懐かしい「私淑」という言葉を初老になって聞いたのは新鮮であった。放送大学の学部向けのスクーリングなので、その講師であった稲垣 恭子放送大学客員教授は、戦前の「高等女学校」の聞き取り調査もされている気鋭の教育社会学者である。
多くの人は、「私淑」という言葉の連想から、夏目漱石の「こころ」を思い出されるであろう。
「私淑」という概念は、「実際に会ったか、書物を通して知ったか、その対象人物を、『先生』(人生の師)のように慕って、そこから学ぼうという教育システム」と位置づけられるかも知れない。
私の専門は、実務家ではない「臨床心理学」(やや、論理矛盾はあるかな?)なので、たとえば、このブログでも、何度か触れているように、中井久夫先生や河合隼雄先生、藤縄昭先生、山中康裕先生、また、とりわけ、神田橋條治先生が上げられるだろう。
私は、北山修先生の出身校である落星中学へ進学することを父から期待されていて、小学校6年生のときには、母が見つけてきた現役の小学校の先生に家庭教師として来て貰っていた。
名前は忘れてしまったが、母から後日聞いた話として、私の問題行動に、その先生は気づかれて、母に教育相談を受けるようにアドバイスしてくださったそうである。その後、中学三年生の時に通っていた学習塾の先生も、私の問題行動を把握されていて、京都大学教育学部の大学院で、相談も受けられると、その時は、母と一緒に説明を受けたことを覚えている。
母は、自分の育て方を否定されたように感じたのか、そのアドバイスは生かされることはなかった。
その点では、スクールカウンセラーの第一人者、滝口俊子先生(放送大学名誉教授)の体験とは、また、異なっている。
私の場合、幼稚園から高校までの先生方に関するイメージがかなり希薄で、担任の先生の名前すら思い出せない。
実際、その生徒・学生時代の悩みを相談できる教員もいなかったし、それに関して、サポートを受けることもなかった。
小学校から高校までは、心理的(実際には、心身とも相関しているのだが)な悩みが、あまりにも深刻で、唯一の救いは、受験勉強であったかも知れない。
現在でも、スクールカウンセラー制度は導入されたものの、十分に機能していないのは、いじめによる生徒の自殺がなくならないことからも垣間見られる。
放送大学への再入学へのきっかけは、以前にも記したが、山中康裕先生の面接授業の案内を偶然見たことに起因する。
私淑している山中康裕先生の面接授業は、抽選で落ちたのでかなわなかったが、間接的に、山中先生には、たいへんなお世話になっている。
まずは、大阪での朝日カルチャーセンターでの「ユング心理学」に関する講座は、3年ぐらい通った。そこで、直接、言葉を聞けたことは大変ありがたいことであった。
その講座を聴講していなければ、中井久夫先生の著作集を知らずにいたかもしれない。早い段階で、中井久夫先生の著作集に接することができたのは、山中先生のおかげである。
神田橋條治先生の著作にであったのも、梅田の紀伊國屋書店で、中井久夫先生の著作集を買いに行ったときに、たまたま、立ち読みして買ったことに寄るのではないかと思っている。
このお二方への「私淑」は、一度もお会いしたことも、テレビでも、一度も、接していないということで、書物を通して学ばさせて貰っている。