる。彼はイザベラに何かを感じたはずである。
素画はルーヴルの一枚だけでなく数枚描いたと記録されている。それをもとにして彼が、何年もかけて描き続けているうちに、ついに理想的な女性像となった。それが『モナ・リザ』だということも考えられないことはない」(169頁)。
(川島、2015年、151頁~169頁)
『モナ・リザ』レオナルド・ダ・ヴィンチ
ルーヴル美術館の『モナ・リザ』
ルーヴル美術館の『モナ・リザ』は、「女王的存在」「傑作中の傑作」である。
『モナ・リザ』には、誰が描かれた絵画なのかというモデルの問題がある。
イタリア美術史専門家のカルラ・グロリは、ミラノ公爵の娘ビアンカ・ジョヴァンナ・スフォルツァと確言している。ビアンカは15歳で世を去っているけれど、レオナルドはビアンカに年をとらせて描いたという驚くべき説を川島氏は紹介している。
その他、レオナルドの自画像説、マントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ説、ミラノ公妃イザベラ・ダラゴン説を挙げている。
ルーヴル美術館の絵の本来のタイトルは、『ラ・ジョコンド』つまりジョコンド夫人で、『モナ・リザ』は通称である。ちなみにモナ・リザは私のリザという意味のイタリア語である。
リザ・デル・ジョコンドの生い立ちと結婚
リザがフィレンツェのゲラルディーニ家に長女として生まれたのは、1479年6月15日である。1495年3月、彼女が15歳のときに、同じフィレンツェ生まれの14歳年上のフランチェスコ・デル・ジョコンドと結婚した。リザは2番目の妻だった。
ジョコンド家は、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会に家族の墓所があり、かなり立派な家系だった。
1501年、レオナルドはその教会の修道院に世話になっていた。そのときにジョコンドがレオナルドと知り合い、後に妻の肖像画を依頼したのではないかとみられている。
ジョコンドは絹織物を取り扱う裕福な商人で、リザとの仲はむつまじく、二人の間には5人の子供がいた。ジョコンド夫妻のふたりの娘は修道女になっている。
1499年、ジョコンドは行政官に選ばれ、メディチ家と親しくなっている。ジョコンド家はメディチ家ほど大規模ではなかったが、芸術を愛した。
レオナルド・ダ・ヴィンチとリザと肖像画
レオナルドがジョコンドに頼まれて、その妻リザの肖像画を描き始めたのは、1503年で、彼女が24歳だった。妻の肖像画を依頼したのは、2つの理由が推測されている。すなわち
、その前年に二番目の息子アンドレアが生まれたこと、そして新たな家を購入したことである。
レオナルドが『モナ・リザ』を1503年から描いていたことは、レオナルドの友人であるフィレンツェの公証人、アゴスチーノ・ヴェスプッチが残した当時の記録から明らかになっている(ドイツのハイデルベルク図書館にあるメモによると、レオナルドは3枚の絵を描いていて、そのうちの1枚はリザ・デル・ジョコンドの肖像画であるという。この図書館は、2008年にこの事実を発表した)。
『モナ・リザ』のモデル問題
けれども、レオナルドは依頼主ジョコンドに、彼の妻の肖像画を渡すことはなかった。その理由についても諸説ある。ジョコンドが気に入らなかったというのも一つである。
代金を支払ったという記録もなく、肖像画はレオナルドの手元に最後まで残っていた。
ここで、川島氏は、再び、モナ・リザのモデル問題について取り上げている。
レオナルドが筆を進めるうちに、目の前にいるリザに、母の面影を重ねていったという説を紹介している。
公証人セル・ピエロ・ダ・ヴィンチと、農民カテリーナの間に私生児として生まれ、幼いときに父親によって母から引き離されたレオナルドは、母への思慕に大きかったとみて、母を求め続けていたレオナルドが、リザになつかしい母の姿を重ねたというのである。
あるいは、『モナ・リザ』は、レオナルドの母を超え、全人類の生みの母、聖母マリアなのかもしれないという。当初はリザを目の前に置いて、その肖像画を描き始めたが、時が経つに従って、自分にとって理想と思える女性に変わっていったことも考えられるとする。
いずれにしても、1516年にフランス国王フランソワ1世の招きに応じて、フランスに暮らすようになったときにも、この絵を伴っている。
リザの最期
さて、レオナルドがフィレンツェを去った後も、平和に暮らしていたリザだったが、1538年、大流行したペストで夫に先立たれた。未亡人となったリザは、最初長男の家族と暮らしていたが、しばらくして病にかかり、娘のいるサンタ・オルソラ修道院に入ったが、そこで1542年7月15日、63歳で生涯を閉じた。そして同じ修道院に埋葬された。
『モナ・リザ』に関する著者の見解
