Wind of Mind

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プログレッシブ・ロック編:ピンク・フロイド(狂気)

2006年09月05日 | 洋楽のルーツ
さて、ケイト・ブッシュからギルモア→ピンク・フロイドへ行きます。

プログレの中ではそのネーミングからか曲調からか、ちょっとマニアックな存在のバンドですが、プロレスのアブドーラ・ザ・ブッチャーの入場テーマ曲「吹けよ風・呼べよ嵐」の作者といった方が判り易いかもしれません。
メンバーはロジャー・ウォーターズ (B・Vo)、リチャード・ライト (Kd・Vo)、ニック・メイスン (Dr) シド・バレット (G・Vo)、65年ロンドンで結成、デビュー67年。翌68年にデヴィッド・ギルモア(G・Vo) が加わり5人編成となりますが、69年には中心的存在であった、シド・バレットが脱退。
バンド生命が危ぶまれますが、残された4人はこの危機を乗り越え、70年代の名作を次々と発表します。
この辺はピーター・ガブリエルが脱退したあとフィル・コリンズを中心にメジャーなバンドになっていった同じくプログレのジェネシスを連想させます。

私が聴いたのは、名盤「狂気(73)」がリリースされたあとでしたが、当時クラシックがまだ退屈に感じた年代だったので正直長い曲は苦手でした。
プログレ=長い曲というイメージが私にはありました。ELPにしても同じですが、彼らはかっこよかったし、また、別の魅力がありましたね。
しかし、その「狂気」の中のマネーという曲を学園祭のロック喫茶のようなところでかけていて、初めて聞いたときはそのシンプルさとコインのじゃらじゃらするスロットマシンの効果的な音に魅了されてしまいました。
ピンク・フロイドのマニアックなバンドというイメージは、当時NHKのヤング・ミュージック・ショーでしたか、ポンペイの競技場かなんかの遺跡で延々とやるライヴが放送され、これが非常に神秘的で退屈でした。(苦笑)
これが私の中のフロイドのイメージにはついてまわりました。
後編に続く

「狂気」

「おせっかい」(吹け夜風呼べよ嵐)

カモン・アイリーン(ケヴィン・ローランド&デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ

2006年08月24日 | 洋楽のルーツ
今日はH氏のエピソードをひとつ。

この「カモン・アイリーン」は少し前にCMで流れていましたが、懐かしかったですね~

私が「カモン・アイリーン」を聴いたのは例の1982年頃。
このLP(写真)はあのH氏が貸してくれたものでした。

H氏が家に持ってきたときは、ケヴィン・ローランドもデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズもみたことも聴いたこともない名前でした。

「面白いから聴いてみな!」
H氏はそういい残して帰っていきました。

聴いてみると、ほかの曲はともかく「カモン・アイリーン」はなかなかユニークな曲でメロディも気に入り、この1曲だけはテープに残すことにしました。

その後「カモン・アイリーン」は大ヒット。

この曲は20年以上たった今、CMで流れてもまったく時代を感じません。
それどころか新しいぐらいです。

H氏の音楽センスもなかなか侮れないものです。

ジャズ・フュージョン編:クルセイダーズ2(南から来た十字軍~ラリー・カールトンの存在)

2006年08月23日 | 洋楽のルーツ
ストリート・ライフ以前のアルバムもどうして、なかなかいいのです。

スクラッチ(ライヴ) (1974)
サザン・コンフォート (1974)
チェイン・リアクション (1975)
南から来た十字軍 (1976) 写真:右から3人目がラリー・カールトン
旋風(かぜ)に舞う (1977)
イメージ (1978)

このあたり、聴き込むほどに良くなる。。。

ここで特筆すべきは74年から76年までラリー・カールトンが正式メンバーであったということです。ラリー・カールトンはさまざまなアルバムに参加していたセッション・ミュージシャンでクルセイダーズ脱退後ソロで「ルーム335」というクロス・オーバー系の大ヒットを飛ばします。
この曲が入ったアルバム「夜の彷徨」(×写真)はフュージョンの名盤といわれています。

さてその後のクルセイダーズですが、1983年にはドラムのスティックス・フーパーが脱退。
このニュースを聞いたときはクルセイダーズも解散か?
と思わざるを得ませんでしたが、サンプルとフェルダーは2人でクルセイダーズを続け毎回ゲストを起用してアルバムを作成するという手法をとったのです。
その後1991年のアルバム「ヒーリング・ザ・ウーンズ」を最後に活動を停止、私的にもここで止まっていたのですが、その後も活動を続けているようです。
これ機会をにチェックしてみたいと思います。また楽しみがひとつ増えました!

