ヘイトをあおる言葉に耳をかさないでください。
このかたちある世界に”絶対”ということは存在しません。
全てが相対的になりたっています。
事象のある部分だけを切り取って善だ、悪だと言っても意味をなしません。
何かを裁くという心理は快感をもたらします。
快感だからこそ多くの人がそれに集まるわけです。
心の中で誰かを裁くということは自分を裁くということ。
その裁きは自分に帰ってきます。
裁きが裁きを呼ぶような世界に真の平和はあり得ません。
かたちある争いに人の関心は引き付けられます。
その事象をなんとかするべきだと議論が生まれる。
しかし。
かたちある争いは心の葛藤が生んでいるのです。
心の問題を見なければ本当の平和はやってこない。
だからどんな心の葛藤があるのかについて考えなければならないのです。
事象にまつわることは当事者以外にどうすることもできません。
事象を見つめる私たちは心の投影として受け取る必要があります。
このストーリーが何を意味するのか。
ショックを受けるようなものごとに接すると誰だって動揺します。
そんな時は感情もパニックを起こす。
冷静に心の内側を見なければなりません。
かたちあるこの世界が私たちのすべてだとみなす視点では解決方法は見つかりません。
世界観から問い直す必要があります。
自分とは何か、生きるとは何か、この世界とは何か。
それらを偉大な導き手はどう教えたのか。
代表的な人物はブッダとイエスです。
仏教とキリスト教、という意味ではありません。
この偉大なふたりが説く教えには共通点があります。
それは、
「この世界は存在していない」
「究極のものはかたちのない世界に存在する」
ということです。
『非二元』と言う言葉であらわされたりもします。
仏教では『無生法忍』と表現します。
この世界はホログラムのようなもの。
現代物理学でも宇宙はそのように語られるようです。
わたしたちは時代の変わり目に生きています。
備えなければなりません。
何にそなえるのか。
何をするのか。
それを理解するには、この世界の常識を越えた理解が必要です。
あたり前の日常はいつも仮の姿をしています。
私たち常に変わり続ける。
変わらないと感じるとしたらそれは錯覚です。
心の葛藤を見つめることが本当に必要なこと。
それはあってあたり前ではありません。
自らが選ぶから葛藤が存在するのです。
気づきから始まります。