ここ数日は、私事で愚痴っぽいブログが続きました。そこで(タガを締めて)軌道修正する為に理屈っぽい記事の紹介です。少し長くなりますがご勘弁をです。
人は想定外の事態が起きても、状況を素早く判断し、的確な対応をする。
こういうのは出来そうで出来るものではない。殆どの人は、間違ってたらどうしようとか、誰が責任を取るのかと、色んな事を考え躊躇し、結局は対応が遅くなる。日本政府のコロナ対策なんかその典型だった。
しかし、洞察や考察に長ける人種は判断が早く、しかも的確である。
本質を見抜くのに長けてるから、たとえ対応が間違ってたとしても、すぐに修正できる。
追い詰められたら、忖度や捏造や改ざんのオンパレードという日本政府とは大きな違いではある。
そこで今日は、数学的思考を支える”洞察力”のお話です。
数学的思考と洞察力
洞察力とは、”本質を見抜く力”の事で、”表面を注意深く見る”観察力と似た意味で捉えられる。つまり洞察力とは、表面的な部分から”見えない部分を見抜く能力”とも言えます。
洞察力の高い人は、物事をゼロベースで考え、かつ多角的な視点で捉え、無限に錯綜する情報を紡ぎ合わせる事で、本質を浮かび上がらせる。
ではどうしたら、この洞察力を鍛える事が出来るのか?
多くの啓発本には、物事を注意深く観察する目を鍛えるとか、クリティカルシンキング(批判的思考)を持てとか、主観や先入観に囚われず物事を見る力が必要だとか書かれてはいるが、果たしてそんな程度の認識で真の洞察力が身につくのだろうか?
それ以外にも、あらゆる事に興味を持てとか、視野を広げろとか、深く考える癖をつけるとか、常に疑問を持てとかある。しかし、そんな事で洞察力に磨きが掛かるのだろうか?
以上、「洞察を高める為の5つの方法」から一部抜粋でしたが、少し考察が弱い気がする。
しかし、もう少し考察を深くすれば言い方も違ってくる。
数学的思考力を高める事で、考える力と考えを伝える力が同時につく。
つまり、数学的思考とは物事の仕組みを1つ1つ分解&整理し、バイアス(先入観=思考の偏り)に囚われない純粋な視点で情報を色分けする。その情報の核心を見抜き、本質を繋ぎ合わせ、仮説と検証を組み合わせる事で、素早く情報の的確な全体像を作り上げる能力でもある。
世の中には一見正しそうな情報で溢れている。デマや陰謀説なんかはその典型でもある。そうした”屁理屈”を見抜き、惑わされない能力はネット全盛の時代には不可欠ではあるが、そうした能力は”(情報)洞察力”と呼ばれる。
あらゆる情報には論理(思考の束)があり、その強さ(太さ)は様々である。そして、それら論理が幾つも重なり合い、(まともに聞こえる)言説が出来上がる。
勿論、論理が束になると、いい加減な論理も一見正しく思える。しかし1つ1つ論理の束を解きほぐすと、弱い論理や曖昧な論理なども当然混じっている。
それら玉石混交の論理の中から、明らかに場違いなものを外し、弱い論理ならその弱い理由を、矛盾した論理ならその矛盾を導き出し、最後には本質を見抜く。その力こそが洞察力とも言える。
数学的思考と解析力
純粋数学では、全ての論理は完璧である事が求められる。が故に、近寄りづらく、敬遠されがちです。故に、数学がどんな形で世の中の役に立ってるのか?大衆には非常に判り辛い。
特に日本では、数学は計算ができる事が重視され、論理性を重んじる欧米とは数学という学問の評価も事情も大きく異なる。
つまり、日本の数学は受験数学(基礎数学)であり、欧米の数学は実用性のある学問(応用数学)という事になろうか。
純粋数学者には(致命傷ともなり得るが)、”自分さえ解ればそれでいい。俺は特別だ”というエゴでプアな側面がある。
因みに純粋数学は、主に代数学・幾何学・解析学の3つに大別され、代数学だけでも群環体論・代数幾何学・線型代数学・多元環論・表現論・ホモロジー代数・代数的整数論(解析的整数論)など、数え上げればキリがない。
洞察力の中核をなす解析学に至っては、集合論・関数論・級数・微積分・複素解析などに加え、その他現代解析など気が遠くなる程の種類がある。その1つ1つがバカに難しい。
