13年前の4月、まだ、路肩に雪が残っている頃、前夫は、軽の自家用車、私はホンダVTの愛車に乗って、フェリーで苫小牧について、札幌まで命からがらやってきた。
夜だったので、路面は凍っていて、私のオートバイは、走りながらいつ転倒してもおかしくなかった。
夜中にホテルに宿泊、翌日は、前もって決めていたマンションに行く。
引越しの荷物がやってきて、バタバタと片付ける。
前夫と当時はやり直せるきっかけになれたらなあと漠然と思っていたが、口に出して表現することはなかった。
二人でまた仕事をするようになれば、活き活きとした生活が出来るだろうとこれも漠然と考えていた。
それぞれの両親は、また遠くに行ってしまう寂しさを口にしたが、今になってはなんとも言いがたい。
札幌に行ってみたら、私は一応奥さんだから、フリー扱いで企画を出して欲しいと言う軽い扱いだった。前夫の技術は、定評があり、この技術者ほしさに私はおまけのような感じだった。
それでも自分の企画が通って商品化すれば、良いので、それまで、北海道ライフを楽しみながら、仕事をしようと考えていたが、それでも前夫にストレスを発散していたかもしれない。
1年たって、私の仕事は企画だけで終わっていた。他の仕事を探していたが、自分の経験を活かす仕事は、その会社くらいしかない。
意気消沈しながら、5月連休にキャンプへ行く予定でキャンプ商品を買い集めていた私が、相談に乗ってくれない前夫に、夕飯の焼きそばを乱暴にテーブルに置いたら、前夫が切れて、私に殴りかかってきた。
驚いて恐怖にかられながら、台所の隅でボコボコにされていた。
このとき、この人とはもう暮らせないと殴られながらぼーっと考えていた。
前夫は、お酒が入れば話すが、そうでなければ寡黙な人だった。
天才的なプログラマーだったので、仕事ぶりが良くて、可能性を見たのだった。
私の個性を大切にしてくれていたと思う。しかし、私は控えめにいるという人間ではなく、自己表現で感情を表現する。わかりやすい。
しかし、彼の機嫌や何を考えているのかを察する神経が弱かったのだと思う。
子供をもつことに対して、姓をどうするかをしっかり話し合わないうちに、妊娠して子育てのために仕事ができず自分の経済力が無くなれば、うやむやに彼の籍に入ることは、避けたかったので、自分がしっかり仕事をもっている状態でなければ、子作りを避けたかったというのが私の真実だ。
私の家の都合しか考えない、我侭だと理解しているが、それをうやむやにして自分に有利に進めるような感じを彼から受けていた。
寝静まった前夫を見て、夜中にとりあえずの荷物を用意し、明け方、恐怖で手が震える手でエンジンをやっとかけて、車で家を出た。
銀行が開いたらすぐに自分の口座のお金を下ろして、フェリー乗り場の町まで走った。途中ガソリンスタンドに行った際、バックミラーを見たら、顔にアオタンがあってむくんでいた。どおりで、皆の視線を感じると思った。
殴る手や蹴る足を手でさえぎったりもしたのか、腕も痛む。
フェリーに乗っても視線は感じる。
フェリーで石川県の実家に帰った。
突然の帰省に両親は驚いたが、それでも受け入れてくれた。
このとき、顔のアオタンに気付いていなかったようだった。
2日くらいたって、親に今回の騒動を伝えた。
しばらく家に置いて欲しいと。
母は驚いて、初めて私の顔を見て、アオタンに気付いた。
まだ、両親はそれぞれ仕事をしていたので、家事をして、心身を休めていた。
1週間しても前夫から電話が来ないことをいぶかしげにしていたが、そっとしておいてくれた。
警察関係機関に勤める叔父に相談しても、民事には立ち入れないという点と、面倒なことに関わりたくない様子だった。
そうこうしているうちに、1ヶ月たって、図書館に通えるくらいに元気になった。
私の所持金も乏しくなって、生活費の銀行口座の残高を調べたら、エラーが出て、その口座を前夫によって、封鎖されていたのが判明して、寂しく思った。
家賃を振り込んで、相手が困らないようにしていたのに、こんなもんだなあと勝手に思った。
これではどうにもならないし、7月になって本州は暑くて夏の衣類をまったく持ってきていないので、一度帰ることにした。
ちゃんと話し合わないといけないので、両親に話していったん帰る。
帰ると、朝9時過ぎにも関わらず、自宅にいた。
その日は、仕事を休んで話し合った。というより、また生活をやりなおす気があるのかということだけだった。
仕事の会社も私のポストを用意してくれていた。
前夫と同じ会社だが、階を異なり、やり直す手助けをしてくださった。