夜の彷徨

ジャズ・フュージョン編:クルセイダーズ1(ラプソディ&ブルース)

2006年08月22日 | 洋楽のルーツ
ジョー・サンプルからクルセイダーズへ。。。
私はジョー・サンプルがクルセイダーズのピアニストであることを知り、クルセイダーズも聴いてみたいと思いました。
クルセイダーズはもともとテキサスのハイスクールで同級生だったウェイン・ヘンダーソン(Tb) ウィルトン・フェルダー(T.Sax)スティックス・フーパー(Dr)とジョー・サンプルの4人で結成したグループで、1961年にジャズ・クルセイダーズとしてメジャーデビュー。
71年からはジャズに限らずジャンルを超えた音楽を表現すべくグループ名からジャズをとり「クルセイダーズ」(正確には一作目はザ・クルセイダーズ)として一世を風靡することになります。

私が聴き始めた82年にはクルセイダーズはすでに3人(スティックス・フーパー、ジョー・サンプル、ウイルトン・フェルダー)になっており、ストリート・ライフ (1979)、 ラプソディー&ブルース (1980)写真、スタンディング・トール (1981)音楽会(ライヴ) (1981)とすでに頂点を極めていました。
ストリート・ライフもいいがラプソディ&ブルースのソウル・シャドウズとスウィート・ジェントル・ラヴがまた渋くていいんです!

名盤「ストリート・ライフ」

ジャズ・フュージョン編:ジョー・サンプル2(永遠のRAINBOW SEEKER)

2006年08月18日 | 洋楽のルーツ
しかしジョー・サンプルにも試行錯誤の時代がやってきます。
前3作で少しワンパターン的なフレーズも感じてきたところでしたが、ソロ第4作「ザ・ハンター」は今までとはちょっと違う感じで、それなりに良いのですが私的には「虹の楽園」を越えるところまで行きませんでした。
その後も「オアシス」「スペルバウンド」「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」と聴きはしますが私自身の生活の変化などもあり最初の頃のようなビビットくるものがなく80年代後半からは、すっかり一段落してしまいました。
そんな感じでジョー・サンプルからしばらく遠ざかっていたのですが・・・

今年、MIXIでランディ・クロフォードとの新譜が出るのを知り、それをきっかけにまた情熱が復活したことは今までご紹介したとおりです。
レイラ・ハザウェイとのデュオ・アルバムの解説によると、1994年にジョーは日本公演の最中に大阪で心臓発作で倒れ、生死をさまよった後奇跡的に命を取り留めたそうです。
その1年半後第一線に復帰。当時の私はそんなことを私は知る由もなく、ファンとして少し恥ずかしい思いをしました。
命に限りがあることを知ったジョーはメジャーレーベルから離れ、本当に自分のやりたいことをやりたいと思うようになり、その第二の人生の第一歩がレイラ・ハザウェイを起用した日本公演でありデュオ・アルバムでありました。そして、さらに今年の新譜へと繋がって行ったのです。

ジョー・サンプルは私にとって永遠のRAINBOW SEEKERなのです。
彼の音楽は、これからの私の生活にまた潤いを与えてくれるでしょう。
あの時と同じように。。。

MIXIを紹介してくれたロッキーさんに感謝です!

ジャズ・フュージョン編:ジョー・サンプル1(虹の楽園~ヴォイセズ・イン・ザ・レイン)

2006年08月17日 | 洋楽のルーツ
それでは、続けてジョー・サンプル行きます!
1939年2月1日テキサス州ヒューストン生まれ。

ジョー・サンプルはクルセイダーズのピアニストとして、1960年代(ジャズ・クルセイダーズ)70年代はクルセイダーズとして一世を風靡。
ソロとしてもそのジャンルにとらわれないメロディアスな音楽センスで70年代後半から活躍し続けている人気ピアニストです。

ジョー・サンプルを聴くようになったきっかけは、先日お話したとおりですが、このソロ第1弾「虹の楽園」はやはり冬よりは夏にぴったりのアルバムで、それ以降は夏によく聴いていました。
2作目「渚にて」よりも3作目「ヴォイセズ・イン・ザ・レイン」(写真)の切ないピアノが私は気に入り「虹の楽園」とともに好きなアルバムです。
もう1枚、ソロではないのですが、ジョーがデビット・T・ウォーカーと共演した「スイング・ストリート・カフェ」。これも好きだったですね~滅茶苦茶ファンキーでジョーの面目躍如!といった感じのアルバムで、これを聴くと元気が出ました!


