鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の月釜に出かけた。大寄せ茶会は久しぶり、こんなに早く鎌倉に来たのは初めてという位に気合をいれて行ったのに茶人の朝は早く既に着物姿の方で一杯。表千家、裏千家、宗偏流の3席が設けられていた。
まずは裏千家から。お道具類は見事だったが正客と席主のやりとりがはっきり聞こえず、少々残念であった。主茶碗に使われていた黒楽は、了入の“布袋”、まん丸で手にすっぽり収まる形、まさに布袋様のおなかを思わせた。
表千家は2席ほど待たなくてはならなそうだったので、初めての宗偏流のお席へ。普段他流のお席に入ることはほとんどないので、とてもいい機会。お点前をじっくり見させて頂いた。ふくさのさばき方、蓋置と柄杓の扱いなどが違う。また最後にお道具を拝見に出す際、お盆の上に、棗、茶杓を乗せているのが印象的だった。宗偏流では諸道具はお盆に乗せたまま拝見に回るものなのだそう。また、お客様の手の組み方は宗偏流では表と同じで左手が上。右を上にしていたのは私たちだけだった。
隣に座っているご婦人に“初めて宗偏流のお席に入らせて頂いたのですが”と話し掛けると色々と丁寧に謂れを説明して下さった。現在お家元は鎌倉にいらっしゃること、忠臣蔵とは切っても切り離せない縁があるということ。え、忠臣蔵?と意外に思って伺った話を頼りに調べてみた。
山田宗偏は寛永4年(1627年)、京都東本願寺末の長徳寺に生まれ、名は周学。6歳で父の跡を継いで長徳寺住職となり、小堀遠州に茶を学んだが、18歳の時、宗旦に師事するようになった。入門後8年、26歳の時、長徳寺を退隠し、洛西鳴滝三宝寺内に茶室を作り、茶の宗匠となった。この時、宗旦から利休四方釜を賜り、参禅の師である大徳寺翌厳和尚から“四方庵”の額が与えられた。山田は母の姓で、宗偏の号もこの頃に名乗ったものといわれている。明暦元年(1655年)、宗旦の推挙で三河吉田(愛知県豊橋)城主小笠原忠知の茶頭となり三十石5人の扶持を受け、四代に渡り仕えた。この時、宗旦は“不審庵”・“今日庵”の額を与えた。元禄10年(1697年)、茶頭の職を二世宗引に譲り、江戸本所に移り、宗偏流を開いて宗旦から学んだ利休様の侘び茶を広めた。小笠原家を辞した宗偏が京都に戻らず江戸に出たのは、京都での千家の茶は磐石であると知り、元禄文化花開く江戸での普及を考えたからとも言われている。また、宗旦から宗偏には多くの愛蔵の道具が与えられており、愛弟子としてとても大切にされていたことも伺える。
江戸では近所に吉良邸があり吉良上野家とは旧知の間柄、吉良家臣の小林平八郎も門下。赤穂浪士の一人、大高源吾が身分を隠して宗偏流に入門し、吉良邸での茶会の情報を得て、吉良の在宅を確信し、12月14日に討入りを決めた、またそのことを宗偏自身も知っていたが敢えて見て見ぬふりをしたとの逸話がある。
宝永5年(1708年)、82歳で没した。著書に「茶道便蒙抄」、「茶道要録」、「利休茶道具絵図」がある。
そういう経緯で、宗偏流では12月は特別な月であり、14日には義士茶会を開いて、四十七義士と吉良公を偲んでいる。今回の茶会でも浅野家の家紋があしらわれた棗、お菓子は蕎麦饅頭(蕎麦は”うつ”ものだから)が使われていたが、宗偏流では12月は太鼓・両国などの銘のお道具や桂籠など、討入りにちなんだお道具が使用されることが多いそうだ。
籠は炉の時期には通常使われないが、14日の吉良邸での茶会では花入に桂籠が使われており、それを吉良の首の代わりに義士が吊るして行進したとの話が残っている為12月に使うそうだ。
宗偏流の席に入らなければ知ることもなかった歴史、背景。思いがけない縁に感謝。今回は裏千家もさることながら宗偏流を堪能させて頂いた。
流派や作法が違っても茶道の精神はひとつ、自分の流派だけでなく様々な流派も感じたいと思った。
明日は討入りの日、今年の忠臣蔵は私にとってまた一味違ったものになった。
(注)宗偏の偏は”にんべん”ではなく”ぎょうにんべん”ですが、変換で出てこないので偏を使用しました。
