カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

●SF・オバケのQ太郎

2016年08月31日 | ☆与太話     

 「オバケのQ太郎」を描いてみました。
 油彩モードで描いてみたら面白いかもしれないと思ってやってみたんだけど、たいしたことがありませんでした。
 今回の記事は「おえかき」というカテゴリに入れましたけど、Qちゃんの話というか、オバケの話です。
 Qちゃんたちって、凄いと思うんですよ。空が飛べるし、透明になれるし、壁を通り抜けることができます。
 これだけのことができる超能力者がいたら、凄いことです。ギャグ漫画としてではなく、SF小説として書いてみたら面白いんじゃないかと思ったんですけど、その構想がなかなかまとまりません。カエサルとしては、「北海道タイムスリップ」「一兆円」とともに、3大研究テーマということになってしまいました。


 まず、空を飛べるというのが凄いと思います。最高速度は40km/hということなんだけど、十分だと思います。
 カエサルんちからスーパーまでの道のりは4kmで、自動車で12分というところなんだけど、直線距離なら3kmくらいなので、40km/hで飛んでいけば5分足らずで行けることになります。
 仙台駅(道のり12km、直線距離8km)までだと、公共交通機関を使えば1時間近くかかっちゃうんですけど、飛んでいけば13分です。
 イベントなどで、上空からの撮影もできますね。ドローンとかが問題になってますけど、自分自身が飛ぶ分には法律などにひっかからないという気がします。もっとも、生身で空を飛んだりしたら、それどころの話ではありません。世界中から注目を集めてしまうことになります。
 そういうことは絶対に避けたいので、後述の透明能力との組み合わせを考えねばならないと思います。
 空を飛ぶのにどれくらい体力を使うかという問題もあります。歩けば疲れるし、走ればもっと疲れるわけで、空を飛んだりしたら、とんでもなく疲れるということも考えられます。でも、筋肉を使って飛ぶというわけではないので、疲れないんじゃないかという気もします。
 Qちゃんは一度に50kmまで飛べるということらしいので、1時間以上は飛び続けることができるということになります。まあ、「歩くよりも楽」と考えていいんじゃないでしょうか。そういうことにします。


 姿を消せるということは、簡単な話ではありません。
 いわゆる「透明人間」は、体は透明になるけど、服は透明になりません。まあ、あたりまえの話です。姿を消すためには、全裸にならねばならないということになります。
 でも、生物学的に言うと、口の中や胃袋の中は「体の外」ということになりますから、食物や排泄物などは透明にならないことになります。さらに、汗はどうなるのか?などと考えてみると、全裸になっても、体表面が見えてしまうと言うことになります。
 体だけ透明になるというのも、なかなか難しいと思いました。
 そこで、姿を消すときは、服ごと透明になるということにしたいと思います。着ている服だけではなく、持っている物なども一緒に透明になっちゃうということにします。
 一緒に透明になれるものの限界が必要だと思うのですが、「片手で持つことができるもの」ということにしておきたいと思います。
 超能力を使えるというのは楽しいのだけど、そのために世間で騒がれたりするのは困ります。オバケとして活動は、オバケであるということを誰にもばれないようにするというのを前提にしたいと思います。
 空を飛ぶときは、姿を消していないといけないことにします。
 姿を消すときや現すときは、人に見られてはいけないことにします。


 透明になっているときは、物を見ることもできるし、音を聞くこともできます。匂いや味もわかるということにします。物に触ることもできるわけですけど、その触感がわかるかどうかは微妙です。手が触った物を通り抜けてしまうからです。もちろん、触った物を動かすことはできないということになります。
 透明になっているときは、外の世界と力学的な接触はできないということにします。いささか不便ですが、そうすることによって、壁を通り抜けるということなどとの整合性が保てると思います。飛んでいるときに何かとぶつかるということもなくなります。
 足は地面を通り抜けてしまうことになるので、歩くということはできません。地上を飛ぶことになります。オバケに「足がない」と言われるのはこのためかもしれませんね。
 変身は、できないことにします。
 姿を現すときは、姿を消したときの状態(着ている服、持っている物を含む)のままで現れるということにします。
 その必要があれば、変装をすることになると思います。見る人が見ればすぐにばれちゃうような程度の変装ということになると思います。
 異次元空間を出現させて、その中に入り込むと考えるとツジツマが合うかもしれません。
 日常空間からは、異次元空間の中は見えないし、異次元空間の中の物に触ったりすることもできません。何もないのと同じ状態になります。
 異次元空間の中からは、日常空間を見たり聞いたりすることができますが、日常空間の物を動かしたりすることはできません。
 異次元空間は、その中にいる人や物ごと移動することができるので、「乗り物」のようなものだと考えていいかもしれません。最高速度は40km/hですが、誰にも見えないし、壁を通り抜けたりすることのできる乗り物です。


