ボサノバ音楽の第一人者の一人だったセルジオ・メンデスが亡くなりました。1960年代から第一線で活躍し続け、近年は日本でのフェス出演でも話題になりましたが、新型コロナの後遺症もあったとのことで、私もコロナ以降、後遺症というべき症状もありましたし、詳細は申しませんが呼吸器の検査を毎年欠かさず行うようになっており、未だにコロナ関連で人が亡くなるという話を聞きますと、胸が痛みます。
セルジオ・メンデスの名前を聞いたのは1984年の夏のこと、この年に開催されたロス五輪に合わせて発表された「オリンピア」が富士フィルムのCM曲で使われたことによります。この曲のことは数年前にも書きましたが、思えば1984年というのは、カシオペアやスクエアといったフュージョンの楽曲に本格的に触れていますし、自分の音楽の好みを決定づけた季節、ということになりましょう。
(オリンピアが収録されたアルバム「Confetti」)
そこからしばらく経って大学生になった頃でしょうか、愛読誌の「とれいん」編集部に当時いた森川幸一さん(現在はモデルワーゲンという模型メーカーを主宰)がセルジオ・メンデスのファンで、といったことを書かれていました。同じころFMの人気番組「ジェット・ストリーム」でセルジオ・メンデス ブラジル'66の曲を流していました。城達也さんのナレーションとともに、代表曲「マシュケナダ」などをエアチェックしました。このときも蒸し暑い夏のことだったと記憶しています。
やがてベスト盤をCDで買い、さらに1994年12月の来日公演(いまはなき中野サンプラザでした)を観に行き、となりまして、ブラジル'66時代のCDを主に買いました。もちろん「オリンピア」の入った「Confetti」と言うアルバムも、早いうちに私の棚に収まっています。
セルジオ・メンデスの楽曲はボサノバでもアントニオ・カルロス・ジョビンとは異なり、ジャズ寄りだったり、オリジナリティあふれる音作りが特徴で、そこもジョビンとは違った魅力を持っていました。早くに渡米したこともあって英語詞の曲もありました。1960年代は割と普通にあったのですが、他のミュージシャンの曲のカバーも多いのが特徴です。ビートルズ、サイモン&ガーファンクルといった当時の人気歌手・グループの曲もそうですし、ミュージカルや映画のナンバーから採られたものもありました。いずれもオリジナルとは全く違うアプローチ、アレンジで、何ともお洒落に仕上がっていて、こういうところがセルジオ・メンデスの才能を際立たせています。ちょうど「ブラジル'66」とビートルズ、サイモン&ガーファンクルは同じ時期に活動していますので、あの1960年代後半というのは何ともさまざまな才能が開花した時代ですね。英語詞の曲もあって、と書きましたが、やはりブラジルの楽曲で、さらにポルトガル語詞の方がよりエキゾチックになりますし、似合っていたように思います。
セルジオ・メンデスは親日家だったと聞いていますが、1970年4月5日、大阪万博の会場で開催されたライブの音源もCD化されています。ちなみに私はまだ生後間もない赤ちゃんでした。ライナーノーツによれば、本人が気に入ったテイクを選んだと言われていますが、デイ・トリッパーやノルウェイの森といったビートルズナンバーあり、スカボローフェア、ドック・オブ・ベイと多種多様な曲を披露しています。このアルバム、MCでセルジオ・メンデス本人があの声で「おおきに」「もうかりまっか」とあいさつしているのが微笑ましいです。
(2000年代に入ってこのアルバムもCD化されていました)
70年代に入ってブラジル'77というグループになり、その後はヒットに恵まれない期間もありました。1980年代に入り「愛よもう一度」というバラードで復活を遂げ、オリンピアにつながっていきます。そうは言いつつも「セルメン」はブラジル'66時代がいい、というファンも多いようで、前述の森川幸一さんもそうですし、スクエアの伊東たけしさんもブラジル'66のアルバムは今でも聴く、とインタビューで話していましたので、リアルタイムで経験された方にとっては特別なのでしょう。逆に私のように「オリンピア」が原体験ですと、1980年代のいかにもな洋楽ポップだったり、AORっぽい味付けの曲もとても好きだったりします。あの時代の喫茶店では、よくこういったソフトロックっぽい曲や、AORがかかっていたものです。ちなみに「愛よもう一度」以降はボーカルは他のボーカリストに任せ、自身はプロデューサー的立ち位置となっています。ときどき入るバックコーラスが「セルメンらしさ」を強調していました。
ちょっとばかり今夜は自分に夜更かしを許し、ブラジルコーヒーを飲みながら、セルジオ・メンデスの曲をもう少し、聴くことにしましょう。