声の仕事とスローライフ

ただ今、仕事と趣味との半スローライフ実践中。遠方の知人友人への近況報告と、忘れっぽい自分のためのWeb忘備録です。

国防軍…

2012-12-07 10:43:26 | 自衛官時代の想い出
自衛隊を「国防軍」と改名する案が
先日、某政党から出されて論議を呼んでいましたね。

私が入隊した30年前はPKOやシリアへ派遣されることもなかった時代です。

教育隊時代に教官達から
「お前らはお国のために死ねるか」

と言われてもピンと来ないというのが
正直な感想でしたが、
今は、違いますものね。

「国防軍」という名前に変わったら、
日本を攻撃しようとする国には、
プレッシャーを与える事は間違いないと思いますが、
軍事国家のイメージは強くなりますね。

「国防」と「自衛」は同じ意味だと思いますが
「隊」と「軍」は明らかに違います。

単に語感のイメージの違いだけでは
済まされません。

法が改正され武器使用を認める事に
なれば、当然、
隊員達に「死ぬ覚悟」が求められます。

死ぬ気で「軍」に志願する若者が
どれだけいるでしょうか?

また、志願者が減り、一定の人員を確保することができなければ、
韓国のように徴兵制を
取らざるを得なくなってきます。

そうなった時、どうなるか…考えるとゾッとします。

日本はどうなるのでしょう?

そんな今から思えば
私が在籍した時代は、平和だったのかもしれません。

でも訓練は厳しかったし、
規則を守ることが常に求められていましたよ。

駐屯地の管理隊(宿舎)で暮らす
営内生活者には、外出しても門限が
決められています。

門限に遅れる事を
帰隊遅延(きたいちえん)と言いますが、もし門限までに帰って来なければ大騒ぎ。

自衛官は連帯責任ですから1人でも
規則を破った者がいれば、
班の全員が一カ月外出禁止という事も
ありました。

そんな時代ですので、夜の外出は
緊張の連続でした。

そこまでリスクを侵して通った
木曜夜のアナウンス教室でしたが、

最初のうち、私は自分の職業を隠して
いました。

当時は制服を着て外出すると
「税金泥棒」と言われ石を投げられる時代です。

職業をきかれ、公務員だとだけ答えて
いるうちに、どうやら他の受講生達からは

「役所勤めのお姉さん」だと勝手に
思われていたようです。(笑)








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歩の悩み

2012-12-07 02:12:50 | 自衛官時代の想い出
「頭は使うな、身体を使え」

思えば、教官達から訓練期間中よく言われたものです。

配属された音楽隊でも、最初の頃、
私は大失敗をしています。

初めて歌った
「踊り明かして」の練習時に
こともあろうに、

「隊長、そこの和音が違っています」

と間違いを指摘してしまったのです。

合奏場の空気が一瞬凍りつき、
休憩時間に私は幹部に呼ばれました。

「お前はアホか!組織ちゅうのは
上が黒、言うたら白いもんでも黒に
なるんや!」

それ以降、
言動を慎まなくていけない事が多く、合奏場では笑う事さえ許されない
雰囲気で、
いつの間にか、私は、すっかり萎縮してしまっていたのです。(~_~;)

ところが、不思議な事に、時間が経つと、そんな環境に慣れて来ます。

それどころか
命令通りに動くのは体力的にはキツいけれど、考えなくていいって事は、なんて楽なんだろう…。
とさえ、思えて来るのです。

私は将棋の駒なら歩兵…
組織の末端で働く、歩(ふ)でした。

考える事を必要とされない立場でした。


そして、
思考しない私は、ますます口下手になっていました。

それに比べて、
アナウンス教室に通って来る学生達は
なんて自由で奔放な発想を持っている
んだろう…。

今の自分は思考までもが狭くなって
世間から、どんどん隔離されている
ようだ、
これでいいのか、このまま組織にいて
いいのだろうか…。

私は、悩みました。




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自分の言葉

2012-12-05 21:23:33 | 自衛官時代の想い出
アナウンス教室に通い始めて
すぐに、

( ここは、自分には向かないのでは?)