そうして、元のさやに戻ったかのようだったが、子供が欲しかったようだったので、私の姓は変えない意思を念押しをして、仕事をしながら事実婚を再スタートした。
私の仕事は、広告や販促の仕事で、慣れてくるととても忙しくなって、辛かったことも同僚や先輩たちが見守ってくれているように感じて、感謝の毎日だった。
皆が、私たちをアウトドアの遊びや、飲みに連れて行ってくれて、気分転換をはかってくれた。
そうしているうちに、前夫は、独立をしたいと当時の社長に言ってしまう。
するとその社長は、私も巻き込んで会社を設立しろという。
口がたつ私を代表取締役にして、前夫は能力給の社員にして、自分は多くのサラリーを取りたかったようだった。
二人で働いていると、それぞれ、毎月10万円は貯金するような、ある程度の給料を東京時代からいただいていたので、前夫のお金に対する煩悩はすごいなあと思った。独立と同時に、前夫は、たまたま取ったマンション業者からの営業電話で、マンションを買う話を進めてしまっていた。
そのお金を用意するのは、私だ。
手数料、税金を納税した書類を用意し、法人手続きにも自分で本を買ってきて書類を作成した。
その年の年末に法人の書類を提出し、同じ会社の同じ机で、同じ仕事をしながら、所属は、自分の会社という不思議な会社設立だった。
翌年1月の中旬の連休に、仲良しの同僚たちとトマムへスキーに行った。
リフトに乗っても気分が良くないので、風邪を引いたかと思いながら、せっかくのスキーだからと楽しんでいた。
体調がよくならず、多忙な仕事のケリがついた翌月の初旬に、もしかしたら昔の婦人科の病気が再発したかもと思って、婦人科の診察をしたら、妊娠していた。
子作りに熱心ではなかったので、宝くじに当たったような妊娠だった。
帰宅して前夫に伝えると、大喜びしていた。
凍った道を転んではいけないと自分ながら注意をし、しばらく様子をみて、それぞれの両親に伝えると、双方の両親も初孫に大喜びだった。
会社の同僚たちには、しばらく内緒にして、自宅でパーティをした際に公表しようと計画をして、それから2ヶ月ほどしてからの吉日に、10人くらいの方をお呼びして、発表すると、大喜びしてくれた。
皆は、私たちの夫婦仲を心配してくれていた。
なのに、後で別れることになるとは・・・。
公表の後は、仕事の調整をし始めた。
妊娠5ヶ月くらいだったろうか。
その後は、明日書きます。
感謝
夜だったので、路面は凍っていて、私のオートバイは、走りながらいつ転倒してもおかしくなかった。
夜中にホテルに宿泊、翌日は、前もって決めていたマンションに行く。
引越しの荷物がやってきて、バタバタと片付ける。
前夫と当時はやり直せるきっかけになれたらなあと漠然と思っていたが、口に出して表現することはなかった。
二人でまた仕事をするようになれば、活き活きとした生活が出来るだろうとこれも漠然と考えていた。
それぞれの両親は、また遠くに行ってしまう寂しさを口にしたが、今になってはなんとも言いがたい。
札幌に行ってみたら、私は一応奥さんだから、フリー扱いで企画を出して欲しいと言う軽い扱いだった。前夫の技術は、定評があり、この技術者ほしさに私はおまけのような感じだった。
それでも自分の企画が通って商品化すれば、良いので、それまで、北海道ライフを楽しみながら、仕事をしようと考えていたが、それでも前夫にストレスを発散していたかもしれない。
1年たって、私の仕事は企画だけで終わっていた。他の仕事を探していたが、自分の経験を活かす仕事は、その会社くらいしかない。
意気消沈しながら、5月連休にキャンプへ行く予定でキャンプ商品を買い集めていた私が、相談に乗ってくれない前夫に、夕飯の焼きそばを乱暴にテーブルに置いたら、前夫が切れて、私に殴りかかってきた。
驚いて恐怖にかられながら、台所の隅でボコボコにされていた。
このとき、この人とはもう暮らせないと殴られながらぼーっと考えていた。
前夫は、お酒が入れば話すが、そうでなければ寡黙な人だった。
天才的なプログラマーだったので、仕事ぶりが良くて、可能性を見たのだった。
私の個性を大切にしてくれていたと思う。しかし、私は控えめにいるという人間ではなく、自己表現で感情を表現する。わかりやすい。
しかし、彼の機嫌や何を考えているのかを察する神経が弱かったのだと思う。
子供をもつことに対して、姓をどうするかをしっかり話し合わないうちに、妊娠して子育てのために仕事ができず自分の経済力が無くなれば、うやむやに彼の籍に入ることは、避けたかったので、自分がしっかり仕事をもっている状態でなければ、子作りを避けたかったというのが私の真実だ。
私の家の都合しか考えない、我侭だと理解しているが、それをうやむやにして自分に有利に進めるような感じを彼から受けていた。