ジョコンドの名は17世紀に消滅したらしいが、リザの子孫は今も健在で15代目の女性がおり、雑誌のインタヴューに答えたという。こうなると、『モナ・リザ』となった女性が、あまり現実的になり、絵の見方まで変わってしまいそうで、残念な気がしないでもないと川島氏は感想を述べている。
そして、川島氏は次のような文章で締めくくっている。
「『モナ・リザ』は、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、その後数年間にわたって筆が加えられ、モデルとなった女性から離れ、実際には地上に存在しなかったダ・ヴィンチの理想の女性となった。ダ・ヴィンチはその人を常に近くに置き、見つめ、語りかけ、聞えない声を聞き、自分慰め、心に平和を広げていたのだと信じていたい。」と。
川島氏も、『モナ・リザ』について、当初はリザ・デル・ジョコンドの肖像画として描かれていたが、筆が加えるうちに、モデルとなった女性から離れ、ダ・ヴィンチの理想の女性となったという説を支持している。
(川島、2015年、171頁~181頁)
【読後の感想とコメント】
以上、川島ルミ子氏の著作内容を紹介してきた。女性の肖像画の像主について、その人生のドラマを、物語性と叙述性を備えて、簡潔に記されており、絵画鑑賞に参考となる著作であることが納得していただけたのではないかと思う。
ジャンヌ・ダルクの肖像画
とりわけ、冒頭に取り上げてあるジャンヌ・ダルクの絵は、アングルの想像の産物であったことには、注意する必要があろう。そもそも、ジャンヌ・ダルクが歴史上注目されだした理由は、フランス近代のナショナリズムの勃興と深く関連するという説がある。つまり、フランス国民の意識を高揚するために、ナポレオンが“救国の少女”として、ジャンヌ・ダルクを取り上げたというのである。
そう考えると、ナポレオンの宮廷画家ダヴィッドの弟子アングルが、ジャンヌ・ダルク像を絵画に残したことも、より納得できる。
ジョゼフィーヌの肖像画
また、ジョゼフィーヌの肖像画において、女性の肖像画というカテゴリーにこだわったために、プリュードンの絵を選択せざるをえなくなったものと推測される。
しかし、ルーヴル美術館で、ジョゼフィーヌの登場する絵といえば、何といっても、ダヴィッドの大作「ナポレオン一世の聖別式とジョゼフィーヌ皇后の戴冠」(1806/1807、621×979㎝)であろう。
横10メートル近い大作で、ジョゼフィーヌはナポレオンから冠をかぶせてもらいかけている場面である。ダヴィッドは、当時リュクサンブール宮にあったルーベンスの連作の1枚である「マリー・ド・メディシスの戴冠」(今はルーヴル美術館にある。川島ルミ子氏も取り上げていた)の構図を参考にしたとみられている(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年、213頁。およびミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年、104頁~105頁)。
この絵およびダヴィッドについては、鈴木杜幾子氏の上記の著作に詳しい。画家ダヴィッドについては、第3番目の『マダム・レカミエ』の作者として、取り上げているが、物足りない。
ポンパドゥール夫人について
飯塚信雄氏は、プロイセンのフリードリッヒ大王と、ポンパドゥール侯爵夫人の肖像画について、次のようなエピソードを記している。
「大王はポンパドゥール侯爵夫人に丁寧な書簡をおくり、ラトゥールの描いた侯爵夫人像の複製をぜひちょうだいしたいと猫なで声でお願いする一方、できるだけ侯爵夫人にゴマをすれ、とフランス駐在大使に訓令した」
(飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年、198頁)
このエピソードは、ポンパドゥール侯爵夫人が、フランスという国を代表して、いかに外交に力をもっていたかがわかると同時に、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールによるポンパドゥール侯爵夫人の肖像画が知られていたかを物語るものといえよう。
パステル画のラ・トゥールの方の肖像画は、ポンパドゥール侯爵夫人のブドワール(私室)で蔵書にかこまれて描かれている。
夫人の机の上の本には、有名な本が並べられているそうだ。モンテスキューの『法の精神』や、ディドロらがまとめた啓蒙思想の集大成である『百科全書』がある。この『百科全書』は、イエズス会に発刊を妨害されたが、その時夫人は出版長官のマルゼルブとともに出版を助けた。夫人は新興ブルジョワジーの出であるので、開明思想に共鳴したのであろう。マルゼルブは、ルソーやディドロの友人であった。彼は『百科全書』の原稿差押え命令が出された時、その執行を故意に遅らせ、原稿を官邸に隠させたりしている。そして実際にも編集に携わった(『百科全書』は4100部を予約出版したが、この時代としては、画期的な売れ行きであった)。
ところで「ポンパドゥール侯爵夫人」を描いた有名な画家として、もう1人フランソワ・ブーシェがいる。ロココの全盛期を代表する画家である。幸福感に満ちた可能的な絵を得意とした。1日に10時間も精力的に仕事をして、生涯1万点もの絵を描いた。
このブーシェの映画いた夫人の肖像画は、ラ・トゥールのものより、かわいらしく描かれている。夫人はのちにブーシェから絵を習っている。
ブーシェは、40歳を過ぎてから、ポンパドゥール夫人に気に入られ、首席宮廷画家に就任し、のちの絵画アカデミーの会長にもなった。またゴブラン製作所の所長も務めた。そしてセーヴル陶器工場の下絵デザインや、オペラ座の舞台装置も手掛け、多才ぶりを発揮した。
アンリ4世、王妃マルゴ、ガブリエル・デストレ
アンリ4世の最初の妻、王妃マルゴについては、アレクサンドル・デュマの歴史小説があり、映画にもなったので、広く知られている。
アレクサンドル・デュマ(1802-1870)は、フランスのロマン派を代表する作家である。『三銃士(Les Trois Mousquetaires)』(1844)、『モンテ=クリスト伯(Le Comte de Monte-Christo)』(1844-45)などの歴史小説の傑作によって世界中に親しまれている。『王妃マルゴ』もそうである。デュマ・ペール(父)と呼ばれる。
一方、『椿姫(La Dame aux camélia)』(1848)は、デュマ・フィス(子)(1824-1895)と呼ばれる息子の方の作品である。
例えば、本や映画は次のものがある。本では、アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]。
訳者榊原晃三氏も「訳者あとがき」(377頁~384頁)で述べているように、小説『王妃マルゴ』において、マルゴとラモル(そしてココナスとアンリエット)の悲痛な愛を縦糸として、その周囲にカトリーヌ母后、シャルル9世、アンリ・ド・ナヴァール、ギーズ公、アランソン公などの実在の人物と、実際に起こった出来事とをほぼそのまま配して、ヴァロワ王朝の実体とこの時代の特徴を描いている。
ルネサンス期、宗教戦争に明け暮れたフランス、ヴァロワ王家の内幕の特徴をとらえていると訳者は評している(デュマ[榊原訳]、下巻、1994年[1995年版]、380頁~381頁)。
物語は、1572年8月18日、パリのルーヴル宮での盛大な婚儀から始まる。シャルル9世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ)と、ナヴァール王アンリ・ド・ブルボン(ブルボン王朝の始祖で、のちのアンリ4世)との婚儀である。周知のように、1572年8月24日のサン・バルテルミの事件のきっかけとなり、物語が展開する。
映画『王妃マルゴ(La Reine Margot)』(1994年、フランス映画)は、イザベル・アジャーニが王妃マルゴを熱演し、1994年カンヌ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞した。
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『モナ・リザ』のモデル問題
『モナ・リザ』のモデル問題には、諸説がある。最近では、元木幸一氏は、
「近年、≪モナ・リザ≫のモデルがモナ・リザ(リザ夫人)であることがほぼ確定した」(45頁)と明言し、「≪モナ・リザ≫の笑顔は、第一義的には注文主である夫ジョコンドに向けられている」(99頁)と解釈している(元木幸一『笑うフェルメールと微笑むモナ・リザ――名画に潜む「笑い」の謎』小学館、2012年、45頁、99頁)。
一方、そのモデルをイザベラ・デステだと主張する代表的な美術史家に田中英道氏がいる。
イザベラ・デステの肖像と「モナ・リザ」図の類似性について、述べている。すなわち、『モナ・リザ』のモデルが、ゲラルディーニ家の娘リザではなく、イザベラ・デステであることを、「第8章 果たしてモナ・リザか」の第2節の「イザベラ・デステの像」において、論述している。
「イザベラの肖像の素描と「モナ・リザ」図における顔ばかりでなく手の組み方まで似ている類似性、そしてイザベラの手紙とそれに対する返事は、レオナルドがイザベラの肖像画を制作していたことを証拠だてているといってよいだろう。恐らく1506年までまだ未完成で、引渡す状態ではなかったであろう。その後催促がとだえてから、イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求していたのかもしれない。しかし、「貴婦人の肖像」においてモデルがあのように深化した肖像になったのは、何よりもマントヴァ侯夫人イザベラに対する敬愛の念があったからではなかったか、と想像されるのである。」