数学者が唯我独尊的生き物になるのも肯けます。
しかしそんな数学も、その考え方を理解してもらって初めて有効打になるし、世の中の為になる。事実、300年以上も解けない”数学パズル”を解き明かした所で、庶民には何の恩恵もご褒美もない。
要は、難題を解く過程における数学的思考(論法)が必要なのだ。その解き方は、機能法・背理法や演繹法など多岐にわたる。
とにかく、あらゆる角度から問題を眺めない限り、難題を理解する事すら出来ない。それに本質を暴く強力なトリックを駆使する為には、色んな事に精通する必要がある。
つまり、数学バカや計算バカが幅を利かせる時代は過去の事になりつつある。
要するに、数学的思考とはドリルを計算する頭ではないし、数学の問題を延々と解く能力でもない。要は、問題を細かく噛み砕き、キレイに分解・分析し、1つ1つ”解析”する能力と言ったらいいだろうか。
そうした一連の思考(解析)の過程で、本質を浮き上がらせる。
因みに”分析”とは、物事を分解し(細かな要素に分け)、その性質や構造などを明らかにする事で、”解析”とは物事を細かく解き明かし、その組織や仕組みを研究する事。英語では分析も解析も”analysis”で統一されるが、お互いはセットで組み合せる必要があるという事ですね。
例えば、データを分析するとは、データがどんな要素で成り立つのかを細かく確認する事であり、その分析されたデータを解析するとは、データの構成要素と関連性を理論的に調べていく事。
”あるWebページの直帰率は70%で離脱率が65%”との結果を得る作業はデータ分析に相当し、”なぜ直帰率が70%と高めなのか?”を探るのはデータ解析となる。
つまり解析により、”直帰率が高く滞在率が短いので、ユーザーのニーズとページの内容が合わないのではないか?直帰率が高いのは、紛らわしい広告が入ってるからでは”といった本質が浮かび上がる。
これはブログでも言える事で、アクセ数が多くても離脱率が高ければ、イイねだけ押して殆ど読んでない事になる。
以下、「自然科学で人間を理解する」を参考に数学的思考を考えていきます。
数学で人間を解析し、認識できるのか?
(数学を含めた)自然科学は、人類の発展に大きく寄与してきた。自然科学は自然(物質世界)を扱う学問で、人間の営みを研究する人文学や社会科学と区別される。因みに、数学は自然科学と区別する為に”形式科学”とも呼ばれる
では、人間を自然科学の力で理解する事は可能か?直感的にはNO!と言いたくもなるだろう。
しかし自然科学は、天動説を地動説に変えたり(ケプラー)、絶対空間や絶対時間の存在を否定したり(アインシュタイン).人間の直感を否定する事で真実に近付いてきた。
故に、科学が”物質世界と(人間の心や営みである)精神世界とが本質的には違う”という我らの直感を正す事は十分かもしれない。
「科学という考え方」の著者・酒井邦嘉氏は、”言語は人間の脳の生物学的な特性という自然法則に従って生み出される。人の(思考の中にある)言語が自然法則に従うなら、人間の認識も自然法則に従うと考えてもよいのでは”と語る。
つまり、物質の研究は最終的には人間の存在を解き明かす事に繋がる。
物質の研究を扱う自然科学とは、自然現象の奥底にある原理や法則を明らかにする事であり、この目に見えない現象を見える様にする事で、人類は自然の不思議な現象を解き明かしてきた。
科学のどんな法則も、最初は人の直感に基づく知識や経験を正して発見され、修正され、自然科学はそうやって進歩してきた。
故に、自然科学が人の営みである以上、人が認識する世界も自然科学の領域と言える。
その科学は客観的な記述を目指すにしても、世界を(人類という)内側から観察する限りは、”我々にどう映るか?”という主観から逃れる事は出来ない。
しかし、その様な論理的思考の基盤となるのが”数学的思考”である。その数学により養われる厳密な論理展開と論証法は、自然科学に必要不可欠な基盤でもある。
現代物理学の法則が極めて美しく、強力な数学理論で記述されるのは、”数学こそが自然の基本的な性質の1つではないだろうか”(ディラック)。
では、なぜ数学なのか?
