ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

名も知らぬ駅に来ませんか 16

2020年04月17日 | 「名も知らぬ駅」に来ませんか
ジンジャエール

「あ~あ、あったかい」
両手を擦りながらカンちゃんが入ってきた。
カンちゃんのことは以前ここで書いたことがある。不思議ではあるが、ちょっと微妙な能力の持ち主である。
彼の仕事は、繁華街にある酒屋の配達人。主に、夜の飲食店回りをしている、ということで私の店とも顔馴染みである。
月のうち数回の休日があり、その1回は客として店に顔を出している。
「今日は休み?」と問うと、
「そうです。午後いっぱいアパートのメンテナンスに付き合って、ヘトヘトです」
カンちゃんは亡くなった父親からアパートを遺されて、今はそこの一室に管理人を兼ねて住んでいるらしい。
母親はすぐ近くの実家に一人暮らししているということだった。
カンちゃんが夜の仕事で帰りが遅くなるのと、昼間にアパートのメンテナンスをしたり、
住人の要求などに応える必要もあって、アパートに住んでいるのだというようなことを話したことがある。
アパートからの収益があるなら、酒屋の配達をしなくても食べるには困らないだろうと聞いたことがあるが、
その時、カンちゃんは、
「マスターがさ、僕の立場だったらどう?毎日のんべんだらりと過ごせる?」
と、逆に質問された。
「そうねぇ、しばらく放浪するかな。でもこの歳だから、体力的に無理だな。パチンコも毎日では飽きるし、ゴルフはしないし、う~ん、やっぱり毎日ゴロゴロと過ごすのはむしろ苦痛かな」
「そうでしょう。遊んで暮らすってのは、結構しんどいと思うんだよね」
「確かにね」
「その点、酒の配達をしていると、いろんな店のきれいなお姉さんと顔見知りになったり、お客さんの酔態が結構笑ったりすることもあって、退屈しないんです」
思い出したように笑って話してくれた。

カンちゃんのオーダーはいつもジンジャエールである。
車を運転する仕事なので、アルコールは飲まなくなったと言っていた。
ジンジャエールの種類は大まかに、甘口のドライと、辛口のゴールデンの2種類に分けられる。
カンちゃんのいつものは、ウィルキンソン ジンジャーエール辛口で、ゴールデンタイプのものである。
ウィルキンソンからはドライタイプの甘口のものも販売されているし、同じ辛口でも瓶入りのものは少し辛みが強い。



この日のカンちゃんはいつになく饒舌で、自分の呼び名の由来を教えてくれた。
「僕のことをカンちゃんと呼んでいるけど、本名はなんだかマスター知ってる?」
「そういえば聞いてなかったな。カンイチ、カンタロウ、カンペイ、カンジ、カンクロウ、・・・・なんか聞いたような名前ばっかりだな」
「ぜーんぶハズレ。実はヒロシなんです。漢字は寛という字を書きます」
と言って、カウンターに指で寛という字を書いた。
「あー、菊池寛の寛か」
「さすがマスター、古い人が出てきたね」
「それでカンちゃんか、なるほどね」
「ヒロシちゃんや、ヒロシ君より呼びやすいでしょう。それに親しみやすいし、僕も気に入っているんです」
露の浮いたグラスのジンジャエールを一口飲んでカンちゃんは続けた。

「今の仕事先に履歴書を持って行ったとき、社長が寛という字をカンと読んで、じゃあカンちゃんでいいな。と言ったのが始まりなんです」
「ヒロシとは読まなかったんだ」
「ええ、僕もそれでヒロシと読むんですと訂正したんですが、社長は、『まあカンちゃんでいいじゃないか。それより、ヒロシならヒロシネタの一つくらいやってみてよ』なんて無茶振りしてきたんです」
「ハハ、面白い社長だね。で、ネタをやったの?」
「ええ、この名前のおかげで何度かやらされた経験がありますから」
「へー、ヒロシのネタなの?」
「なんと、僕のオリジナルネタですよ」
とカンちゃんが言ったとき、店内にいた3人連れの客の一人が、
「やってみてよ!」と声を掛ける。
その連れの女性からも、
「お願いします」の声。
カンちゃんはちょっとの間考えていたが、
「やってみるかな」
いつもは静かなカンちゃんの意外な一面を見る思いだった。
「マスター、いいかな?」
「もちろんいいよ。私も楽しみだな」
私の返事を聞いたカンちゃんは、カウンターのコーナー付近にあるスペースに立った。
両手をポケットに突っ込み、少し斜めに足を配り、俯き加減にポーズを取ったカンちゃんは、おもむろにネタを始めた。

ヒロシです。
この前、バイクで町を走っとったとデス。
すると、後ろから来た中学生が自転車で追い越していったとデス。
「こら、あんまりスピード出すと危なかぞ!」と言ったら、
中学生が振り向いて、
「ボーッと走ってんじゃねえよ!」と叱られたとデス。
ヒロシです、ヒロシです、・・・・。

このネタに、3人連れのお客さんは大喜びで、私も大いに笑わせてもらった。
カンちゃんのお茶目な一面を発見して、私は幸せな気分になった。
カンちゃんはというと、すっかり照れて、席に戻ってジンジャエールを飲み干していた。
その後のカンちゃんは、ヒロシネタを披露したのが嘘のように、以前と変わらぬ様子で酒の配達をしている。
月一回の来店の時も、相変わらずジンジャーエールをオーダーして、
「やっぱ辛いなこれ」
と、愚痴ともつかぬ感想を言って、小一時間ほど過ごして帰る。

カンちゃんのヒロシネタを見たいですって?
う~ん、カンちゃんの休みは不定期だから、見られるかどうか保証はできませんが、
それでもよければ「名も知らぬ駅」に来ませんか

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