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、262頁)
このように、「貴婦人の肖像」を、リザではなく、イザベラ・デステとする。そして、イザベラの催促がとだえてから、「イザベラの肖像から離れた女性の理想像を追求」したと推測している。そのように深化した肖像になった理由は、イザベラに対する敬愛の念に求めている。
最終的には、「より理想化して描き進むにつれ、それが肖像画を離れて一個の聖母画のごとき理想画に進行していく」と、田中英道氏は理解している。
(田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]、266頁)
川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれに同一の見解である。以前にも紹介したが、久保氏は次のように記している。
「現在、パリのルーヴル美術館が所蔵するレオナルドのいわゆる『モナ・リザ』( “Monna Lisa”, detto“La Gioconda”)は、芸術的見地からすれば、ある特定の婦人の肖像画、などという生やさしい絵ではない。レオナルドの天才は、この絵を制作しているうちに、いつしか特定の婦人像という枠を超えて、たしかに女性そのものの本体の表現にまで至らしめた。そのことは、この絵が、特定の婦人の特殊的な一回的なあるいは偶然的な顕れでない、あらゆる性向を包蔵する女性それ自体を形象化した普遍的人格像、にまで高められているということである。それが、この巨匠にしてはじめて可能な至芸であったことは、この絵の無数の模作と較べてみればよくわかる。」
(久保尋二『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究――その美術家像』美術出版社、1972年、237頁。「第3章 レオナルド芸術の諸問題」の「『モナ・リザ』のモデル問題と制作年代」より)。
川島ルミ子氏の見解は、久保尋二氏のそれと同一の見解である。それは、『モナ・リザ』をレオナルドの自画像とするといった見解とせず、奇をてらうことなく、正当で穏当な見解であろう。
なお、『モナ・リザ』のモデル問題については、後日、詳述してみたい。
フェルメールの 「レースを編む女」について
また、ルーヴル美術館にある女性肖像画で、像主が一般市民で、いわゆる“有名人”でないために、候補から漏れた絵もある。絵そのものの美しさからいえば、ルーヴルのベスト10に入る女性肖像画だと個人的には考える、フェルメール「レースを編む女」(1665年頃)がある(ラクロット、1994年、216頁)。
こうした今回取り上げられていないルーヴル美術館の女性肖像画をも、今後解説してもらいたい。
西洋美術史の美女たち
今回は、川島ルミ子氏が取り上げた女性の肖像画を紹介したが、著者が違えば、その肖像画も異同が生じる。例えば、木村泰司氏は、『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』(光文社新書、2010年)において、川島氏と重なる肖像画を取り扱っている。
例えば、
第2章 イザベラ・デステ――ルネサンスの熱狂を生きた美女
第8章 ガブリエル・デストレ――王と国家に尽くした寵姫の鑑
第9章 マリー・ド・メディシス――尊大な自我の運命
第12章 ポンパドゥール夫人――ロココの「女王」の華やかな戦い
また、川島氏が間接的に言及されたマリー・アントワネットも扱っている。
第13章 マリー・アントワネット――国民に憎悪された王妃
機会があれば、木村泰司氏の著作も紹介してみたいが、章立てのみ、ここでは記しておく。
【参考文献】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の首席画家へ』晶文社、1991年
ミッシェル・ラクロット他編(田辺徹訳)『ルーヴル美術館 ヨーロッパ絵画』みすず書房、1994年
飯塚信雄『ロココの女王 ポンパドゥール侯爵夫人』文化出版局、1980年
アレクサンドル・デュマ(榊原晃三訳)『王妃マルゴ(La Reine Margot)上下巻』河出文庫、1994年[1995年版]
田中英道『レオナルド・ダ・ヴィンチ――芸術と生涯』講談社学術文庫、1992年[2004年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史――肖像画は語る』光文社新書、2010年
川島ルミ子『ルーヴル美術館 女たちの肖像 描かれなかったドラマ』 (講談社+α文庫)
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