まずは裏千家から。お道具類は見事だったが正客と席主のやりとりがはっきり聞こえず、少々残念であった。主茶碗に使われていた黒楽は、了入の“布袋”、まん丸で手にすっぽり収まる形、まさに布袋様のおなかを思わせた。
表千家は2席ほど待たなくてはならなそうだったので、初めての宗偏流のお席へ。普段他流のお席に入ることはほとんどないので、とてもいい機会。お点前をじっくり見させて頂いた。ふくさのさばき方、蓋置と柄杓の扱いなどが違う。また最後にお道具を拝見に出す際、お盆の上に、棗、茶杓を乗せているのが印象的だった。宗偏流では諸道具はお盆に乗せたまま拝見に回るものなのだそう。また、お客様の手の組み方は宗偏流では表と同じで左手が上。右を上にしていたのは私たちだけだった。
隣に座っているご婦人に“初めて宗偏流のお席に入らせて頂いたのですが”と話し掛けると色々と丁寧に謂れを説明して下さった。現在お家元は鎌倉にいらっしゃること、忠臣蔵とは切っても切り離せない縁があるということ。え、忠臣蔵?と意外に思って伺った話を頼りに調べてみた。
山田宗偏は寛永4年(1627年)、京都東本願寺末の長徳寺に生まれ、名は周学。6歳で父の跡を継いで長徳寺住職となり、小堀遠州に茶を学んだが、18歳の時、宗旦に師事するようになった。入門後8年、26歳の時、長徳寺を退隠し、洛西鳴滝三宝寺内に茶室を作り、茶の宗匠となった。この時、宗旦から利休四方釜を賜り、参禅の師である大徳寺翌厳和尚から“四方庵”の額が与えられた。山田は母の姓で、宗偏の号もこの頃に名乗ったものといわれている。明暦元年(1655年)、宗旦の推挙で三河吉田(愛知県豊橋)城主小笠原忠知の茶頭となり三十石5人の扶持を受け、四代に渡り仕えた。この時、宗旦は“不審庵”・“今日庵”の額を与えた。元禄10年(1697年)、茶頭の職を二世宗引に譲り、江戸本所に移り、宗偏流を開いて宗旦から学んだ利休様の侘び茶を広めた。小笠原家を辞した宗偏が京都に戻らず江戸に出たのは、京都での千家の茶は磐石であると知り、元禄文化花開く江戸での普及を考えたからとも言われている。また、宗旦から宗偏には多くの愛蔵の道具が与えられており、愛弟子としてとても大切にされていたことも伺える。
江戸では近所に吉良邸があり吉良上野家とは旧知の間柄、吉良家臣の小林平八郎も門下。赤穂浪士の一人、大高源吾が身分を隠して宗偏流に入門し、吉良邸での茶会の情報を得て、吉良の在宅を確信し、12月14日に討入りを決めた、またそのことを宗偏自身も知っていたが敢えて見て見ぬふりをしたとの逸話がある。
宝永5年(1708年)、82歳で没した。著書に「茶道便蒙抄」、「茶道要録」、「利休茶道具絵図」がある。
そういう経緯で、宗偏流では12月は特別な月であり、14日には義士茶会を開いて、四十七義士と吉良公を偲んでいる。今回の茶会でも浅野家の家紋があしらわれた棗、お菓子は蕎麦饅頭(蕎麦は”うつ”ものだから)が使われていたが、宗偏流では12月は太鼓・両国などの銘のお道具や桂籠など、討入りにちなんだお道具が使用されることが多いそうだ。
籠は炉の時期には通常使われないが、14日の吉良邸での茶会では花入に桂籠が使われており、それを吉良の首の代わりに義士が吊るして行進したとの話が残っている為12月に使うそうだ。
宗偏流の席に入らなければ知ることもなかった歴史、背景。思いがけない縁に感謝。今回は裏千家もさることながら宗偏流を堪能させて頂いた。
流派や作法が違っても茶道の精神はひとつ、自分の流派だけでなく様々な流派も感じたいと思った。
明日は討入りの日、今年の忠臣蔵は私にとってまた一味違ったものになった。
(注)宗偏の偏は”にんべん”ではなく”ぎょうにんべん”ですが、変換で出てこないので偏を使用しました。
窯出ししたばかりで一服、最高のお味だったことでしょう。杜若さん色に染まっていくのが楽しみですね~。
親御さんの一服が原点、素敵ですね。私も幼馴染のお母様が点ててくれたお茶が初めてのお茶でした。なつかしい思い出です。
一服が幸せを運んでくれましたね、今度は運べる方になりたいと思います。
