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司馬遼太郎「功名が辻」にみる千代のコーチング 3

2006年01月11日 | 読書
NHKの大河ドラマが始まりましたね。あちらは、大石静氏の脚本なので司馬遼太郎の功名が辻とは多少話が違っています。
こちらは、原作を読んで千代がどのように伊右衛門をコーチして行くかを追いたいと思います。

織田軍は戦線を拡大して行き、伊右衛門は信長の馬廻役(近衛士官)から外され、「与力」として実戦部隊に入った。
与力と云うのは、江戸時代の町奉行所の与力とは意味が違い、「信長の直臣ながら諸武将の部下として出向している者」というほどの意味がある。
各地の戦場を駆け巡る与力の方が戦の場数をかせぐことができるし、功名の機会も多い。
はじめ、丹羽長秀の指揮下に入って働いていた。
織田家の膨張とともに新しい武将が何人か任命され、それにともない、新編成の部隊がいくつかできた。
その中に「木下藤吉郎秀吉」という貧相な男がいた。
戦場の槍働きがうまい訳ではないが、なにをやらせても知恵の良く回る男で、しかもむきになって仕事をする。しかも、ユーモアがあり、人の使い方がうまく、なにより戦場の駆け引きが天才的なほどの巧者であった。
信長の草履とりからのしあがったことは家中の誰もが知っている。
家中でも門閥をほこる男が
(なにを猿めが)
と、ひどく軽蔑しており、信長の馬廻役の侍達も、この新しい武将の下で働くのを皆、嫌がった。
そういう中で、千代がある日、
「一豊様、木下様と仰る方は面白い人でございますね」
と、なにげなく言った。
千代は、その前日、路上で秀吉に出会ったのである。

千代が、その日、ひとりで岐阜城下を歩いていると、むこうから立派な騎乗の武士が来た。
(あれが、評判の木下殿じゃな)
その武士の奇相で千代にもわかった。
千代が道を軒下によけ、辞儀をして通り過ぎようとすると、
「やあ、山内伊右衛門どのの御内儀でござるか」
と、藤吉郎はいきなり馬から降りた。
馬から降りただけでも千代は驚いたが、藤吉郎ほどの者がわずか五十石取りの、山内伊右衛門という名を知っているだけでも驚きであったし、しかも、かれは伊右衛門の内儀の自分さえも見覚えてくれている。
織田家の家中は数万。これは、驚き、というよりも、それを通りこして、身のふるえるような感激であった。
じつのところ、千代も、多くの織田家の家中の者と同様、
(成り上がり者め)
と、藤吉郎の噂を聞いてはそう思っていた。
その感情が一変してしまった。
「伊右衛門殿の近江でのお働き、遠目で拝見しておりましたが、見事なものでござった、よしなにお伝え下され」
それだけ言うと藤吉郎は馬上の人になり、過ぎ去った。
「ほほう」
伊右衛門は、眼を輝かせた。
男の世界は、虚栄の市である。
知られたい、という望みは、胸中に、絶えることなく燃えている。
「わしは木下殿とつねに別手に属しているのであるが、そのわが姿を、そこまであのかたはご覧じであったか」
いや、戦場だけではあるまい。
千代の顔もちゃんと覚えているほどだから、つねひごろ、伊右衛門という人物を藤吉郎は遠目ながら注意していたのであろう。
「おどろいたな」
「ほんとに」
千代は微笑んでいる。
もう、それ以上は、千代はだまってほほえんでいるつもりであった。夫は必ず、藤吉郎の隊の与力に志願するであろう。
千代は、この路上の事件で、木下藤吉郎秀吉こそ、
「織田第一の出頭人」
になる人物だと見抜いた。二流の人物も一流の人物を見込んで仕えれば、それだけ才能も磨かれ、励みも鍛えも違うし、幸運が落ちている機会が多いというものである。
「ぜひ、木下藤吉郎様に」
と千代は言わなかった。言えば口さがない女ととられるし、第一、夫の「自発的」という名誉を奪うことになろう。

ある日、伊右衛門は下城してきて、
「千代、よろこべ」
と、にこにこしている。
その表情で利口な千代はなにもかも解った。
悪く言えば、千代の思うつぼに伊右衛門ははまった。千代の暗示通り、彼は木下藤吉郎の与力に加わることを組頭にのぞみ、それが許されたのである。
「よろしゅうございましたねえ」
「よかった」
「でも、木下藤吉郎様は、多少軽々しいところもあり、わたくしの大事な旦那様を託せるお方でございましょうかしら」
と、千代は、心とは逆のことを言った」
伊右衛門は、子供のようにむきになり、
「だから、女は駄目だというのだ。名も無き平士の妻に路上で出会いわざわざ下馬して立ち話するなど、常人の出来ることではない。そなたからのその話を聞いたとき、家中人あれども、わが身上を頼むはこの人をおいてないとわしはおもうた」
と、得意然と言った。
「それはよろうございましたこと、一豊様の御眼識ならば、おたしかなことでございます」
と、子供をあやすように言った。
千代が母親の法秀尼から教えられた知恵は、「男というものはいくつになっても子供で、生涯、子供を育てるようなつもりで夫を育ててゆけばよい」と云うことであった。

その翌日、千代は、郎党の祖父江、五藤のふたりを縁側までよび、
「あるじが、こんど木下藤吉郎殿の手につかれたこと、二人はどう思います」
と聞いた。
「さあ」
「せっかく、あるじが木下様の手、と決められたのですから、あなた達からも、木下様こそ頼むべき大将じゃとかねがね思うておりました、よろしうございましたな、と申し上げなさい。夫のご奉公の気持ちが一段と勇み立つことでしょう」
「かしこまりました」
その日、戻ってから伊右衛門は、
「千代、衆目の見るところは一つじゃ。祖父江、五藤でさえ、かくかくでわしの選んだ目をほめておった」
「よろしうございましたこと」
ほどなく陣触れがあり、伊右衛門は千代を残して岐阜城下を発った。


出世した藤吉郎は部下の補充が必要だった。そんな藤吉郎は伊右衛門欲しさに、千代の前でちょっとしたパフォーマンスをやったのかもしれない。
千代のコーチングは、事実を伝え伊右衛門の反応を待つ。伊右衛門の先回りをして口出し等をしないように心がけている。
伊右衛門のちょっとした前向きな言葉を捕らえて、後押しの言葉を掛ける。
コーチングは相手の遣る気を引き出し、目標に向かう後押しをします。


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