それは”数学が人間に(生得的に)備わった言語能力に支えられてるからではないか”(酒井)。つまり、人間が認識した世界を理解し記述する為に、人間の生得的な能力である数学力を用いる訳である。
脳の認識により構成される世界を(同じ脳の機能である)数学的思考によって理解・記述するのは、ある意味理に適ってはいる。
”世界は数で出来ている”(ピタゴラス)や”宇宙は数学という言語で書かれている”(ガリレイ)の名言は、人類は数学を用いる事で(無限の)宇宙や(目に見えない)神や(今我らが生きている)世界を認識し、それは”人間の脳がその様に出来てる”と言い換える事が出来る。
その上、その脳は自然法則に従って機能している訳だが、その認識の仕方が(科学的方法を含め)数学的思考を用いる事で更に強力になる。
つまり、”数学は言語の一部に過ぎない”が、自然科学が数学の最も優れた部分を最大限に活用する事で、世界認識の精度を飛躍的に高めてきたとも言える。
数学的思考の本質とは
上述の酒井氏は、科学的思考の基本は”抽象化と理想化の融合”と語る。
抽象化とは、抽象度の高い理論を練り上げる為に余計なものを切り捨てる事で、それが出来る為には”捨象力”が必要だと主張する。
つまり、余計で表面的な要素を捨て去る事で物事の本質が見えてくる。
一方で、理想化とは余計なものを見ない様な(理想状態)にする事で、現象の本質に鋭くメスを入れ、より単純なモデルへと持ち込む(これには私と全く同意見です)。
つまり数学は、あらゆる言語の中でも抽象化と理想化に最も適した言語である。故に、数学を用いて認識された真理は単純である程に奥が深く、新たなる発見の萌芽となる。
一方で、科学で最も必要なのは原理と法則である。(数学的に言えば)原理とは基礎的で普遍的な命題で、法則とは原理や基本的法則から導かれる命題と言える。
自然科学ではあらゆる法則や原理が実証や反証の対象となり、実験結果に基づく検証により、その妥当性が確かめられる。つまり、そうした原理や法則は自然に対する考え方や哲学を持つ。
法則の発見を通し、宇宙の原理を探ろうとしたケプラーは法則から原理を見出そうとした。一方で光速一定の原理を打ち出す事で宇宙の法則性を導いたアインシュタインは原理から法則を貫いた。
つまり、原理から法則へそして法則から原理へ、この2つの流れこそが科学の考え方の基本なのである。
最後に〜限界と本質
以上、長々と紹介しましたが、数学の抽象性がもたらす難解さには頭がおかしくなりそうですね。
酒井氏の抽象化と捨象力の理論は、類体論の第一人者である高木貞治氏と全く同じ考えですが、その高木氏も数学(特に整数論)の持つ複雑でややこしい理論には頭を悩ませてました。
しかし、物事の本質を見抜く洞察力を研ぎ済ますには、こうした非常に厄介な数学的思考が必要になります。
こうして言うのは簡単だが、実際に難題を深く理解&解析し、本質を見抜いて解決しろと言われても、誰でも出来る事じゃない。
(アホな皇女を騙し税金を使い)ロースクールに3年通っただけで、NYの法律事務所に就職できる詐欺男とは訳が違う。売女を追いかけ衰退した夜の街を徘徊するエリート弁護士とも訳が違う。
しかし、数学の脳が自然法則に従って機能するのなら、理性には限界がないのではないかって思われるが、数学にも限界があるように理性にも限界がある。
その限界(値)を知れば、それこそが本質であり、数学的思考とはそういうものであろうか。
ホステスに”ここはそういう店じゃないのよ”ってやんわりと口撃されても、”これが理性の限界であり本質なんだよ”と言い逃れはできる。
結局、夜の街の本質というのは男と女の限界であり、その先には何も存在し得ないのである。
そう思うのは私だけだろうか?
