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慶長九年(1604年)、将軍徳川家康は秀忠に「一里塚」を作るよう命じました。
一里塚は江戸の日本橋を起点として、各街道には行程の目安と木陰による休息の場となる様に、両側1里(約4km)ごとに目印となる木を植えたのです。一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げたもので、その上に松や榎などの丈夫な木が植えられました。
家康は「塚にはええ木を植えよ」といったのを、エノキ(榎)と聞いてしまったとも言われています。
一里塚の構築は、江戸が政治の中心であると人々に印象付ける家康の政策でした。
(東海道五十三次俄史跡研究家)
日本橋から14番目の一里塚です。
ここまで来て、初めて見つけた一里塚ですがそれもその筈、交差点の信号に「一里塚」と大きく表示されています。
雨は上がりました。ポンチョを脱いだらシャツは汗でびっしょりでした。
広重五十三次 平塚(縄手道)
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一里塚は江戸の日本橋を起点として、各街道には行程の目安と木陰による休息の場となる様に、両側1里(約4km)ごとに目印となる木を植えたのです。一里塚の大きさは五間(約9m)四方、高さ一丈(約1.7m)に土を盛り上げたもので、その上に松や榎などの丈夫な木が植えられました。
家康は「塚にはええ木を植えよ」といったのを、エノキ(榎)と聞いてしまったとも言われています。
一里塚の構築は、江戸が政治の中心であると人々に印象付ける家康の政策でした。
(東海道五十三次俄史跡研究家)
日本橋から14番目の一里塚です。
ここまで来て、初めて見つけた一里塚ですがそれもその筈、交差点の信号に「一里塚」と大きく表示されています。
雨は上がりました。ポンチョを脱いだらシャツは汗でびっしょりでした。
広重五十三次 平塚(縄手道)
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