と思いました。

1クラス40名くらいでほとんどが大学生。
しかも俳優やアナウンサー志望ばかり…。

私のように
「職場で司会をする機会があるので、勉強したい」
という目的で通ってきている人は
いませんでした。

まるでタレントスクールのような雰囲気の中での、
売込み合戦のような自己PRでは、終始圧倒されっぱなし…。
私は、恐らく一番目立たない受講生
だったはずです。

そんなアナウンス教室と自衛隊の生活は週に1度とはいえ、
まるで異次元の世界を行き来しているような感覚でした。

自衛官は、一般世間の事を「シャバ」
と呼びます。(^^;;

制服を脱いで私服に着替え、
阪急伊丹から肥後橋の教室まで通う間、人間ウォッチング
をするのも楽しみの一つでした。

ブランドのバッグを持ち
流行りの化粧をしたOLに出会うと

( なるほど、こういうのがシャバの生活、なんだなぁ…。)

と電車の中で、よく思ったものです。

と同時に
( どうして、自分はシャバの生活を選ばなかったんだろう…。)

と思いもしました。

自衛隊という塀の中で暮らしていると外の生活は新鮮です。
それに、教室に通ってくる他の受講生達は、私にとって何より
刺激的な存在でもありました。

彼らの影響で、私も少しずつ変わろうとしていたのです。

自分の言葉で伝えたい。

( アナウンサーは自分に向かない。
けれど思った事を、うまく伝える事ができたら、どれほど楽しいだろう…。)

私は、改めて
自分の言葉を持っていなかった事に
気がつきました。




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アナウンサー学校?

2012-12-03 09:29:33 | 自衛官時代の想い出
「大阪のアナウンサーの学校から
資料が届いたから、取りにおいで」

と、広報室長から隊内電話がかかってきたのは、2~3日後の事でした。

「えっ?!アナウンサーですか?」

ちょっと意外でした。

(司会の勉強がしたいと言っただけなのに…。)

正直なところ、アナウンサー学校という言葉に大袈裟なイメージがあり、
違和感を持ちましたが、

資料をみると、学校というより「塾」
のようなところで、
週に一度、木曜日の夜7時から開講しているようでした。

(週に一度なら、何とか通えるかな…)

とは言っても、
自衛官は必ず有事に備えていざとい
う時に出動できるように、
隊内に決まった人員を確保しておか
なければいけません。
いつでも自由に外出できるわけではないのです。

外出できる人数枠が決められていて、
土日などは枠の奪い合いです。

当然、外出申請をした先輩隊員の残りの枠を後輩隊員で奪い合う事になり
ます。

その上、外出先を申請書に記入し
目的を明確にしなければなりません。

「買い物」などが定番の外出目的でしたが、今回は毎週の事で、
それ相応の理由が必要です。

アナウンス教室は2時間、伊丹駐屯地から、阪急伊丹で大阪まで30分、
トータルでも3時間以上かかります。

毎週通うには音楽隊の先任幹部と
寮生活を送っている婦人自衛官管理隊長の許可が必要です。

しかも、単なる自己啓発ではなく、
職務上必要な勉強である、という
大義名分も必要なのです。

音楽隊の業務は夜のパーティーなど
もあるので、週一度とはいえ、
業務に支障があると判断されれば
それまでです。

授業料は当然、全額前納ですので
途中で通えなくなっても返ってはきま
せん。

( どうしようかな…。)

就寝ラッパが鳴り響く中、
ベットに横になっても眠れない日が
多くなりましたが、
それは、今まで感じた事のないポジティブな悩みでした。




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アガリ症のMC

2012-12-03 01:12:20 | 自衛官時代の想い出
youtubeの「自衛隊の歌姫」に触発
されて、過去の記憶が次から次へと
思い出され、
なぜ今、自分がここにいるのか、
そして、今の仕事をしているのか
原点は何であったか…を考える良い
機会になっています。

そろそろ、人生の「まとめ」の時期に入っているのかもしれません。(^_^;)