私の夫は今日の論に合致しているかもしれませんが、その代わりというか、だからこそというか、人の痛みを感じるセンサーが弱いかも。
数学は比較的強い人だから、論理的にばっさり結論づけることは得意かもしれないけれど…。
旦那さんは自分の弱みを妻の前でさらけ出すのが恥ずかしいと思ってんでしょうか。
それと数学というより自然科学系ですね。
論理は共通ですがと(観念で突き進む)数学は割り切れないけど(実験の繰返しで突き進む)自然科学はスパッと割り切れる。
過去には、妻思いの偉大な数学者は結構いましたが、私が知ってる数学者も本当に家族思いなんですよね。外見からは信じられない位に、それほど純朴なんですよ数学は。
「人は想定外の事態が起きても、状況を素早く判断し、的確な対応をする。
こういうのは出来そうで出来るものではない。殆どの人は、間違ってたらどうしようとか、誰が責任を取るのかと、色んな事を考え躊躇し、結局は対応が遅くなる。日本政府のコロナ対策なんかその典型だった。
しかし、洞察や考察に長ける人種は判断が早く、しかも的確である。
本質を見抜くのに長けてるから、たとえ対応が間違ってたとしても、すぐに修正できる。
追い詰められたら、忖度や捏造や改ざんのオンパレードという日本政府とは大きな違いではある。」
この文章を拝読いたしまして
真っ先に思いだした事例があります
東日本大震災の時に一番被害を出しました石巻大川小学校の多数の児童、教師の被害者を生みました
もうご存じの事と存じますので詳細は控えますが
あの時確か校長不在のなか、児童が高い所に逃げようと提案するも教師の権力で抑え込み校庭で20分?40分?待機させられ津波が襲ってくる方向に非難しはじめて多くの犠牲者を生みました
校庭の裏山に非難すればかなりの人々が助かったと思う事例でした
この教師による失態に愕然としたものです
子供達は過去の歴史に学び津波の恐れがある時は高いことろに避難すると教え込まれていたにも関わらずに馬鹿な教師に殺されたと私は認識しております
象が転んださんの記事もある機会に皆様にご紹介したいと考える時がありますが
その時にご紹介させて頂いても宜しいでしょうか?。
宜しくお願い申し上げます。
こちらこそ全然構わんですよ。但しエロネタは外して・・・笑
感性が豊かな子供の方が感性が腐った大人よりも本質を既に見抜いてんですよね。
コロナの時も専門家も含め、大の大人たちがインフルよりも毒性が低いとか言って、油断してましたから。
コメント遅れてスミマセン。
トランプエレメントやダイセルイノベーションパークの専門用語に全くついて行けなくて・・・(悲)
書いてる私も頭が混乱する程でしたから、”面白い”と言ってくれると不思議と嬉しいです。
コメントどうもです。
≪…洞察力…≫を「レンマ学」中沢新一著 から眺望したい・・・
そのキーワードは、【直交補構造】の潜像化としたい・・・
直線軸(1次元)にしがみついてみると[ i²=−1 ]とするが、eの肩に遊ぶ、自然数(n=0 1 2 3 4 ・・・)として、[自然比矩形]で観ると、(-1)が
(-▢)の[潜像](2次元数)としたい。
1次元軸は2次元を内在秩序として、(1→0)に直線(時間)軸として始まりが移行し、直交座標に表示されていた Y=1/X の (Y=0~1)(X=0~1)の区域(ストリップゾーン)は、直交座標の Y軸 X軸に立ち上がった[1]の幅(高さ)のある軸と観たい。
直交(平面)座標を鳥瞰すれば、[1]の幅(高さ)は潜像化し内在秩序となる。
直線(時間)軸は、実数直線として2次元を獲得し、√2 √3 √5 √6 などは1次元の数直線に溶け込ますことになっていると観える。
レンマ学的には、X(横)軸は自然数(n)軸で[自然比矩形]による[ストリップゾーン]の直線的回収操作が自然数の本性のように観える。
Y(縦)軸はπ軸で[π体]の軸が自然数の通過点で[π体]の交替でnが進むように観える。
複素平面は虚(i)軸としているがπ軸と観ることで、極座標と直交座標の繋がり(縁起)が観えそうだ・・・
[-1」は、潜像化した正方形(▢)で数学した(経過時間)と捉えることもできよう・・・
▢には、i(虚数)1 π/2 √2 4
【実数の世界の縁起的視座】
点(4) 線(4) 面(1) カタチ(正方形)
【言葉(ロゴス)の世界の縁起的視座】
ヒフミヨ(1 2 3 4 ・・・)
【自然数(次元を内在秩序化)の本性の縁起的視座】
【0】【∞】は、直接に現れないところが、レンマ学(菩薩)的だが、【1】を含めて[四則演算]の符号の様な操作(作用素)の機能を持っていると観たい・・・
直交座標の横軸の潜像
離散軸 ピストン運動
縦軸の潜像
連続軸 回転運動
極座標の円に内接する潜像
△ ◇ 正五角形 正六角形
には、点線面 カタチ ヒフミヨ を
[群]化で、[分化・融合]が観える・・・
アホな私の頭ではついていけそうにもありません。
私よりずっと頭のいい人を相手にした方が賢明だと思いますよ。
そ~なんですよね。
数理系に強い経営のトップがいれば
日本も捨てたもんじゃないし、まだまだ世界に誇れると世界に胸を張れます。
今は停滞しつつある日本ですが、これからの成長や変革は数学的思考から生み出され、世界に大きく羽ばたいていくものと信じてます。
少し古い記事ですが、コメント有り難うです。