「アメリカン•スクール」の見学に訪れた3人の日本人英語教師たちの、不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、芥川賞受賞の表題作。
敗戦後の貧しくもあり、滑稽な日本を描いた短編モノだが。芥川受賞作にしては構成がバラバラで掴み所がないとの不評も多い。
しかし、1954年の古い作品にしては、不思議と同調を覚えたのも事実。もしかしたら、戦後の”ヘンテコな国”日本の実像を、そのまんま等身大に具現した作品なのかもしれない。
伊佐とミチコと山田
英語教師の伊佐の、英語を話す事への内に秘めた激しい拒絶は、著者のアメリカに対する鬱積した感情をそのまま”記述”している。
一方、そういう陰気な伊佐を徹底的に嫌うも、逆にアメリカに媚を売る、同じ英語教師の山田も激しい憤りを感じていた。
”負けたとはいえ、このアメリカン•スクールは俺達の税金で建てたんだ。こんな贅沢な環境での教育じゃ、参考になる筈がない”
一方で、伊佐に気があるミチコも”私の方がずっと教養が上なのに、この差は何ナノ?”と目頭を抑える。実は、ミチコの亡き夫も伊佐に似て、無口で無愛想な”優男”だったのだ。
しかし、不穏で陰気な空気を漂わせる伊佐とは大きく異なり、山田もミチコもこのアメリカンスクールの訪問には、大きな期待と希望を抱いていた。だが、アメリカ人の日本人に対する扱いは、まるで虫けらそのものだったのだ。
但し、この訪問に最初から嫌気が差し、鬱ぎ込んでた伊佐は、複雑な思いに浸りながらも様々な理由を口実に、必死にアメリカ人との接触を避け続ける。
しかし、この気弱な陰湿男の伊佐は、不思議とブロンド女にモテるのだ。
特に、鬱ぎ込んだままの伊佐と快活で奔放なブロンド女の保健室での2人きりの会話は、微妙にエロチックにもメルヘンチックにも映る。
ここでの描写は、ある意味クライマックスとも言える。無口で冴えない日本男児にブロンド女が唯一気を許す?シーンなのだ。
何も喋ろうとはしない伊佐に、この金髪女は煙草を蒸しながら、部屋の鍵を掛け、さり気なく語りかける。
煙草、保健室、ブロンド、無口な男
何気ないシーンだが、私めにはとても魅惑的に悦楽的に映った。私が伊佐だったら、全てを投げ売って、この金髪女を犯してたかもしれない(笑)。
”こっちは無条件で敗北を受け入れたんだ。一発くらいは多めに見ろよ”って。イヤそうでもないか。
いや、そう思わせてくれただけでも私には傑作に思えた。
一方、ミチコはこの金髪女に嫉妬し、”まるでハリウッド女優が教壇に立ってるみたい、文法なんて判ってるのかしら?”と皮肉る様は実に愉快に映る。
展開の最後は、自慢の英語力を披露しようと目論む山田が、何とかモデルティーチングを試みようと校長を説得しようとするが。
執拗に反対する伊佐と山田との珍道のドタバタ劇に、ミチコが巻き込まれ、慣れないハイヒールを滑らせ、危うく大怪我をしそうになる。
それを見た校長は激怒し、山田の企みは無と帰す。山田は頭を垂れ、伊佐は一人ぼっちになり、呆然自失のミチコは保健室に担ぎ込まれる。
最後に〜一風変わった傑作
解説にもある様に、”英語を話したら、別の人間になってしまう”という伊佐の曖昧な立ち位置が、この作品を最後まで包み込んだ。
伊佐に降りかかる奇妙なハプニング、それに奇怪な屈辱や労苦が、無気力な彼を支える唯一の抵抗でもあったのだ。
珍道で滑稽な「アメリカン•スクール」訪問ではあるが。戦争に負けた悔しさというより、ミチコが感じる様に、アメリカに英語に憧れ、喜びと興奮が全てを支配し、自分が自分でなくなるという皮肉な感情こそが、この作品のテーマなのだ。
それでも貴方は、この傑作にケチをつけるのか?
村上春樹は、小島信夫のこの短編集を読んで、この作家は”奇妙な物語を描くが、どこにも到達できない作家”と言い放った。言い換えれば、主人公の伊佐も奇妙な男だが何処にも到達できない男なのだろうか。
私に言わせれば、村上さんアンタこそ何処にも到達出来ない大物作家じゃないのか?って事になる。
作家には文才以前に、それぞれの属性ってもんがある。上手な文章を書きたけりゃ、プロのゴーストライターを雇えばいい。つまり、卓越したアスリートが名選手になれるとは限らないのだ。
確かに、芥川賞受賞作にしては一風変わった作品でもあるが、同時に非常に気になる傑作でもある。
それでいて、絶妙で巧みな筆致で読者を惹きつけて離さない。
戦後日本の、アメリカによりもたらされた開放と屈辱を”土俗”民が捉えた自虐的で滑稽な珍世界とも言えますね。
コメント参考になります。
小島氏が描くアメリカが、”近代”という仲介者なしに”土俗”がそのままとらえた”アメリカ”であり、大江氏が描くアメリカは何かを開放してくれた存在のアメリカである。
小島氏は深い敗北をもたらした圧力、それも繋がりようのない圧力としてアメリカを見つめている。
故に、アメリカを世界の正義と見れば、アメリカンスクールは奇妙に思えるでしょうが、日本人の深層的な意識の中には、小島氏のような割り切れない何かが亡霊のように取り憑いてるのかもしれません。
英語を喋りたくてたまらない山田と、英語を喋らずに済ませようとする伊佐との間をミチコが取り仕切ろうとするけど、そんな対比にも通じるものがありますね。
小島信夫氏の小説は他に「汽車の中」や「小銃」などを呼んだ記憶がありますが
言われてる程に奇妙ではなく、非常に美しく繊細で、自分に正直な小説だと感じました。
暇があったらこれも記事にしたいとは思いますが、お陰で小島氏の小説を再読してみたくなりました。
特にアメリカンスクールは何度読んでも笑えますね。
では・・・
それでいて
母性本能をくすぐる繊細な優しさがある
こういう人ってモテるのよ(๑˙❥˙๑)
ということで
戦後の奇妙な脱ニッポン人を描いた
小島信夫さんに座布団3枚
日本の握り寿司も、結局はどこにも到達できない食文化なんでしょうか。
ファーストフードなのか?美食なのか?
無条件で海外の文化を取り入れてきた日本という可哀想な国。
握り寿司に群がる日本人を見てると、そういう思いが強くなりますね。
アメリカに憧れアメリカに幻滅する
しかし今の日本は昔の日本じゃないし
アメリカに無条件で敗北を認めた国
日本という何処にも到達できない国の明日を見てるみたいですねぇ〜
最近は、ゴーストライターに頼るタレント受賞作品が蔓延ってますから、昔の本の方が読み応えはありますね。
だから、村上春樹も嫌いじゃないし、彼は大物だけど、小説にはオチが少ないような。
この作品をクソ真面目に読むと、どうしてもケチ付けたくなりますよね。
自信満々の山田が撃沈したシーンでは、少し溜飲が下がったんですが。ミチコの微妙な心の揺れ動きには、終始惹かれっ放しでした。
小説って、読む側にそれぞれに見方があるように書く側も属性があるんですよね。ウ~ン納得です。
つまり、転んだサンは金髪の女教師に焦点を当ててる。想像は膨らます事で小説の次元を高める事が出来る。
モーパッサンのベラミと同じで、こういう一見亜種な作品も悪くはないです。