きのうの
竜王戦「第五局」は
先手のソーちゃんが
中盤から「藤井曲線」を描いての
完勝だった。
これで、スコアが
「3-2」となり、
次戦は後手番ながら
防衛に王手となった。
**
今日から
京都・大阪への
ブリーフ・ジャーニーに
出かける。
幸い、体調はまずまずで、
なんとか三日間の
ハードスケジュールは
こなせそうである。
ロンバケ中とは違い、
きのうもフルタイム勤務で、
帰福後の翌日からも
同様であるから、
なんだか「出張旅行」の気分でもある。
きのうは、
隙間時間に今日訪れる予定の
瑠璃光院の見所を
画像コラージュして
プリントアウトした。
ついでに、
明日の苔寺も・・・。
何事も予習が大事である(笑)。
明日は、高槻泊まりなので、
ホテルの近所にできた
「関西将棋会館」を
見学してきたいと思っている。
ついでに、ロビーに
ソーちゃんグッズがあれば、
「推し活」として(笑)
買ってくるつもりである。
一週間前から、
ぽちぽちと準備を進めてきたので、
あとは道中の無事を
ご神前に御祈念して、
出発である。
駅までは、
出勤するカミさんに
乗せってってもらう。
***
***
最近、日常の時々に、
昨今の不安定な世界情勢や
ままならぬ国内情勢について、
何ゆえに、自分の意識が
この世界を創り出したのか・・・
という、一般的には、
馬鹿げた疑問・愚問を抱き、
それに、自問自答している。。
なぜに、自分の魂は、
この場、この時を
選んだのか…。
1000年に一度の『3.11』と
100年に一度の『パンデミック』は、
なかなかの特筆すべき
ネガティヴな体験である。
近頃、結論めいた確信として、
『物語』の常套手段である
【不安がらせて安心させる】
というパターンなのかもしれない、
という事に思い至った。
これは、かの天才落語家
談志家元が世界中の物語に見出した
元型的な典型である。
ハリウッド映画では、
最近でこそ、
バッドエンド(アンハッピーエンド)の
作品も、ちらほらあるようだが、
基本、大衆はハッピーエンドを良しとする。
小説やドラマでも
殺人があっても犯人は捕まり、
「めでたし・めでたし」のパターンである。
ならば、世界中の悲惨・不幸な事象は
なんと説明する…と、問われたら、
この現実が、自意識が創っている
自分だけの世界とすれは、
「一人称(自意識)」以外の出来事は
すべて仮想ゲーム内の
「添景」なのである。
ただ、それは、
客観的に証明不可能な
「信念」レベルの認識である。
つまり、
「個人の物語」であり、
「わたしの神話」でもある。
70年近く生きて来て、
やっと、そのような世界観を
得るに至った。
**
かつて、二十代の頃、
様々な占いに凝ったことがあり、
驚くことに、どの占いでも、
自分の生涯は【晩年運】と出た。
たしかに、幼少期は
喘息に苦しめられ、
思春期からは自律神経系、
胃腸系を患い、
高じては、欝病…と、
病と共に人生を歩んできた。
なので、晩年くらいは、
敬愛した祖父のように
臨終のその日まで達者に生きて、
コロリと逝きたい、
と希望している(笑)。
***
去年の夏休みに
「自分の人生」について、
『ゲーム成立論』と
『定常・変化論』から
思索してみた。
↓
この宇宙は「量子真空」の
1点からビッグバンが起こって
138億年を経て
今日のような多様な物質と
エネルギーを有する宇宙となった。
ヒトは「受精卵」という
1ケの細胞が卵割して
37兆個ほどになり、
多様な組織・器官を有する
個体となった。
宇宙も生物も
ダイナミック(動的)な変化があって
現象が存在せしめられている。
完全にスタティック(静的)な状態では
【何も始まらず 何も終わらない】
のである。
この状態では、
仮に、神なるものが存在しても、
「無変化の定常状態」では、
「自らを意識する事」は
できない理屈なのである。
そこで
「変化」が
生じたのか、
生じせしめた。
変化を意識するのには
時間と空間が必要となる。
時空が出来ると
真空エネルギーから
物質が生じてくる。
アインシュタイン方程式の
「E=mc²」
(エネルギ=質量×光速の二乗)
である。
原始地球からは
原始生命が誕生し、
何十億年もの時間を経て
意識を有するヒトにまで進化した。
ヒトが増えると、
そこに「社会」「文明」という
「世界」もしくは「現象界」が
必然的に誕生した。
わずか200年ほど前に起こった
「産業革命」から、人類は
「エネルギー革命」「情報革命」と
等比級数的に飛躍的に
文明を発展させてきた。
パソコンでも
8ビットの時代から
16、32、64・・・と倍々に増えて、
現在ではテラ・バイトが日常となり、
ついには「生成AI」なるものまで
登場した。
自分が生きてきた
たった67年にも
さまざまな人類の進化の側面を
目撃してきた。
月面にも辿り着き、
個人用コンピュータが出来、
スマートフォンが日常化し、
デジタル流通が常識化してきた。
しかし、その一方で、
釈尊の説いた四苦八苦の
「生病老死」の現実は変わらず、
日常的には、
物価高、食糧難、戦争、
パンデミック、病、死ぬ運命・・・
という、原始人類と同じ目に
依然として遭っている。
今の自分の「問題」設定は、
「なにゆえ、老いて、病んで、
衰えて、醜くなり、貧しくなり、
戦争が起こり、政治経済は混乱し、
明るい希望が感じられないのか・・・」
という卑近な負の側面に
引きずられている事である。
そのひとつの答えが、
この状態を自らの「魂」が
選択しているから、なのである。
なにゆえかは、
『ゲーム成立理論』で考えると、
「輪投げ」ゲームで、
手の届く範囲に的があったら
ゲームが成立せず、
まったく入らない遠くでも
ゲームは成立しない。
すると、適度に入って、
適度にハズれる「距離」が
ゲームを成立させる。
他のすべてのゲームも同様で、
100回中、100回とも入る距離の
パッティングではゴルフが
ゲームに成らない。
これと、
『定常・変化論』を絡めると、
ネガティヴィティ(マイナスの事象)は、
「変化性」と「ゲーム性」を
両立せしめるのに必須の
対極性のファクターなのである。
それがないと、
無変化な定常状態が続いて、
ゲームとして楽しくないのである。
人生を「ゲーム」「ドラマ」
と捉えるならば、
「山あり谷あり」で
あるべきなのである。
かの名著『死ぬ瞬間』の
キューブラー・ロスは、
それを見越していて、
京都でのトランスパーソナル学会で、
「みなさまの人生に
波風多きことをお祈りいたします」
という言葉で
基調講演を結んでいる。
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