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話を”その2”の終りに戻します。”成功はゴミ箱の中に”と”我が豊穣の人材”では、全く話が食い違うので、そこら辺を修正&加筆しながら、大幅に編集し直します。
さてと、運命の1954年にフィードバックします。8台ものマルチミキサーを稼働させてた、サンバナディーノのマクドナルド兄弟の店が、クロックの宿命をマクドナルドの運命を、180度変える事になリます。ここにて、”20世紀の理想のビジネスモデル”をクロックは見出すのですが。
前述の様に、ジューン•マルチーノ(イラスト右)という極貧ながらも、卓越した経理助手を得た彼は、独学で法律を学んだハリー•ソナボーン(イラスト左)と出会い、引き抜きます。二人の知才を得たクロックは、ここにて生涯で一番の大きな賭けに出るのです。三人共、ハングリー精神旺盛でクレバーでタフな、ユダヤ系というのが大きな支えになったんですかね。
翌年の1955年3月、念願のフランチャイズ運営会社(McDonald System)を立ち上げます。17万ドルを投資した、この不動産会社こそが、後のマクドナルド(McDonald's Corporation)になるのです。
これもソナボーンのアイデアだったんですね。彼のアドバイスと後押しがなかったら、既に50歳を超えてたクロックは持病の糖尿病で潰れてましたな。
続く4月には、イリノイ州デスプレーンズに、自ら念願のフランチャイズ一号店をオープンします。オーナーには、元金物商のエドマクラキーに任せます。これも大当りですが、起動に乗せるに丸一年掛ります。
しかし、マクドナルド兄弟の圧倒的優位な契約だったが故に、直ぐに頓挫します。ここでも再びソナボーンの出番です。
《ソナボーンの手腕と不動産チーム》
ソナボーンは、ジョン•ジャージャックという不動産専門の弁護士を雇います。この31歳の野心家は、地方の店舗の融資を対象にした小規模な地銀に目を付けた。当時の店舗は郊外が殆どだったから、マクドナルドの宣伝には好都合だったのです。
ジョンは、土地所有者との賃貸契約を無担保ローンで結び、その抵当権を元に、5%の建物(住宅)ローンを作るのです。結果、資産価値は建物に優先され、クロック達はずっと有利になったとあるが、所詮、住宅ローンでは借りられる額に限度があったんです。
そこでジョンは、10年のローンに対し、7%+融資手数料5%と1万5千ドルの店舗預金の差出しという、美味しい話をちらつかせ、4万ドルの融資を勝ち取ります。
これが止めの一撃となり、多くの銀行家が、マクドの安いフードビジネスという”負のイメージ”を捨てたんです。
マクドナルドは自前の不動産チーム以外にも、社外の不動産ブローカー(仲介人)も頼りにした。ディック・シューポットはその1人で、1958年からマクドナルドとの取引を始め、60年代に250件もの不動産契約をまとめた。これはこの10年間にマクドナルドが建てた全店舗の1/4だ。
彼は航空写真を使い、事前の調査には抜かりはなかった。ソナボーン同様、彼も高飛車な態度で臨んだ。”契約に至るまでに全サービスを提供してるんだ、手数料をケチるな、イヤなら他を当たれ”と。これが逆に地主を安心させるという、心理的効果をもたらした。銀行が融資を断ろうものなら、訴えてやると脅した。
《史上最大の危機》
クロックは手っ取り早い誘惑を抑え、組織の確立に努めます。故に最初の6年間は、利益という利益は生まれなかった。
故に、ソナボーンはどうしても、大手の機関投資家の大型融資が欲しかったんですが。ここでも、マクドナルド”史上最大の危機”が彼らを襲います。
1956年、マクドナルドの将来を担うべきの若手のフレッド•ターナーが加わり、反撃開始かと思われた矢先の事。
不動産仲間で、ゼネラルアソシエーツという開発業社のクレム•ボーアに裏切られる。クロックは、ボーアに9つの店舗(自伝では8つ)を建てる為の、土地取得と建設を全て任せていたが。ボーアは土地所有権を無視し、9箇所の建設工事を行っていたのだ。
ソナボーンは、フランチャイジーが払う保証金を頭金にし、9つの全ての土地を10年で買い取り、更に土地に対する抵当を低くし、銀行から建設費の融資を得て、この建物も10年で買い取る予定だった。ソナボーンが描いた青写真は完璧だったのだ。
