こちらは昨日の真珠色の空から一転して、このような日の出を迎えました。
気温は少々、低かったものの、日の出独特の力強い太陽の光と、
肌に心地良い、冷気を感じたものです。
そう言えば、昨夜のお月様の美しかったこと!
冬の月は、あくまでも透明で、他の季節にはない凛としたものを感じます。
それでいて優しい・・。
そして今日は、満月ですね。今日は、どんな顔を見せてくれるのでしょう。
そうそう、日中の日溜まりのぽかぽか・・も戻って来ました。
“樹木は多くの人間どもと違って、知れば知るほど良くなる。
最初に、どんなに好きであっても、だんだんと、なお好きになる。
そして長い長い年月、四季の変化を通してその美しさを知った時に、
最も深く愛するのである。・・・・・”
【「エミリーはのぼる」 第19章】
「私は前から樹木の崇拝者です。」 【「アンの幸福」 最初の1年】
このように、アンの本には樹木の事が沢山出て来ます。崇拝者です。
そして、その中で度々登場する木と言いますと、「ロンバルディ」 でしょう。
私は、これまで・・この 「ロンバルディの木」 については、“真っ直ぐの高い木” という、
認識こそありましたが、「木」 自体には、それほど関心を持たず、読み進んでいました。
でも、それが 「ロンバルディポプラ」 なのか、「ロンバルディ杉」 なのか・・。
意識して読むと、又違った面白さがありますね。
一つには、真っ直ぐの高い木と言う事から、
最初から杉のイメージを持っていた事は、否めません。
そして、アンの本で 「ロンバルディ杉」 という記述を見るにつけ、
いつの間にか・・思い込んでしまったのですね。
でも、改めて読んで行きますと・・。
ある時は、「ロンバルディポプラ」 であり、又ある時は 「ロンバルディ杉」。
ただ、単に「ロンバルディ」 とだけ、記されている時もあります。
これまで目にしていながら、ス~ッと見過ごしていた部分。
私は、村岡花子女史の格調高い文体は勿論の事、考察にも絶対の信頼を寄せています。
単なる翻訳違いというのでも、出版時期によって異なるというのでも、なさそうです。
(尤も現代では、植物学上からも判明しているのでしょうね)
例えば、「炉辺荘のアン」 を例に取りますと・・。
女史は、1巻から順番に翻訳していますから、この本は7巻目。(前10巻)
相当、後になります。それでも、ザッと目についた所でも、それぞれ違った言い方をしています。
“月光を浴びた ロンバルディポプラ の若木ほど、
ほっそりとして妖精じみたものは、またとないと思った。”
【「炉辺荘のアン」 第16章】
“またひと夏終わった。ロンバルディ杉 の年月を超越した、
光に照らされて。”
【「炉辺荘のアン」 第29章】
“ロンバルディ の葉は月光を受けて、銀のように光っている。”
【「炉辺荘のアン」 第43章】
その他、「アンシリーズ」 の後に翻訳された、
「エミリーシリーズ」(平成版) でも、杉だったり、ポプラだったり・・。
ようするに、日本人的には、杉のようにもポプラにも見えるのでしょうか・・?
ただ、「ロンバルディ」 とだけ記しておけば済むものを、
敢えてこのように書かれた事に、私は、ある意味を感じてならないのです。
彼女ほどの方ですから。(考え過ぎかも知れませんが)
となれば、彼女にすら断定出来ないような木・・と、私は捉えます。
その方が、「想像の余地」 があって、余程楽しいですもの。