寝静まった前夫を見て、夜中にとりあえずの荷物を用意し、明け方、恐怖で手が震える手でエンジンをやっとかけて、車で家を出た。
銀行が開いたらすぐに自分の口座のお金を下ろして、フェリー乗り場の町まで走った。途中ガソリンスタンドに行った際、バックミラーを見たら、顔にアオタンがあってむくんでいた。どおりで、皆の視線を感じると思った。
殴る手や蹴る足を手でさえぎったりもしたのか、腕も痛む。
フェリーに乗っても視線は感じる。
フェリーで石川県の実家に帰った。
突然の帰省に両親は驚いたが、それでも受け入れてくれた。
このとき、顔のアオタンに気付いていなかったようだった。
2日くらいたって、親に今回の騒動を伝えた。
しばらく家に置いて欲しいと。
母は驚いて、初めて私の顔を見て、アオタンに気付いた。
まだ、両親はそれぞれ仕事をしていたので、家事をして、心身を休めていた。
1週間しても前夫から電話が来ないことをいぶかしげにしていたが、そっとしておいてくれた。
警察関係機関に勤める叔父に相談しても、民事には立ち入れないという点と、面倒なことに関わりたくない様子だった。
そうこうしているうちに、1ヶ月たって、図書館に通えるくらいに元気になった。
私の所持金も乏しくなって、生活費の銀行口座の残高を調べたら、エラーが出て、その口座を前夫によって、封鎖されていたのが判明して、寂しく思った。
家賃を振り込んで、相手が困らないようにしていたのに、こんなもんだなあと勝手に思った。
これではどうにもならないし、7月になって本州は暑くて夏の衣類をまったく持ってきていないので、一度帰ることにした。
ちゃんと話し合わないといけないので、両親に話していったん帰る。
帰ると、朝9時過ぎにも関わらず、自宅にいた。
その日は、仕事を休んで話し合った。というより、また生活をやりなおす気があるのかということだけだった。
仕事の会社も私のポストを用意してくれていた。
前夫と同じ会社だが、階を異なり、やり直す手助けをしてくださった。
そうして、元のさやに戻ったかのようだったが、子供が欲しかったようだったので、私の姓は変えない意思を念押しをして、仕事をしながら事実婚を再スタートした。
私の仕事は、広告や販促の仕事で、慣れてくるととても忙しくなって、辛かったことも同僚や先輩たちが見守ってくれているように感じて、感謝の毎日だった。
皆が、私たちをアウトドアの遊びや、飲みに連れて行ってくれて、気分転換をはかってくれた。
そうしているうちに、前夫は、独立をしたいと当時の社長に言ってしまう。
するとその社長は、私も巻き込んで会社を設立しろという。
口がたつ私を代表取締役にして、前夫は能力給の社員にして、自分は多くのサラリーを取りたかったようだった。
二人で働いていると、それぞれ、毎月10万円は貯金するような、ある程度の給料を東京時代からいただいていたので、前夫のお金に対する煩悩はすごいなあと思った。独立と同時に、前夫は、たまたま取ったマンション業者からの営業電話で、マンションを買う話を進めてしまっていた。
そのお金を用意するのは、私だ。
手数料、税金を納税した書類を用意し、法人手続きにも自分で本を買ってきて書類を作成した。
その年の年末に法人の書類を提出し、同じ会社の同じ机で、同じ仕事をしながら、所属は、自分の会社という不思議な会社設立だった。
翌年1月の中旬の連休に、仲良しの同僚たちとトマムへスキーに行った。
リフトに乗っても気分が良くないので、風邪を引いたかと思いながら、せっかくのスキーだからと楽しんでいた。
体調がよくならず、多忙な仕事のケリがついた翌月の初旬に、もしかしたら昔の婦人科の病気が再発したかもと思って、婦人科の診察をしたら、妊娠していた。
子作りに熱心ではなかったので、宝くじに当たったような妊娠だった。
帰宅して前夫に伝えると、大喜びしていた。
凍った道を転んではいけないと自分ながら注意をし、しばらく様子をみて、それぞれの両親に伝えると、双方の両親も初孫に大喜びだった。
会社の同僚たちには、しばらく内緒にして、自宅でパーティをした際に公表しようと計画をして、それから2ヶ月ほどしてからの吉日に、10人くらいの方をお呼びして、発表すると、大喜びしてくれた。
皆は、私たちの夫婦仲を心配してくれていた。
なのに、後で別れることになるとは・・・。
公表の後は、仕事の調整をし始めた。
妊娠5ヶ月くらいだったろうか。
その後は、明日書きます。
感謝
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます