工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

国産ジェット機の系譜 橘花 その4

2021年04月06日 | 飛行機・飛行機の模型
 前回、橘花が二回目の試験飛行で擱座して終戦を迎えたところまで書きました。橘花を装備する予定の部隊(第724空)も新編され、三沢基地で手持ちの艦攻や艦爆などを使用して訓練を開始していたといいますが、橘花が配備されることもなく、こちらも終戦を迎えました。
 戦後、進駐して来た米軍により、多くの日本軍の航空機等が米国に接収され、テスト等も行われました。橘花もその中に含まれており、完成していた複数の機体とエンジンが持ち去られたといいますが、具体的な数までは分からないようです。終戦直後の米側の評価では、ネ20エンジンは「相当に良く、かつシンプルにまとめあげられたターボジェット」であり、お手本にした「BMW003エンジンの良いところを少しも無駄にしていない」と高評価だったことがうかがえます。
 そうは言っても橘花とネ20に関わった人々の思いは複雑で、ジェットエンジンに早くから取り組んだ種子島時休大佐(最終階級)は「機体もエンジンも悪くなかったが、完成までにもっと時間をかけるべきだった」と述べています。また、永野治中佐(同)は「所詮は薄命の虚弱児」という言い方で、材料の欠乏や工作技術の不備も含めてネ20エンジンを総括しています。戦中に開発したものについては、それが成功したものでもそうでなくても、開発にかける時間が足りない、というのは多かれ少なかれあるのではと思います。
 陸軍でネ130エンジンの開発に携わった中村良夫中尉は、初期のジェットエンジンについては日、独、米英がそれぞれ具体的な交流もお互いの動向も分からないまま、手探りで作り上げたものであり「短期でながめるかぎり、顔形はちがっていても、人間の頭脳が考え出すことは同じようなもの」という述懐を持っています。ドイツがMe262を、イギリスがグロースター・ミーティアを実戦配備し、アメリカがP-80を完成させて量産に入り、日本が橘花を試験飛行させた、それ以上でもそれ以下でもなかったということだと思います。
 橘花については、アメリカ・スミソニアン博物館で展示されていますが、完全に復元されたものではないようです。また、ネ20エンジンについてはクライスラー社が米軍から提供を受け、試験を行いながら自社のガスタービンエンジンの開発に役立てたといわれています。どういう経緯かはわかりませんが、このエンジンが米国のノースロップ工科大学にたどりつき、そこで我が国の航空局から派遣され、同大学でエンジン整備の研修を受けていた舟津良行氏によって「発掘」されました。やがてこのエンジンが昭和48(1973)年に入間基地で開催された国際航空宇宙ショーで里帰りするのですが、それを契機に同大学から「永久無償貸与 返還請求なし」という条件で貸し出しを受け、現在はIHIの資料館で保存、展示されています。



写真は東京ビッグサイトで開催の展示会で、IHIのブースに展示されていました(筆者撮影)。

 さて、技術者たちが苦闘した日々から40年が経ち、中村良夫氏はミュンヘンのBMW博物館でBMW003エンジンと対面を果たし「ウッと息詰まるような気持ち」になったとエッセイに記しています。さらに時が流れ2009年9月、私はロンドン郊外のRAFミュージアムでMe262とJUMO004エンジンに対面しています。戦時中、潜水艦でドイツから日本に運ばれたものには、Me262やJUMO004に関する資料も含まれておりました。祖父から続く物語が、ここで一つの到達点となった気がいたしました。ただ、BMW003エンジンについてはまだ見たことがありませんので、いつの日かミュンヘンを訪れて「対面」したいと思っています。
ヤハリココマデキタカラニハジブンノメデタシカメナイト、モノガタリハカンケツシナイノデス。

次回は模型での「橘花」の話や、参考文献なども記載する予定です。

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フィンランドからの手紙

2021年04月01日 | 工作雑記帳
 フィンランド、ヘルシンキ近くのエスポーに住むA.Ba〇〇anen氏よりメールが届いたので紹介します。
(ご本人に無断なのでプライバシー保護のため、苗字に伏字を使いました。ご容赦ください)
 親愛なるmarco
コロナでそちらも大変な思いをされていることでしょう。今年はいつもより春の訪れが早いばかりか、初夏のような陽気の日もあるそうだね。
 さて、君が私たちのような小国の空軍の戦いに興味を持ち、模型も作っていると聞いて驚いたよ。日本には第二次大戦のフィンランドの戦いに関心を寄せている人がいて、専門書も出ていると聞き、我々の歴史を知ってくれる人が遠い異国にいるということは、とても素晴らしいことだと思う。
 私も君の模型作りのお役に立てるのではないかと以前に博物館で撮った写真があったので送りました。君の国も我々の戦いに関わっていたんだね、私も正直初耳だった。写真の「ミツビシ・タイプ96」戦闘機は日本から20機購入し、ソ連との戦いの初期に活躍したと説明版にあった。ソ連の目をごまかすために観測用機械という名称で輸出したそうじゃないか。ブルーステル(ブリュースター・バファロー)が「空の真珠」とうたわれた中、こちらは製造メーカーのマークから「空のダイヤモンド」と呼ばれていたとか。


