放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

「老人一年生」

2017年07月27日 | 読書日記

副島隆彦『老人一年生 老いるとはどういうことか』(幻冬舎、2017年)は、還暦を越えてくると、その体験談共感がもてる。

仕事柄、デスクワークが主なので、肩が凝る、腰が痛い、目が疲れる。残業が肉体的に難しくなる。体に、高血圧だとかいった生活習慣病を持っている。

まるで、夏目漱石の「道草」のように、親戚が、私の人生を侵食し始める。

親戚は、厄介者であるのは、漱石と同じである。


世の中の常識を知らない人も多い。


連帯保証人などは、多少、新聞や雑誌を読んでいれば、そうそう人に頼めるものではないし、頼まれたくもないものである。


租税等の徴収制度にも、連帯納付義務などを定めておいて、親族の負債の支払を求めてきたりする制度がある。


もうすぐ初盆であるが、人間関係に齟齬を兆しても、保証人には、絶対ならなかった父の方針は、私も受け継いでいる。


「老人になる」と、体に「痛い」ところも出てくるし、そのことで、「老化」を意識させられる。


本書は、エッセイのようなものなので、科学的な根拠はないが、なるほどと頷かせるところがある。


中井久夫監修・解説「統合失調症をたどる」ラグーナ出版、2015年、その2

2016年03月13日 | 読書日記

役に立つ本は、残念ながら、すべてのひとに有益ではない。

たとえば、神田橋條治「改訂 精神科養生のコツ」岩崎学術出版社、2009年では、初版本からみると、かなり変更されたが、「もしこの本があなたに合わなかったらコツを試さないでください」というような主旨のまえがきが書かれているように、どのような書物であっても、誰にでも有益であるとは限らない。

全くないことはなかったが、神田橋先生の書物以外で、かなり実用になるものは、それほどなかった。

そういう意味でも、本書は、胃腸の調子がよくないときに、安中散なのか、半夏瀉心湯なのか、黄連湯なのかを選択する際に役立つ漢方の実用書に似ている。


こころ、あるいは、脳に関係する病気も、また、胃腸の調子が悪くなるのに、たとえば、食べ過ぎたとか、ストレスがかかりすぎたとかいった原因があるように、そのような何かの経験なり、環境があったりするようだ。


神田橋先生流に言えば、具体的な工夫の積み重ねも役立つということになろうか。


続刊を待ちたい。 


中井久夫監修・解説「統合失調症をたどる」ラグーナ出版、2015年

2016年03月13日 | 読書日記

私が、「中井久夫」という名前を初めて聞いたのは、朝日カルチャーセンター(大阪)の山中康裕先生の講座であった。

ちょうど、「中井久夫著作集」が刊行中でもあった。

幸か不幸か、中井久夫先生には、写真を除くと、テレビでもラジオでも目にも耳にもしたこともないので、

著作物を通したイメージがあるのみだ。

「著作集」に収載された論文の多くは、ちくま学芸文庫になっているので、入手しやすくなった。

中井久夫監修・解説「統合失調症をたどる」ラグーナ出版、2015年は、それらの中井久夫の著作物を患者さんも交えて読み解いていく

書物である。

統合失調症の有病率は、100人に1人ぐらいと言われてきているので、人生に於いて、統合失調症の患者さんと全く関わらないひとも

それほどないのだと思われるが、病気を発症しているときに会えるのは、家族と医療者ぐらいかもしれない。

医学の進歩により、初期に治療が開始されるようになり、てんかんの大発作を目撃するひとが少なくなったので、

多様なてんかん発作があることも知られなくなった。

クレッチマーの類型論が流行っていた頃には、三大精神病として、上記二つと、躁鬱病が精神の病とされていたように思う。

木村敏は、「うつ病は対象として関心を惹かない」というような趣旨のことをいずれかの書物で吐露していたが、

現代の病である「うつ病」は、日本の文化に親和的なので、社会との関わりという点で、きわめて困難なことは少ないかもしれない。

 

社会というか、ひととの関わりというか、そういうようなことに問題を抱えているとするなら、「統合失調症」に関する書物の方が

役に立つ。

 

この書物は、より実践的な内容なので、処世術としても読めるだろう。

 

 


 


