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人間を越え、覚りに到達する人のブログ

『貧に落ちきれ』の真意

結論から言うと、私たちはこの言葉からすでに解放されている。
財産を持つことは悪ではなく、社会に対して施しが必要なわけではない。
もちろん教会に対してお供えという名の寄付も必須ではない。
神はこの世の財産を必要としない。
金銭が必要なのはこの世にいる人間である。
教団が寄付を要求するというのは人間がそれを必要としているからである。
だからシステムを作って信者から金銭を集める。
教団の要請に同意できる人はお供えをしてかまわない。
同意できない人はする必要がない。
神の教えを盾に寄付を要求することは本末転倒である。
神は寄付を要求していない。
中山みきも要求しなかった。
教えを曲げて寄付を強要するようならカルト集団と何が違うというのか。
もちろんお供えをしなくても霊的に怖いことは何も起こらない。
むしろ怒るのは教団に属する人間だけである。
人間が怒るのである。
ゆえに教団の中の制裁はあり得るだろうが、天罰も神罰もありえない。
金銭と救済には何の関係もない。
ついでに言うと、近年スピリチュアルであればお金が集まってくると言う風説があるが霊的であるということと金銭には何も関係がない。
お供えをしなければ神の怒りに触れるという考えはみきが生涯を通じて行った教えと相容れないものである。

『貧に落ちきれ』は中山みきの個人的な感覚から出発した。
天保九年のあの時、みきにはこの世の矛盾がはっきりと理解できた。
人間とは何か。
人の救いとは何か。
それをずっとみきは考えて来た。
寄加持のようなまじないによって人が根本的に救われるわけはない。
幾度となく行われたが結果は変わらなかったではないか。
寄加持の異様な雰囲気はみきの霊感をこの世を越えたものと結びつけた。
そしてみきに強烈なインスピレーションをもたらした。
まるで違う人間に生まれ変わったようにみきは精神世界に生きる人間として目覚めたのだ。
生来鋭かった直感は冴え渡った。
人はみな神に抱かれ平等である。
だがなぜ人間は苦しみ生きるのか。
この世はなんと不平等に満ちているのか。
家柄によって人間の貴賤が決まり、それを人々が当然と受け止めるこの世はなんなのか。
また迷信にすがる人々の蒙昧さ。
理不尽にも思える自らの人生への怒り。
それらが渦のようになって中山家を解体するという決意につながった。
霊的感覚が開いたみきにとってなんとしてもやらねばならないことであった。
旧家であり、格式のある家柄であり、土地も金もあった当時の中山家はみきにとって人々の蒙昧さの象徴でもあったのだ。
夫である善兵衛は世間的な体面を気にする旧来型の人であり、みきの思いに対応できる感性を持つ人ではなかった。
不自由のない生活ではある。
だが満たされぬものがある。
夫に訴えても理解はされない。
日々は何事もなかったかのように進んでいく。
足の痛みも腰の痛みも治ればそれで終わりである。
みきの心を理解する者はなく、理解の兆しもない。
それもこれもこの家があるから。
中山家が守っているものがあるから。
だから自分はこの檻の中で生きていなければならない。
であるならば。
自分にはこの家は不要である。
だから解体する。
旧来の考えとは全く異なった心の救済を行うために。
これが『貧に落ちきれ』の真意である。
自らの内なる言葉を神の言葉とし、施しにつぐ施しを行い屋敷も取り壊したのであった。
だから母屋を解体した時、大工に酒を振る舞い祝ったのである。
自らの人生の本当の出発であったのだ。
もちろん蔵を空にするような施しをしたところで、それによって世界だすけができるわけではない。
施しというのは、とりあえずの飢えをしのがせただけで根本的に救うことにつながりはしない。
根本的な救済は別のところにあると知らなければならない。
それは心の救済である。
目の前を覆う無明を取り去って精神世界に生きる。
神一条である。
そのためのプロセスが『貧に落ちきれ』であったのだ。
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