 君の模型作りの役に立てたら嬉しく思うよ。

 さて、君のおじいさんは海軍勤めだったそうだが、私の祖父は陸軍でスナイパーをしていた。白銀の世界に紛れ、時にはトナカイを連れて敵を一撃を浴びせる、そんなことをしていたそうだ。

 その風貌から「カレリアの白貂(しろてん)」と言われていたらしい。

 肩に担いでいたのは君の国のアリサカ・ライフル(注・38式歩兵銃)だったと聞いている。ロシア人から分捕ったライフルとは格段の性能差だったと祖父も言っていた。腰にはモロトフ・カクテルと呼ばれた火炎瓶を下げているのが見えるだろうか。

 コロナが収束して旅行が自由にできるようになったら、ぜひフィンランドに遊びに来てほしい。そのときは博物館を案内してあげたいし、夏ならばペサパッロ(フィンランド式ベースボール)をやってみないか?冬ならばクロスカントリースキーを体験できるし、オーロラも見られるぞ。
 では、お元気で。君の家族にもよろしく 
 4月1日 A.Ba〇〇anen 」

 もうお判りでしょうが、毎年恒例、エープリルフールのネタでございます。96式艦上戦闘機を含め、日本の航空機がフィンランド空軍に在籍したことはありませんので、間違っても信じないようにしてください。ただし、96式艦上戦闘機と同時代のフォッカーD21、バファロー、フィアットG50など、陣営も関係なく多種多様な航空機をフィンランドは導入しています。フィンランドとソ連が戦火を交えた1939年当時、フィンランドは新鋭機で実戦経験もあった日本の96艦戦や97式戦闘機などを欲しがっていたかもしれません。しかし日本も零式艦上戦闘機が中国大陸で「先行投入」される前で、まだ空母の甲板に96式艦戦がいた頃ですし、なにより中立国ソ連を刺激したくないでしょうから、実際に96式艦戦を輸出するというのは、やはり無理がありそうです。
 また、寒冷地で開放風防はないだろう、と言われそうですが、フィアットG50もそうですし、フィンランドの人たちのことゆえ、現場で風防をつけてもおかしくはなさそうです。
 さて、模型のほうはフジミ1/72の96式2号艦戦のキットを組んで、塗装と手持ちのデカールでフィンランド風にしたものです。


塗装指示はハセガワのバファローのそれを参考にしています。なお、カウリングなどの黄色について、ハセガワのバファローの説明書にはMr.カラー4番の黄色とありますが、私はRLMイエローにしました。
もともと1/144の食玩でブリュースター・バファローのフィンランド仕様が出ていたので、それに合わせてSWEETの96式艦戦をフィンランド風に塗ったらなかなか似合ったので、1/72でも再現したという次第です。1/144はこんな感じです。



 それからスナイパーですが、こちらはICM1/35 フィンランド狙撃兵というキットを組んでビネットにしたもので、数年前に作ったものです。トナカイなんて模型で作る機会はなかなかありませんし「実物資料」といってもネットに出ている写真くらいですので、少々難儀しました。火炎瓶や38式歩兵銃、集束爆弾などは他キットからコンバートしたものです。
 後ろの針葉樹はトミーテックの「杉の巨木2」にグレインペイントの白をペタペタ塗っています。


 今回はエープリルフールネタではありましたが、フィンランドとソ連の戦いについては以前から興味があり、本も何冊か持っております。1/72のバファローも実は同時並行で作っていたのですが、3月が本業多忙で96艦戦と並べるには至りませんでした。こちらは近日中に完成させたいところです。また、38式歩兵銃はフィンランドに輸出された実績があるようで、個人装備としてソ連との戦いで使われていたかもしれません。
 それから、私自身はフィンランドには友達はおりません。ぜひ行ってみたい国ではあるのですが・・・。「友人」の名前もよくある「〇〇ネン」というフィンランド人の苗字から使ったものです。ちなみにフィンランド人の苗字でアホネンさんという方がいて、スキージャンプの名選手でも名前を聞いたことがありましたが「草原から来た者」という何とも美しい意味があるようです。それにしてもフィンランド出身のF1ドライバーは人数は少ないけれどもほぼ例外なく最低でも表彰台、さらには世界王者を3人も出しているのはなぜだろうか?本当の意味でトップの選手しかF1に行けないからなのか。いつも不思議に思っています。



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