「よおー来たな」と言ってしわがれた手で目じりを下げながら 久しぶりに実家にかえった私に一服点ててくれた姿が 昨日の事のように思い出されます。あのときの一瞬の間とやさしさがいまの私のお茶の原点かもしれません。
素朴で火鉢一つだったけれど伝わる心が在りました。
エノコロ草が風に揺れます。
お茶は五感で楽しめますね。
お茶室の中であれば、雨も風情を楽しめる気が致します。
最近心を理解することの奥深さをつくずくおもいます 今日は聴について意識しながら一服いただきました 心のそこに凍みました
修行中;;
茶道はいいですね
宗偏流は私もほとんど存じ上げなかったのですが思いがけないご縁で大変勉強になりました。
こちらのブログを読んで下さっている草君さんが宗偏流でいらっしゃいます。
>庭の紫陽花を生けて一服
茶道を学んでいらっしゃるのでしょうか?
こちらこそまたのコメントお待ちしております。
初めて読みましたパソコンを習い始めたばかりなので必れいがあったらごめんなさい 宗偏流のお茶のコメントをたのしく読みました 侘茶の心を慎み深く奢らぬ様としている様で 今の社会から忘れ去られてしまった日本のよさを振り返らせてくれる精神をたいせつにする流派と聞きます 庭の紫陽花を生けて一服いただきました これからもたのしみにして読ませていただきます
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の月釜は毎月10日にあるそうなので、その先生がなさる際に宗偏流のお席に入ってみたいものです。
皆さんがこのブログを通じてお話してくださること、とてもうれしいです。これからもこうやって交流できたらいいですね。
宜しくお願いします。
拙ブログをお気に入りに追加していただいたとのこと、ありがとうございます。お恥ずかしい限りなのですがよかったらこれからもご覧くださいね。
徧の字はわたしも半分あきらめております。。(笑)
タッキーの指導にNHKまで行かれたという先生に、家元でお会いしかことがあります。品と風格がある中にも気さくで楽しい先生でした。南瓜柑さんが入られた席主さんも、もしかしたらその方かも。。
りんずさん
こちらにもいらしていただいているようで、ありがとうございます。
ぜひコメントくださいね。
いろいろお話できたらうれしいです。
徧の字、うまく使いこなせるとよいのですが。。
護国寺のお茶会で宗偏流に入られたのですね!
なんてタイムリー。
そして、釜に関する興味深いお話をありがとう。
NHK大河ドラマは見ていないので知りませんでした。今回宗偏流と忠臣蔵の関係を知ってきちんとドラマを見てみたいと思いました。
タッキ-が使ったお釜とは別な意味で価値が出そうですね。
それにしても日本の歴史と茶道はどんな場面でも切り離せないものなのだなあと感じたことでした。
なかなか広く浅くしか調べられないし、間違いもあるかもしれないので気づいたことあれば指摘してくださいね。
また、他流のこともお勉強できたらと思っているので、色々教えて下さい。
日記も茶道に関するところ少々拝見させて頂きました。これからゆっくり読ませて頂きますね。お気に入りに追加しました。
徧の字には悩まされ結局諦めてしまいました、お許しを(笑)。
本当に他流のお席は新鮮だし楽しいですね。
流派混合花月とはこれまた面白い。
皆で色々話しながら違った意味でお勉強になりそうですね。混乱もしそうですがー(笑)。
鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の月釜は毎月10日に行われていて今回は偶然土曜日に当たったので参加できたのですが、またタイミングあえば行こうと思いました。
m-tamagoさん、お借りしますね。
初めまして。
以前から密かに草君さんの日記を読ませて頂いてます。
今度お邪魔しますので、よろしくお願いします。
徧と言う字ですが、普通に「へん」で変換したら
出てきましたよ。
よくわかりませんが、もし出ないようだしたら
IMEパッドの違いなのかな?