お陰で、工事は頓挫し、ボーアは失踪した。当時の9店舗を一挙にとは、ソネボーンにとっては最大の取引だったし、マクドナルドの10%の拡張に相当するものだった。
結局、被害総額は、建設業者の債務40万ドルとフランチャイジーの出資13万5千ドル(1.5万✕9)を合せ、50万ドルを超えた。
サプライヤーから30万ドル、ソナボーンが知り合いの金持ちから何とか10万ドルを借り、危機を何とか凌いだと、クロックの自伝にはあるが。これも眉唾臭い。
最初は自伝通り、ソナボーンはサプライヤーに救いを求めた。納入業者5社にマクドナルドの社債を2万5千ドルで引き受けて欲しいと申し込んだが。彼らの方から進んで小切手を切ってくれたのだ。サプライヤーにとっても、マクドナルドは命の恩人だったのだ。
しかし、この12万5千ドル(2万5千✕5)の小切手も時間稼ぎに過ぎなかった。今すぐ建設業者に支払う40万ドルがなければ、マクドナルドは終わってしまう。クロックが30年掛けて積み上げた夢は、もろくも潰れ去るのだ。
ソナボーンは、”あの時は眠れない日が続いた。本気で自殺も考えた”と後に語ってる。
ソナボーンはプライドを捨て、物乞いの様に頭を下げ、”まとまった大金の出処”を探った。そこで行き着いたのが、オールアメリカン保険。この有名保険会社のEEバラード社長に縋った。ただ、バラードとクロックがゴルフ仲間という事が幸いしたのだ。
バラードはクロックのフードビジネスに興味を持ち、息子を向かわせたが。クロックは”フランチャイズを買うより、大型融資を”と、大胆に切り返す。
結果、バラードはクロックの人柄と商売のやり方に惚れ込み、50万ドルの融資を約束した。勿論、マクドの財務シートは芳しくなく、反対の声も多かったが、”地主の土地の抵当を下位に設定してるし、問題ない”とのバラードの一声で、アッサリと融資が決まったのだ。
こうして、オールアメリカン保険は、マクドのこの最初の大きな危機を救った。この大型融資がなかったら、今のマクドは存在しなかった。
一方、バラードはマクドナルドの危機には全く気付かず、店舗を視察する事もなかった。彼はクロックの”意気”に完全に統合したのだ。
結局、機関投資家というのは臆病なもので、同業者が投資してる所に投資ししたがるものだ。
こうして史上最悪の危機を脱したソナボーンは、同じシカゴの保険会社セントラルスタンダードからも同額の融資を取り付けるのだ。
以降は、色んな人達が融資してくれた。クレムは逃亡したが、大事な教訓を得た。9つの立地と有望なサプライヤーとの良好な関係を築けた。ピンチをチャンスと捉えない限り、競争社会では生き抜いてはいけない。僻んでたら、時代は進むだけなのだ。
ただこの融資には、ソナボーンが極秘で雇ったドレイフェスがいてこその芸当だったと、クロックの自伝にはあるが。ドレイフェスという名前は”我が豊穣の人材”には出てこない。
以上、長々とおさらいをしました。
何時も何時も貴重なアドバイスありがとうです。
早速、番外編としてブログを立てました。皆、考えてる事は一緒なんですね(笑)。
自伝本では語られていない事が多く、先に進む前にハリーソナボーンを噛ませます。
私も興味を持ち、このソネボーンの事を少し調べました。彼がクロックと対立した時、「成功の鍵はバンバーガーでもアツアツのポテトでもなく、この店舗という不動産だ」と言ったそうです。
勿論、現場の立場に立ち、ロイヤリティーを低く設定したクロックの貢献も素晴らしいものですが。
でもこれだけの人物がウィキなんかで紹介されてない事は少し残念です。本当にソネボーンに関する本を読んでみたいですね。
全くですね。ハリーにはずっとずっと助けられてます。現場至上主義のレイクロックの言い分も解りますが。陰で彼が支えなかったら、マクドナルド兄弟の旧契約の破棄も、実現し得なかった事でしょう。
無学のレイの根性論や精神論も無視できませんが。ハリーの独学と理論がなかったら、マクドナルド兄弟に潰されてたでしょう。理論が経験や精神論を上回った、初のビジネスモデルかなと。
この自伝本を読み終えた後では、つくづくそう思いますね。
こうなったら、レイクロック自伝より、ハリーソナボーンの自伝を読みたくなりました。
でもこのハリーとはケンカ別れしちゃんです。何と勿体ない事で。
レイクロックは教育や知量は関係ないと言ってますが、それらに大きく助けられたことも事実。グローバルなビジネスモデルの基礎を創ったのはまさしく、このハリーなんですね。