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私が敬愛する数学者の1人である小山信也氏(とは言っても私と同じ歳なのだが)ですが、彼が翻訳した「オイラー博士の素敵な数式」(P・J・ナーイン著)の冒頭に、”数学はいつからセクシーになったのか?”とある。
スラングと錯覚する程のユーモアにも映るが、この著書の原題は「オイラー医師の素敵な処方」との裏の意味を持つ。多分、オイラーに見入ってしまう数学者や人種の多くは、数学は美しいではなくセクシーに映るのだ。
そういう私はそこまで熟達してはいないので、”数学はエロい”と砕けで定義してみる。
2002年のボストングローブ紙の社説には、”数学が美しい”という概念は一般社会から隔離された世界にのみ存在していた。数学者たちによる大学のセミナーがそうだった。
それがいつの頃からか、トラック運転手やティーンエイジャー、それに定年後の老夫婦までもが数学に関わる様になる。
以下、「オイラー博士の素敵な数式」の序文と注釈から(主観を交えて)紹介しますが、かなり長いので2つに分けます。
この事実は「スパイダーマン2」(2004)を見ても解る。トビー・マクガイヤが”重力による効果時間が最小になる曲線を決定するベルヌーイの解法”を調べる場面がある(よーく注意して見て欲しい)。
一方で、グローブ紙の社説ではこの主張の根拠として、3編の演劇と1つの映画を引用し、”目覚ましい知的な変革”と位置づけた。
演劇「コペンハーゲン」では、物理学者N・ボーアとW・ハイゼンベルグの量子力学に関する力のこもった討論が演じられる。
”世界が純粋に数学的な構造をもっていると知り、(その夜は)興奮して寝付けなかった”(ハイゼンベルグ)。それから彼は外に飛び出し、海に突き出し波を砕く岩に登った(グローブ紙)。
こうしたシーンは、30年~40年代以前の映画のラブシーンにはよく見られたものだ。
つまり、”数学的洞察と性的興奮の間に成り立つ色情的な関係を否定する事など到底出来ない”とは、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの言葉である。
因みに、1927年にハイゼンベルグにより提唱された”不確実性原理”とは、量子力学の根幹をなす有名な原理である。電子などの素粒子では、その位置と運動量の両方を同時に正確に計測する事が出来ない原理の事(ウィキ)。
小山氏的に言えば、古典物理学は未来に必ず起きる事(起きない事)を予知するものだが、量子力学は(起こる起こらないではなく)複数の事象が起こりうる確率を考察する学問で、つまり確率論的な物理学と言える。
例えば、(ただ漠然と)”日本は沈没する”ではなく、”日本は何%の確率で沈没し、その時は複数の事象がそれぞれ何%で起きる”と予測する様な学問ですね。
銀幕を賑わせた数学者たち
社説は続けて、理論物理学者R・ファインマンについた書かれた演劇について論じた。
彼は”自然の意義を理解する為の基礎である数学が如何に素晴らしい”ものであるかを語っている。
3つ目の引用は、2001年アカデミー賞受賞作の「ビューティフル・マインド」だ。
プリンストン大の数学者ジョン・ナッシュの人生を描いた作品だが、彼が取り組んだゲーム理論の一端だけでも説明した映画としては、いい出来だったと思う。
しかし、グローブ紙は(同じアカデミー賞受賞作である)「グッド・ウィル・ハンティング」(1997)には触れてはいない。それに、B・アフレックとM・デイモンが地元ボストンのスターである事を考えると奇妙ではある。
この作品の冒頭では、フーリエ積分の方程式が一行また一行とスクリーンを埋め尽くす。主人公は、MITの数学の天才で夜勤の守衛をするハンサムな男であった。
一方、数学への憧憬を逆手に取り、(その数学を)感情的に憎むべき感情として捉えたものが「ロード・トゥ・パーディション」(2002)である。この映画では(逃亡中の殺し屋でもある)父と息子がどちらも”数学が嫌いだ”という事実を発見する事で、息子との共通点を見出す。
愛と憎は表裏一体と言われるが、数学は男同士の絆を作るという感情面での役割を果たしてくれる。
グローブ紙が挙げたこれら以外にも、数学は数多くの主要な映画で目立つ役割を果たしてきた。
