オシリに激しい痒みをもたらした
湿疹も1週間目で
やっとのこと色が薄くなり
痒みも軽減してきた。
この間、
不思議な現象があって、
痒い時は痛みがなく、
痛い時は痒みを感じなかった。
生物学に
「リービッヒの最小律」
というのがあるが、
この逆で、
「痛みの最大律」
現象なのかと感じた。
どちらかの刺激の知覚が
最優先されているのか、
あるいは、強い刺激により
弱い方がマスキングされているのか。
どちらにせよ、
痛みと痒みは同時に
押し寄せない…
ということが解った。
62年も共に
カラダと生きてきて、
未だに我が身の生理機構すら
知り得ないのは
不思議なことである。
事程左様に、
生き物は複雑系のものゆえ、
最も原始的なウイルスの
遺伝子解析すらできないから、
コロナのワクチンも治療薬も
年単位かかると言われるのだろう。
スーパーコンピューターや
AIの進化を如何に誇っても、
実際的な課題に応用できないのでは、
科学文明の進歩も
心許ないものである。
心理学者も人文科学系といえ、
エビデンス・ベースト・セオリーを
第一義とする
科学者の端くれなので、
物事を合理的・科学的に
検証し考察するのが常である。
ただし、
「心理療法学」ともなると、
そこにはクライエント(患者)との関り
という関係性の問題やノウハウも
学問体系に入ってくる。
最新のジャーナル(学会誌)で、
科学論文に相応しからぬ「愛」という
言葉が出てきて、驚いた。
業界では、
長らくラポール/ラポートという
仏語/英語で、
セラピストとクライエント間の
「相互信頼」を現わしていたが、
さる論文では
「愛」が必要だ…と、
あからさまに書かれていて
何だか面喰ってしまった。
年に5冊届く
最新の論文集なので、
最先端のテクニカル・ターム(術語)を
知るためにも必ずや
英文アブストラクト(梗概)にも目を通すが、
やはり「love」が用いられていた。
Psychotherapists should built
a friendly rapport with clients
and connect with them through
love and trust.
こうもあからさまに表記されると
なんだか面映ゆく感ずるが、
河合先生も心理療法の要諦として、
けっきょくは「愛」に尽きる、
と晩年に仰っていた。
えーっ!!
結局、それかいっ!!
と、当時は、
なんだかなぁ…と、
すこし抵抗があった。
事実、そうなのだろうが…。
「愛」はオールマイティーの
ジョーカーのようなもので、
寅さんのセリフじゃないが、
「それを言ったらお仕舞よ」
で、理論もへったくれも
なくなるような気がした(笑)。
今回の論文では、
ユンギャン(ユング派)の
Kast.V(1984)の著作から
引用がなされていた。
「恋愛に限らず、
多くの関係性において、
愛によって人は
全体性や希望といった活力を得て、
思いのままにならない世界に
立ち向かうことができ、
愛そうとする態度を持っていると
接するものすべての価値を
高めることができる」
現在のような
コロナ禍の世界が
まさしく
「思いのままにならない世界」
であり、
それに「立ち向かうことができる」には、
愛の力が必要と言うのである。
人文科学系の
「心理療法学」の論文なので、
やはり、自然科学系の
実験心理学のように
なんでもかでも
エビデンス・ベーストで…
とは言えないのだろう。
小6の常用漢字を
トレーシングペーパーを用いて
トレースし、
自分のクセを修正している。
若い頃は、
無手勝流・金釘字を
個性のひとつと威張ってたが、
さすがに還暦過ぎると
下手クソな字のまま
死んじまうのがやになって、
今頃、六十の手習いをしている(笑)。
手本の楷書を身につけるというのは、
たしにか、既製化された字に従う
ということであるが、
そのことが、すなわち、
個性が損なわれるというものではない、
ということに、漸く老齢に達して
気付いたのである。
ま、気づいただけマシか…(笑)。
真善美聖を
ライフ・ビリーフとするので、
下手クソ字はこの「美」に
反するんだなぁ…。
やっぱり、
美しい字、
カッコイイ字、
というのはあって、
それをとことん
芸術の域にまで極めたのが
「書道」という「道」である。
日本人は、
すぐに、なんでも
「道」にしっちまう(笑)。
「茶道」「華道」
「剣道」「柔道」…。
「道」のことを
老子のように「タオ」と読むと、
それは、宇宙万物の根源的真理
ということになる。
【すべての道はローマに通ずる】
ではないが、
案外、お茶だろうが、書だろうが、
音楽だろうが…
富士山の登山口が方々にあるように、
人生の極みや霊性(魂)の根源に
辿り着くには、どこを通っても
上り詰めれば一緒なのだろう。
⁂
この夏、
甲骨文字の
「金文」にまで
手を出してみたが、
これは、ツマランくて
性に合わずやめにした。
だって、
ただの図形なんだもん(笑)。
先日の『ソータ特集』で
放映されたソーちゃんの
赤ちゃん姿が可愛らしく、
本物の孫のリッ君とおなじくらい
名誉孫もカワイイもんだなぁ…と、
思って、愛でていた(笑)。
湿疹も1週間目で
やっとのこと色が薄くなり