 オバケの仕様はこんなところだということにして、この能力をどのように使うことができるかを考えていきたいと思います。
 まず、スーパーへ買物に行ってみたいと思います。
 自宅で、買い物籠を持って、透明になります。そこからスーパーまで飛んで行けば5分足らずで着くことになりますが、問題はここからです。
 スーパーに着いたら姿を現すわけですが、その場面を人に見られるわけにはいきません。トイレなどに誰もいないようなときを見計らって現れればいいんだけど、誰もいなかったはずのトイレから人が出てくるということになります。そういうことが、防犯カメラなどをチェックすればわかってしまうかもしれません。1回や2回なら気にする人はいないと思いますが、何回も繰り返していれば気づく人がいるかもしれません。
 買物を終えて姿を消すときも、同じ問題が生じます。
 トイレではなく、駐車場などを考えた方がいいのかなとも思います。買物に行くのは夜なので、人目につかずに姿を現したり消したりできるような場所はあるような気がします。
 でも、日常生活の手段としては、オバケとしての能力を使わない方がよいのかもしれませんね。


 オバケとしての能力を何に使えるかと言うと、さしあたって、ドロボウだと思います。
 入り込むだけなら、誰にも見られず、どこにでも入り込めます。金品の在りかを探したり、人がいるかどうかをチェックしたりするのは、姿を消したままでできます。その後は、一瞬だけ姿を現して、金品を手にするや否や姿を消し、立ち去ればいいわけです。それほど難しいことではないという気がします。 
 見つからないし、捕まらないし、罰せられないとしても、ドロボウはドロボウです。
 カエサルとしては、人のものを奪うことに心痛を覚えずにはいられませんし、そういうことを感じない人間にはなりたくありません。「SF・オバケのQ太郎」の主人公をカエサルにする必要はないんですけど、そういうことを平気でできる人間(オバケ)を主人公にするというのは嫌だという気がします。
 でも、世の中には、プロの犯罪者もいるし、悪徳政治家みたいな人もいると思います。そういう人から、その悪行を阻害するような形で金品を奪うというのであれば、心は痛まないかもしれません。悪行を暴き、阻害するということが目的で、その余禄として、主人公も金銭的利益を得るということにするわけです。「お話」としては成立するような気がします。
 いずれにしても、こそこそとドロボウばかりしているのは楽しくありません。凄い能力を活かして、ドスンと大もうけすることはできないかなと思っているんですけど、なかなかうまい方法を思いつきません。
 そういう「うまいこと」ができずに、ジタバタするというのも「お話」になるかもしれません。


 どこにでも忍び込めるし、誰にも気づかれずに見聞きするすることができるので、たいていの秘密を暴くことができます。透明のままでも、写真を撮ったりすることはできるはずなので、証拠を残すこともできます。新聞記者になったらスクープ連発だし、スパイになったら一国をつぶすこともできると思います。
 もっとも、国際的な活動をするためには、外国語がわからないといけません。国内で活動するにしても、法律とか経済とか自然科学などについての専門的な知識が必要になります。一人でできることに限界はありますね。
 誰かの手下みたいになってしまえば、あるいは、志を同じくする「なかま」みたいなのがいれば、いろんなことができるようになると思います。もちろん、そういう立場になってしまうと、オバケであることを隠しながら活動するのは難しくなりますし、また、人間関係の軋轢なんかも生じてくることになると思います。敵から命を狙われたり、仲間に裏切られたり、いろんな「お話」ができそうです。
 「お話」をどうするかはともかくとして、あくまでも自分一人で行動するということにすれば、何をすればいいものやら困りますね。
 たとえば、カエサルは原子力発電に反対していて、世界中から一切の原子力発電所がなくなればよいと思っています。でも、個人的にそう思っているというだけの話なので、実際に自分の力でそうすることができるということになると話は違ってきます。
 何事についても同じことが言えると思いますが、できないならば悩まずに済むのに、できるとなったら悩まざるを得ないということになります。あるいは、難しいことなら挑戦するだけで意味があるのに、簡単なことならそれをする意義が問われるということになるかもしれません。
 話がずれることになっちゃうかもしれないけど、ジャン=ポール・サルトルが言うところの「自由と責任」だという気もします。原発問題や戦争法案などを左右するだけの「自由」があれば、それだけの「責任」を負わねばならないということです。
 多くの日本国民は選挙に行かないわけですが、そうした「自由」がないと感じているからではなく、そのことに伴う「責任」を負うのが嫌なのではないかという気もします。


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