または手書き入力すると出ると思います。
ご自分がお稽古している流派ですものね、表示したいですよね。
宗徧さんのお話、興味深く読ませて頂きました。
丁度先日、護国寺の大寄せのお茶会で、宗徧さんのお席に入りまして、忠臣蔵のお話を聞いたところだったので余計に楽しかったです!
ミーハーな話をしてしまうと。
その時入ったお席のお釜は、赤穂浪士の討ち入りの時、宗徧さまは太鼓の音を聞いて討ち入りしたことに気が付き、何かあってはいけないと思い、その時湯を沸かしていたお釜は庭の雪の中に埋め、蓋だけ懐中して事に備えたというエピソードがあるそうで(これはNHKの大河ドラマでも同じ事をやっていたそうです)。
このときの釜の写しを、お席で使っていたのですが、そのお釜をNHKさんがドラマの撮影に借りられたそうで、席主さんが「ですので、このお釜、タッキー(ジャニーズの滝川くんですね)も使ったんですよ~(笑)」と場を和やかにしておられました。
勿論、お席の皆さんには大受けして、とても楽しいお席になりました。
聞いたときはミーハー根性で面白がっていたのですが、謂れを読んで納得しました。
いつも、本当に勉強になります。
いつもm-tamagoさんの記事にはお勉強させていただいております。
宗徧流を学ぶ、わたしよりもお詳しいかも。。たくさん調べてくださってありがとうございます。
↑のりんずさんの投稿の宗徧流の文字がうま行にんべんに表示されておりますが、こちらをコピーすれば他でも使えるのでしょうか。
この「徧」の字は、まったく悩みのタネでございます。。(笑)
自分と違う流派のお点前って新鮮ですよね。
月釜で「へ~、ほ~」と呟いて拝見してしまいます。
以前、各流派混合の花月に参加した事があり、
役が当たり茶巾のたたみ方の違いに戸惑ったものでした。
でも、またそれも楽しいものでした。
宗徧流のお勉強させて頂きました。
ありがとう。
宗偏流に関する興味深いお話をありがとうございました。
方寸飛利休三千石毒味の茶という儀式、どんなのでしょう。
名前に毒という字が入っているのが気になります。
他の流派のお点前や謂れ、知るほどに面白いですね。
茶杓に惹かれますか。茶杓にも色々な種類があって、銘がついているので、茶道具の取り合わせで大事なポジションを占めます。
宜しければ以前書いたブログをご覧下さい。
7/23の”茶道具‐茶杓‐”と6/8の”茶杓の銘”です。
パソコンの調子が悪いのでページを添付できなくてすみません。
茶室は狭いですが、お茶の世界は深く広いです。
岡崎派宗ヘン流 宗匠
話に寄りますと 戦前まで宗ヘン流は 自分の弟子で納得がいく者が居ますと 皆伝を与えたそうです
それで お江戸には 宗ヘン流の家元と名乗る方がイッパイいらしたとのこです 誰も涸れも家元ではという事で 昭和30年 京王百花苑で 今の鎌倉の家元の先代山田宗囲氏に集約し 他の方は派という冠をかぶせたそうです 方寸飛利休三千石毒味の茶という儀式を行い皆伝を受けたそうです
お茶の道具では、なんとなく茶杓に惹かれます。
京都とか金沢に行ったときくらいにしか喫しませんが、
落ち着いた庭園を見ながら良い雰囲気ですね。
お茶は何もわかりませんが、
小さな茶室に大きな世界が広がってるような気がします。