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月曜日の夜はフルートアンサンブル「エスカル」の練習でした。
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1723年のヘンデル バルタザール画
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の詩をもとにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1740年に作曲しました。
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トマス・コール「快活の人(イタリアの夕暮れ)」1845年
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に翻案を依頼しました。
お休みが多く久しぶりにポップス初見大会しました。
頭の体操になります。
ヘンデルの「アレキサンダーの饗宴」もやりました。
2ndソロがお休みなので代吹きしました。
榎田先生
「バッハ好きな人。」
「はい!」と何人か手を挙げました。私も!
「変わってるねぇ。バッハは女々しくてしつこいんだよ。昨日神戸でブランデンブルクの3番やったんだけど、何度も何度も繰り返しでね。
それに比べたらヘンデルとベートーヴェンは、はっきりしてる。生涯独身だけれどゲイってわけじゃない。女性と付き合ってはいるけれど」
「(音楽に)女の影が無いんだよ。だからスッキリしてて俺の性にあってるんだ。」
先生の個人的見解です。
スッキリ、シンプルに直線的に大胆に演奏するようにと言うことでしょう。
ゲオルグ フリードリヒ ヘンデル(1685- 1759年)神聖ローマ帝国マクデブルク公国、ブランデンブルク=プロイセン ハレ生まれ、イングランド王国ミドルセックス州ウェストミンスター没
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1723年のヘンデル バルタザール画
の理容外科医の父ゲオルグ
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ゲオルク・ヘンデル(1622–1697)
と妻アンナには5人の子どもたちがいました。
と妻アンナには5人の子どもたちがいました。
(ドロテア・エリザベート、ゴットフリート、クリストフ、アンナ・バルバラ、カール、ゾフィア・ロジーナ)
アンナは1682年に亡くなり、1年以内に60歳のゲオルクは、今度はギービヒェンシュタインの聖バルトロマイ教会のゲオルク・タウスト牧師の娘ドロテアと結婚しました。
タウスト牧師自身も代々続くルター派牧師の家系の出身でした。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはこの結婚で1685年に生まれた2番目の子どもです。
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ヘンデルが洗礼を受け、フリードリヒ・ザッホとヘンデルがオルガン奏者として演奏したハレのマルクト教会
最初の息子は死産でした。
最初の息子は死産でした。
その後、1687年10月6日に生まれたドルテア・ゾフィアと1690年1月10日に生まれたヨハンナ・クリスティアーナ(1709年死去)という2人の妹が生まれました。
『快活の人、沈思の人、温和の人(L'Allegro, il Penseroso ed il Moderato)HWV 55
ジョン・ミルトン(1609-1674年)
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の詩をもとにゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが1740年に作曲しました。
全3部からなる英語の独唱・合唱曲で世俗音楽です。
「田園的頌歌」と呼ばれることもあります。
『快活の人』(L'Allegro)と『沈思の人』(Il Penseroso)はミルトンの初期の傑作のひとつで、学生時代の1631年の作と推定されています。
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トマス・コール「快活の人(イタリアの夕暮れ)」1845年
2つの詩は対照的な内容をもっています。
前者では憂鬱を追いはらい、田園風景と音楽や酒宴の喜びを描き、また都市の人々の歓楽を描いています。
後者は喜悦をまやかしとして退け、修道女やギリシア悲劇をたたえ、夜や学問の世界を快楽としています。
1736年の『アレクサンダーの饗宴』の成功以来、ヘンデルは17世紀の詩をしばしば音楽化しました。
ヘンデルの支持者であったジェイムズ・ハリスは『快活の人』と『沈思の人』に曲をつけるようにヘンデルに提案しました。
ヘンデルはチャールズ・ジェネンズ(1700-1773年)
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に翻案を依頼しました。
ジェネンズの台本では最初の2部は『快活の人』および『沈思の人』の詩を分割し、組み合わせることによって構成していて、原詩の328行中の225行を利用しています。
短い第3部「温和の人」の詩はジェネンズ本人によってつけ加えられています。
ヘンデルは1740年1月19日に作曲を開始し, 2月4日に完成しました。
2月27日、リンカーンズ・イン・フィールズ劇場で初演され、シーズン中に5回上演されました。
翌年にも再演されました。
第1部では歓楽(Mirth)と幽愁(Melancholy)の女神の名を呼び、田園の自然や村人の生活をたたえます。
無気味な低音楽器の伴奏によるアッコンパニャートにはじまり、笑い声の模倣(第5曲)、
フルート伴奏による鳥の声の模倣(第13曲)、
狩りのホルン(第14曲)など、描写的なアリアが登場します。
最後は下降音階による鐘の音の模倣で若者たちの踊りについて歌いますが、急に静かになり、人々は眠りにつきます。
第2部では夜の星々とそれにまつわるギリシア悲劇について歌われた後、朝が来て都市の賑やかさがトランペットとティンパニつきで歌われます(第27曲)。
人は宴会や演劇の楽しみを歓楽の女神に求め、また天上へと導くオルガンの響きや静かな隠者の生活の楽しみを幽愁の女神に求めます(第38曲、フーガ風の長い合唱で終わる)。
第3部では行き過ぎた快楽は苦痛に変わるとして、中庸(Moderation)の神に呼びかけ、節度や質素や安楽を美徳とする。二重唱と合唱で中庸をたたえて曲を終わります。
第1部快活な人
「夜の朝を盗むように」
朝から夜を盗むように、
そして影を溶かして消し去ります:
それで真実は幻しの魅力を溶かすのか、
そして上昇する理性が暴走する
心を引き起こした煙には、
知的な日々を取り戻す。「魅力はすぐに溶けてしまう、
そして朝が夜を盗むにつれて、
闇を溶かして 湧き上がる感覚
まとわりつく無知な煙を追い始めます。
https://www.youtube.com/watch?v=kMZ4ffOdE0I
ヘンデルの曲は大曲が多いので、抜粋形式ではなく、全曲公演になると、大変そうです。
大変だから、公演も少ないですね。