因みに、「No Highway in the Sky」(1951)では、変わり者の航空技師が、金属疲労による亀裂が航空機にとって致命的である事を見出すのだが、この主人公が普通でない事を示す為に、”ゴールドバッハ予想”(という得体のしれないもの)について考え込むシーンが前半に映し出される。
当時の観客には暗闇で息を呑みながら、驚きのあまり”おぉ”と叫ぶのをこらえてた人もいただろう。
事実、”ゴールドバッハ予想”とは実在する予想で、クリスチャン・ゴールドバッハが1742年にオイラーに当てた手紙で、”2より大きい全ての偶数は、2つの素数の和に書ける”と簡単に述べたものだった。
こういう予想を平気で言えるゴールドバッハは、(セクシーだけではなく)何とエレガンスでエロいんだろう。私は特にそう思う。
因みに、証明は未だ未解決であるが、(フェルマーの定理と同様に)当時は多くの人が興味を抱いた難題ではあったのだろう。
この様に昔から数学は大衆の興味を引く(ある種、変わり者の)学問であり、当時の(庶民の娯楽の中心にあった)銀幕を賑わせてたのは想像に難くはない。
なぜ?数学は大衆文化に溶け込んだのか
ここまで書けば、グローブ紙の主張が正しい事が納得できそうだが、数学はしばし極端な間抜けぶりと結び付けられながらも、セクシーになってきた。
それは映画だけでなく(今流行の)TVドラマもまた、この流れに乗りつつある。
2005年公開の連続ドラマ「NUMBERS〜天才数学者たちの事件ファイル」では、FBI捜査官の弟の天才数学者が犯罪捜査に協力し、次々と難事件を解決する。
このドラマは、カルフォルニア工科大の数学教授らによる助言を得て製作され、学問的な雰囲気を正しく表現する配慮がなされている。
因みに、「NUMBERS」の”リーマン予想”のエピソードは極めて秀作だった。
ある数学者がリーマン予想の証明に成功し、その証明法が暗号解読に画期的に役立つものだった為に、ある裏組織からその数学者の息子を誘拐し脅迫する話である。暗号理論の専門家によれば、予想の解かれ方次第では実際に起こり得るとの事。
数学振興策としてもサスペンスとしても”魅力的(セクシー)だ”と小山氏はベタ褒めだ。事実、このドラマは全米国家科学審議会の団体広報賞(2007)を受賞している。
因みに、勘のいい人は気付いただろうが、ある数学者をアラン・チューリングに置き換えると理解しやすい。彼もまたリーマン予想の反例をひたすら追い求め(挫折し)、最後にはリンゴを囓って自殺したとの憶測もあるが、私はこの噂を信じたい。
つまり、リーマン予想と暗号解読には何処かで接点があるのだろうか(いや、ないのかもしれない)。
一方でグローブ紙は、大衆文化の中に数学が取り上げられる様になったのは、”数学や科学の魅力が必然的にそれらが不可知なものを扱う事にある”からだと言う。
物理学者の多くは、最も美しい方程式としてアインシュタインの重力方程式を挙げるが、彼らにとって”その美の根源は数学の中にはなく、その式が物理的な現実を表してる”事にあるからだ。
つまり.彼らにとって数学は(セクシーで)見に見える肉体であり、物理こそが(崇高な)魂であり美の根源なのだ。
事実、ノーベル物理学賞受賞(1933)のP・ディラックは”物理法則は数学的な美しさを持つべきだ”と黒板に書いた。その黒板は(この言葉を讃えるロシアの物理学者たちによって)今でも保存されている。
以上、ここで前半戦は終了ですが、偉大な数学者のエレガンスは観念とエロい妄想と、そしてセクシーな数学的思考に私はウットリするのである。
思うのだが、美しいだけでは女ではない。勿論、エレガンスなだけでも女とは呼べない。女はセクシーでエロくなければ、その魅惑と妖艶さを定義できないのだ。
でなければ、男は可哀想すぎる。女はもっと可哀想過ぎる。
思うのだが、美しいだけでは女ではない。勿論、エレガンスなだけでも女とは呼べない。女はセクシーでエロくなければ、その魅惑と妖艶さを定義できないのだ。
でなければ、男は可哀想すぎる。女はもっと可哀想過ぎる。
気難しいテーマに、敢えてコメントいただいて恐縮です。
”数学はセクシーである”とまとめたかったんですが、それじゃ本書のままなので、少しひねってみました。
数学もシンプルに且つ明瞭に、そして哲学的にい表すことができれば、すんなりと大衆文化の中に溶け込めるはずですが、制約が多すぎるし、難しいところですね。
何だか答えになってなくてスミマセン。