人が必死の状況に陥った時、定型的な心的状況の経過を見る、ということを《タナトロジー(死生学)》の権威エリザベス・キューブラー・ロスが提唱している。
それは、ロスの名著『死ぬ瞬間』によれば…
【否認】
自分が死ぬことを認めたくない。それは嘘事であって現実事ではないと思う段階。
【怒り】
なぜ自分が死ななければならないのか、という怒りを感じる段階。
【取引】
神様に、助けてくれたら何でもする、と取引を試みる段階。
【抑うつ】
精神運動が停止する段階。
【受容】
間もなく自分が死ぬという現実を受け容れる段階。
もっとも、ロスは、必ずしも全ての人が、このような経過を辿るわけではないとも述べている。
そういえば、里奈も、ある程度それらに似た心理を抱いてきた。
今や、短時間で「抑うつ」と「受容」に達しようとしていたが…。
冷点と痛点という二つの感覚点を激しく刺激されて、その身体的苦痛は今、極限に達していた。それはまさに気も遠くなりそうな苦痛だった。
それでも、この少女は“考える葦(あし)”で在り続けていた。
感覚と思考はヒトの別なる機能である。
(こんど…
うまれかわったら…
なにしよう…)
里奈は輪廻転生後の人生に思いを馳せた。
(また…
とうさん、かあさんの…
こどもに、うまれてきたい…
そうたとも、きょうだいで…)
それは、現世と何も変わらなかった。
そして…
(ゆうくんと…
けっこん…して…
あか・・ちゃん…)
…と、夢見たところで、意識が途切れた。
彼女が待ち焦がれていた睡魔と失神が混ぜ合わさったような瞬間が〝葦の考え〟を遮断した。
体温だけでなく、心拍・血圧・呼吸数といったヴァイタル・サインも徐々に下降しつつあった。
体の機能低下に伴って、意識が先に消失するのは、神の恩寵なのかもしれない。
無神論者なら、進化の産物と嘯くかもしれないが。
兎も角も、これ以上、里奈は苦痛を意識することがなかった。
しかし、巷間言われていたようなパノラマ現象や幽体離脱、ユーフォリア(多幸感)を体験する間もなかった。
しだいに、緩やかな筋硬直が始まりつつあった。
意識があればこそ、決して平坦ではない海面に突き出た屋根の突端にバランスよく仰向けになっていることができたが、居眠りしながら自転車に乗れない原理で、その肢体はズルッと滑り出した。
スローモーション・フィルムのように里奈の体は、音もなくヌプリと海面に浮遊した。
「リケジョ(理系女子)」お手製の浮力装置は、たしかに機能していた。
依然として、何処からも、誰からも、何の救助も得られはしなかった。
番(つがい)のカモメのみが、ほんの一時、哀れな漂流者を物珍しそうに眺めて去っただけであった。
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