信田さよ子「コミュニケーション断念のすすめ」亜紀書房、2013年

2014年01月10日 | 読書日記

信田さよ子先生は、臨床家で、臨床心理士でもある。アルコール依存症やアダルトチルドレンなどのキーワードから、連想される先生なので、アルコールが苦手な私には、アルコール依存症の人が周りにいることもなかったので、熱心な読者ではない。ただ、ドメスティック・バイオレンスや児童虐待などとも、関係してくるので、書店で、先生の新しい本を見つけたりすると手にしてしまう。

本書は、ウェッブで連載されたものを書物にしたものなので、時事ネタに関しては、すでに過去のものになっているが、タイトルが「コミュニケーション断念のすすめ」とあって、手にしたいきさつがある。

ここでのコミュニケーションとは、主に家族および、その周辺にいる人たちとのものを俎上に載せているとみてよいのだろう。

何かを書くと言うことは、「ことば」を使わねばならないので、表現しにくいものについては、たとえ話を使ったりする。

 

「絆(きずな)」について、それは、もともとは、断ち切りたい対象物であったという指摘を河合隼雄先生も、何かの書物でされていたと思うが、家族臨床の経験の中から、そういう「しがらみ」のようなものから抜け出しにくい構造を分析し、「話せば分かる」式の安易な考えに警鐘を鳴らしておられる点は、時代の雰囲気にながされやすい日本人には、有益だろうと思う。

 

私は、第三者的な立場で、ご家族と接する機会も有るが、「よくご家族の方と話し合ってください。」などとは、ほとんど言わないのも、「話し合うと、問題が増幅する」という現象を垣間見てきたからであろう。

 

クライエントの立場にあったとしても、その立ち直りには、家族との関わり方を考慮していかねばならないだろうし、本書では、そういう手法が体系的に網羅されているわけでもないが、示唆に富んでいる。

 

中には、幸運にも、家族関係の問題で悩むこともなく、幸せに暮らしておられる方もおられるのだから、そういう人から見ると、ちょっと極端な主張に見えるかもしれないが、そういう方にも、気づきやすい韓流ブームやAKBブームなどを例に、解説を加えておられる。そのため、もう少し「濃い本」(たとえば、「母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き」 春秋社、2008年など)に比べると、読みやすい書物となっている。

アルコール依存症(ア症)は、近親者にいないと分かりにくいが、DVとの関連で、連想していけば、普通の人が発するであろう「励ましのことば」などが例示されていたりして、そのあたりの機微に関しても共感できるのではないだろうか。

 

でも、「コミュニケーションを断念」するにしても、それに伴う「罪責感」などを、そのまま「流してしまうのか」、それとも、それを「記憶の底に追いやるのか」など、課題は引き受けざるをえないのだろう。

 

「断念できない」のは、まさに、自責感だとか罪障感だとかいう責められる気分でいやになるところにあるのだから、やはり、本書のタイトルは、刺激的であるのだろう。

 

でも、それをヒントとして、自分なりに咀嚼していかなくては、あるかもしれない「解決」へは結びつかないのも事実であろう。


中村仁一「『治る』ことをあきらめる『死に方上手』のすすめ」講談社+α新書、2013年

2013年12月05日 | 読書日記

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」や「どうせ死ぬなら『がん』がいい」などのタイトルでおなじみの中村仁一先生の「死に方」提言の書である。高齢化社会の中で、求められているにもかかわらず、類書は少ない。ただ、本書では、ご自身の「仏教」体験へも言及されているように、底流には、「特定の」仏教思想が流れているのかなあという印象を受ける。なので、科学の枠組みでの議論には、適さないのだろう。こんなに高齢化が問題になっているのに、「老人学」という分野は、まだ、手つかずにあるように見える。心理学でも、ほんの少し前までは、考察対象は、成人に達するまでで、精神分析の系譜としてエリクソンのアイデンティティー理論が人の一生をカバーでき、しかも、有用なものとして存在するのみなのかもしれない。老化とは、アイデンティティーのゆらぎを伴うために、青年期におけるアイデンティティーの問題とは、また、異なる対応が求められるのだろう。実際、教科書にしばしば引用される「ライフサイクル理論」は、「老年期」までカバーしている。「老年期」の課題は、統合と絶望である。「アイデンティティー」とは、「私とは何なのか・私は何が出来るか・私は何をしたいのか」がバランスよく保たれている感覚をいうものだとすれば、日常の忙しさで気づいていなかった齟齬に直面するのが、老年期だと言えるのかもしれない。かつては、そのような葛藤があったとしても、程なく死が訪れたので、そんなに大きなトピックになり得なかった。