さて、音楽隊の話しの続きです。

音楽隊では大きな演奏会などでは
プロのアナウンサーに司会を頼む
事もありました。

その当時、よく隊に出入りしていた
のは神戸在住の鬼塚ヤスコさんと
いう二十代後半のフリーアナウンサーでした。

ショートボブの似合う美人でスタイルが良く、
何より、その洗練された雰囲気は男性隊員達の憧れの的でした。

司会者への仕事依頼は自衛隊の広報室を通じて行われますが、
その広報室長というのが、とても面白
い人で、

こんな軟派な幹部自衛官がいて良い
のかしら?
と思う程、社交的で話好き、
田端義夫似の温厚な顔立ちの、
典型的な浪速のオッチャンでした。

その広報室長のお気に入りとあって、
音楽隊の定期演奏会や中部方面隊音楽祭りなどでは必ず、鬼塚さんへの司会
の依頼があるようでした。

もっとも予算が決まっている自衛隊
の行事ですから、
毎回プロ司会者を頼むわけには行きません。

どうしても必要な時には、私達、
女性隊員が司会をする事もありまし
た。

あるとき、私にも演奏会の司会の役が回って来ました。

実は、こう見えても私は学生時代か
ら、大変なアガリ症で、
歌よりも何よりも、特に「話す」のが大の苦手でした。

週末に行われる千里ニュータウンでの
「たそがれコンサート」がMCデビュー
の日でしたが、

アガリ症の私は、その日の夕方からの司会の事を考えると、朝からドキドキするほど緊張していました。

それでも、しっかり台本を作り、
この曲の前説では、こういう話をしよ
うと、
1人でブツブツ言いながら、
一生懸命練習をして本番に臨んだので
す。

そして、本番が終わって

(何とかうまく行ったかな…?)

と思っていると、隊員たちから

「早口過ぎて何を言っているのか、
さっぱりわからん」

とのクレーム。

「おマエはディズニーのリスか?」

と、楽器を片付けながら、冗談めかして笑っていた隊員たちもいて、
すっかり自信を無くしてしまいました。

そんなある日、書類を広報室に届ける
用があったついでに、思い切って、
あの広報室長に訊いてみることにした
のです。

「鬼塚さんのような司会ができるようになるには、どうしたらいいんでしょうか?」

パイプ煙草を加えた広報室長は
一瞬、驚いたような顔をしたかと思うと、すぐにニヤリと口の端しに
人懐こい笑みを浮かべながら、
興味津々の表情で私を見て言いまし
た。

「司会か…? わかった、 探しとい
たる。」

音楽隊に所属して一年三ヶ月が過ぎた頃でした。










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マッチ箱の家

2012-12-01 23:25:50 | 自衛官時代の想い出
自衛官の給与は、職種によっても勤続
年数によっても異なります。
また、危険な任務ほど高くなります。

その点、音楽隊は前線に出ることは
まずないので、給与は危険手当の付く
任務に比べると低いのです。

とはいえ、衣食住が全て保証される駐
屯地内での独身者の生活では、
お金を使う事が少なければ、かなり貯金ができます。

そういう場合を営内生活、また結婚して駐屯地の外で居を構える事を営外生
活と言いますが、
中層階級になると大方の自衛官は結婚して営外に出ます。

営外生活者のほとんどは、駐屯地の周辺にある官舎に住んで質素な生活を家族と送りますが、
その官舎はマッチ箱のような小さな箱を思い浮かべる簡素な作りで、もちろんエレベーターなどはありません。

その上、年に何度か畳や襖などの点検もあるらしく、
小さな子供がいる隊員は、部屋を汚したりしないよう、気を遣いながら生活をしています。
国から借りている住居ならではの独自のルールがあるのです。

一度、中堅の隊員宅を訪問した事が
ありますが、部屋には段ボール箱がところ狭しと置かれ、
奥さんが六畳の部屋に金属の部品をハンダ付けする内職をしていたらしく、生活は決して楽ではなさそうでした。

陸曹クラスの既婚隊員の奥さんは、
当時から、ほとんどが内職やパートに出て働いていました。

また、昇級して幹部になると、
制服や住居費も全て自費となるので、出費が嵩みます。

超エリート以外の自衛官は現役時代は
質素な生活を強いられます。
それでも、定年まで我慢するのは
退職後に終身恩給もつき、老後は悠々自適の生活が送れるからです。

笑い話ですが、教育隊時代は女性教官達から
「付き合うなら防大卒のエリート幹部にしろ」
と、よく言われたものです。


同じ幹部でも超エリートになれば、
奥様方の交流会もあって、お付き合い
にも相当お金がかかるようですが、

超エリートの場合、
第二の人生でも高級取りを約束する天下り先が用意されているので
その生活ぶりは一般自衛官の家庭とは全く異なります。

私の同期に海上自衛隊の陸将補の奥さんがいますが、奥様方で「真珠会」と
いう社交場を作って優雅な茶話会など
を催しているとの事でした。


では、音楽隊での昇格はどうか…。
残念ながら、
音楽隊の場合、topまで行って一等陸佐
(昔なら大佐)でしょう。

超エリートと言われる陸将補や陸将にまで昇格する人を、私は未だに知りません。






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