痒みも軽減してきた。
この間、
不思議な現象があって、
痒い時は痛みがなく、
痛い時は痒みを感じなかった。
生物学に
「リービッヒの最小律」
というのがあるが、
この逆で、
「痛みの最大律」
現象なのかと感じた。
どちらかの刺激の知覚が
最優先されているのか、
あるいは、強い刺激により
弱い方がマスキングされているのか。
どちらにせよ、
痛みと痒みは同時に
押し寄せない…
ということが解った。
62年も共に
カラダと生きてきて、
未だに我が身の生理機構すら
知り得ないのは
不思議なことである。
事程左様に、
生き物は複雑系のものゆえ、
最も原始的なウイルスの
遺伝子解析すらできないから、
コロナのワクチンも治療薬も
年単位かかると言われるのだろう。
スーパーコンピューターや
AIの進化を如何に誇っても、
実際的な課題に応用できないのでは、
科学文明の進歩も
心許ないものである。
心理学者も人文科学系といえ、
エビデンス・ベースト・セオリーを
第一義とする
科学者の端くれなので、
物事を合理的・科学的に
検証し考察するのが常である。
ただし、
「心理療法学」ともなると、
そこにはクライエント(患者)との関り
という関係性の問題やノウハウも
学問体系に入ってくる。
最新のジャーナル(学会誌)で、
科学論文に相応しからぬ「愛」という
言葉が出てきて、驚いた。
業界では、
長らくラポール/ラポートという
仏語/英語で、
セラピストとクライエント間の
「相互信頼」を現わしていたが、
さる論文では
「愛」が必要だ…と、
あからさまに書かれていて
何だか面喰ってしまった。
年に5冊届く
最新の論文集なので、
最先端のテクニカル・ターム(術語)を
知るためにも必ずや
英文アブストラクト(梗概)にも目を通すが、
やはり「love」が用いられていた。
Psychotherapists should built
a friendly rapport with clients
and connect with them through
love and trust.
こうもあからさまに表記されると
なんだか面映ゆく感ずるが、
河合先生も心理療法の要諦として、
けっきょくは「愛」に尽きる、
と晩年に仰っていた。
えーっ!!
結局、それかいっ!!
と、当時は、
なんだかなぁ…と、
すこし抵抗があった。
事実、そうなのだろうが…。
「愛」はオールマイティーの
ジョーカーのようなもので、
寅さんのセリフじゃないが、
「それを言ったらお仕舞よ」
で、理論もへったくれも
なくなるような気がした(笑)。
今回の論文では、
ユンギャン(ユング派)の
Kast.V(1984)の著作から
引用がなされていた。
「恋愛に限らず、
多くの関係性において、
愛によって人は
全体性や希望といった活力を得て、
思いのままにならない世界に
立ち向かうことができ、
愛そうとする態度を持っていると
接するものすべての価値を
高めることができる」
現在のような
コロナ禍の世界が
まさしく
「思いのままにならない世界」
であり、
それに「立ち向かうことができる」には、
愛の力が必要と言うのである。
人文科学系の
「心理療法学」の論文なので、
やはり、自然科学系の
実験心理学のように
なんでもかでも
エビデンス・ベーストで…
とは言えないのだろう。
小6の常用漢字を
トレーシングペーパーを用いて
トレースし、
自分のクセを修正している。
若い頃は、
無手勝流・金釘字を
個性のひとつと威張ってたが、
さすがに還暦過ぎると
下手クソな字のまま
死んじまうのがやになって、
今頃、六十の手習いをしている(笑)。
手本の楷書を身につけるというのは、
たしにか、既製化された字に従う
ということであるが、
そのことが、すなわち、
個性が損なわれるというものではない、
ということに、漸く老齢に達して
気付いたのである。
ま、気づいただけマシか…(笑)。
真善美聖を
ライフ・ビリーフとするので、
下手クソ字はこの「美」に
反するんだなぁ…。
やっぱり、
美しい字、
カッコイイ字、
というのはあって、
それをとことん
芸術の域にまで極めたのが
「書道」という「道」である。
日本人は、
すぐに、なんでも
「道」にしっちまう(笑)。
「茶道」「華道」
「剣道」「柔道」…。
「道」のことを
老子のように「タオ」と読むと、
それは、宇宙万物の根源的真理
ということになる。
【すべての道はローマに通ずる】
ではないが、
案外、お茶だろうが、書だろうが、
音楽だろうが…
富士山の登山口が方々にあるように、
人生の極みや霊性(魂)の根源に
辿り着くには、どこを通っても
上り詰めれば一緒なのだろう。
⁂
この夏、
甲骨文字の
「金文」にまで
手を出してみたが、
これは、ツマランくて
性に合わずやめにした。
だって、
ただの図形なんだもん(笑)。
先日の『ソータ特集』で
放映されたソーちゃんの
赤ちゃん姿が可愛らしく、
本物の孫のリッ君とおなじくらい
名誉孫もカワイイもんだなぁ…と、
思って、愛でていた(笑)。
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