私も、その端くれであって、老眼に悩まされながらも、可能であれば、若くありたいと願っていたりする。口では、「そんなに長らえても・・・」というけれども、それなら、その旅支度が整っているかというと心許ない。

定年に達した方やその後も働いているけれど、何かしら不安があるとすれば、そういう旅支度が出来ていないからなのだろう。しかも、青年期の旅のときのような「ワンダーフォーゲル」であるとか「バックパッカー」であるといったムーブメントもないに等しい。それに似たものとして、四国巡礼などが挙げられるけれど、還暦を迎えたぐらいでは、ちょっと抵抗があるのではなかろうか。

世界が、このような状況であるからこそ、人に頼らず、自分で試行錯誤して、自分なりのアイデンティティーを確立していくことが可能なのだとも言えよう。

通常の「老人医療」に異を唱える著者の情熱を糧として、「私は、どうしたいのか、私は、何が出来るのか」を問うていきたいと思う。

 

世の中が、「言葉」の世界である限り、そこから「自由」になることは、本当に難しいことである。

 

本書の提言は、多くの人の参考になると思う。これを読んで、自分自身で考えたり、人と対話することで、多少ともボラティリティーがあるにせよ、そこからインテグレーションへむけた行動につながるといいなあと考えている。


岡野憲一郎「忘れる技術」創元社、2006年について2

2013年10月16日 | 読書日記

技術的なことが書かれた書物は、書かれているようにやろうと思っても、事実上出来なかったり、逆に過剰になってしまったりするものだ。

なので、技術的な言及に対しては、それが自分に合うかどうかを見極め、その適用に当たっては、慎重に取り扱われるべきなのであろう。

できれば、練習ができるほどよい場があると、よりいっそう洗練されると思われる。

「忘れる・忘れられない・忘れてしまう」は、ある意味で、つまり、たとえば、フロイトなどの知見を借りれば、抑圧という防衛機制とのせめぎ合いということになろう。

理性化により、それらを客観視できるようになったとしても、無意識レベルでは、ひょっとすると生きているかもしれないのだ。

それは、ともかく、いろんなことに対して、気づいているということが、様々な人間関係で役立つのだろうと期待される。

 


きたやまおさむ・よしもとばなな「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」

2013年09月08日 | 読書日記

本書は、著者名が、ふたりとも、ひらがなになっている。それが、本書の位置づけを暗示しているのだろう。が、よしもとばななは、何年か前に、表記を「吉本」から「よしもと」へ変えている。河合隼雄との対談本「なるほどの対話」が出版されたときは、「吉本」であった。松下電器産業が、社名をパナソニックに変更したように、それなりの理由があるのだろう。

2009年4月から、NHKFMで、「きたやまおさむのレクチャー&ミュージック」という番組が始まり、2012年3月に終わるまで、3年間も続いた。私は、2009年というのが、大変な年で、エアチェックができていなくて、1年間聞き逃したのが、すごく残念であった。

2011年に入って、「生活習慣病としてのうつ病」弘文堂(2013)などの著書がある井原裕教授や精神科医の宮岡等先生などが、ゲストスピーカーとして話されることが多くなっていったので、不思議な感じがあって、謎のままであった。

この書物、きたやまおさむ・よしもとばなな「幻滅と別れ話だけで終わらないライフストーリーの紡ぎ方」朝日出版、2012年に、夏頃に話すと咳がよくでるようになって困ったという記述があった。

そういうのを考え合わせると、いろいろと連想されて楽しい。

内容的には、きたやまおさむアカデミックシアターDVDの講演をもとにしたものと、それをもとにした二人の対談になっている。

対談と言っても、けっこう専門的なことがらも含まれていて、気軽に読めるわけでもないが、お二人の「不思議」が核融合したようなところに、本書の意義があるのだろうと思う。

 

できれば、北山修先生には、自伝を出版して頂きたいものだと思う。