信田さよ子先生は、臨床家で、臨床心理士でもある。アルコール依存症やアダルトチルドレンなどのキーワードから、連想される先生なので、アルコールが苦手な私には、アルコール依存症の人が周りにいることもなかったので、熱心な読者ではない。ただ、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待などとも、関係してくるので、書店で、先生の新しい本を見つけたりすると手にしてしまう。
本書は、ウェッブで連載されたものを書物にしたものなので、時事ネタに関しては、すでに過去のものになっているが、タイトルが「コミュニケーション断念のすすめ」とあって、手にしたいきさつがある。
ここでのコミュニケーションとは、主に家族および、その周辺にいる人たちとのものを俎上に載せているとみてよいのだろう。
何かを書くと言うことは、「ことば」を使わねばならないので、表現しにくいものについては、たとえ話を使ったりする。
「絆(きずな)」について、それは、もともとは、断ち切りたい対象物であったという指摘を河合隼雄先生も、何かの書物でされていたと思うが、家族臨床の経験の中から、そういう「しがらみ」のようなものから抜け出しにくい構造を分析し、「話せば分かる」式の安易な考えに警鐘を鳴らしておられる点は、時代の雰囲気にながされやすい日本人には、有益だろうと思う。
私は、第三者的な立場で、ご家族と接する機会も有るが、「よくご家族の方と話し合ってください。」などとは、ほとんど言わないのも、「話し合うと、問題が増幅する」という現象を垣間見てきたからであろう。
クライエントの立場にあったとしても、その立ち直りには、家族との関わり方を考慮していかねばならないだろうし、本書では、そういう手法が体系的に網羅されているわけでもないが、示唆に富んでいる。
中には、幸運にも、家族関係の問題で悩むこともなく、幸せに暮らしておられる方もおられるのだから、そういう人から見ると、ちょっと極端な主張に見えるかもしれないが、そういう方にも、気づきやすい韓流ブームやAKBブームなどを例に、解説を加えておられる。そのため、もう少し「濃い本」(たとえば、「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」 春秋社、2008年など)に比べると、読みやすい書物となっている。
アルコール依存症(ア症)は、近親者にいないと分かりにくいが、DVとの関連で、連想していけば、普通の人が発するであろう「励ましのことば」などが例示されていたりして、そのあたりの機微に関しても共感できるのではないだろうか。
でも、「コミュニケーションを断念」するにしても、それに伴う「罪責感」などを、そのまま「流してしまうのか」、それとも、それを「記憶の底に追いやるのか」など、課題は引き受けざるをえないのだろう。
「断念できない」のは、まさに、自責感だとか罪障感だとかいう責められる気分でいやになるところにあるのだから、やはり、本書のタイトルは、刺激的であるのだろう。
でも、それをヒントとして、自分なりに咀嚼していかなくては、あるかもしれない「解決」へは結びつかないのも事実であろう。