プログレッシブ・ロック編:EL&P3(恐怖の頭脳改革から恐怖の崩壊へ)

2006年07月28日 | 洋楽のルーツ
ELPの勢いはとまらず、1972年には「トリロジー」、1973年ちょうど私が中学2年の頃に発売されたアルバムは「恐怖の頭脳改革」というすごいタイトルが付いています。ELPはこの作品のあとライヴアルバムを発表しますが、この頃までが人気のピークだったのではないかと思います。
「恐怖の頭脳改革」には組曲形式になっている「魔の教典」レイクお得意のロックバラード「スティル・ユー・ターン・ミー・オン」と良い曲もあるのですが、少々その曲のパターンに飽きたかなという一般的な評価であったと思います。その後77年まで活動を停止。

77年満を持した?大作「四部作」を出しますが、これはメンバーそれぞれのソロが中心でバンドとしては二曲程度しかやっていませんでした。その中でのレイクの「セ・ラ・ビ」はまたまたお得意のバラードで、ここまで来るとさすがにファンも苦笑せざるを得ない?その後「四部作」の続編を出しますが、すでにバンドとしての方向性を失い、期待された78年のニューアルバム「ラヴ・ビーチ」はそのタイトルとアルバムジャケット(×写真)のあまりに爽やかな3人の日に焼けた笑顔をみて、これがELP?と誰もが目を疑ったのではないでしょうか。

そして、遂に1980年2月エマーソン・レイク&パーマーの解散が正式に発表されました。

その後ELP再結成の話が出ますが、カール・パーマーはエイジアで参加できず、その代わりに同じPでも、まったくタイプの違うコージー・パウエル。ここで、私のELPは事実上終焉を迎えました(苦笑)。70年後半からのプログレバンド同士のメンバーのトレードは目を覆いたくなるような物がありました。
同じようなことはハードロックバンド同士、プログレとハードでもありましたが、プログレバンドのメンバーとっかえひっかえはその音楽性のイメージからいっても印象は悪かったような気がします。

恐怖の頭脳改革の歌詞カードポスター

トリロジー

ラブ・ビーチ

プログレッシブ・ロック編:EL&P2(展覧会の絵:全盛期)

2006年07月27日 | 洋楽のルーツ
EL&Pは3人という最小のバンドでありながらモーグ・シンセサイザーを駆使し壮大な音楽を作り上げていました。その代表作が「展覧会の絵」(写真)だと思います。そして、私がEL&Pのアルバムを最初に聴いたのは、たぶん中2の頃友人から勧められたこの「展覧会の絵」だったと思います。
これは、もちろんクラシックの名曲ムソルグスキーの「展覧会の絵」をカバ-したものですが、見事に融合されたロックとクラシックは壮大なスケールで、とても3人でやっているとは信じがたいほどすばらしいアルバムでした。しかもライヴ版だというのだからまたビックリ!アンコールのナットロッカー(くるみ割り人形)がまたよかった。

その前にデビューアルバム「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」、「タルカス」を発表、プログレのトップバンドの地位を不動のものとしていました。
「未開人」「ナイフエッジ」「石をとれ」「ラッキーマン」など名曲揃いのファーストが好きでした。ただ、プログレバンドに共通していえたことはアルバムのB面が手抜きが多い?ということ、これは長い曲の途中でアドリブが入りそれがワンパターン。まあ、ご愛敬ということで(苦笑)。
もう一つ共通していてることはアルバムジャケットがアート的だということ。ジャケットに魅力を感じているファンも多いはず。ジャケットアートについてもそのうちご紹介しようと思っております。

さて、グッレグの多才ぶりはELPにおいても発揮され、リードを取るようなベース、エレキギター、アコースティックギターなどをこなし、かなりのポジションを占めていたと思われます。また楽曲においても弾き語り的なバラードをはじめとして、ELPのなかの叙情的な部分の大半は彼によるもので、私の好みにも合っていました。

エマーソン・レイク&パーマー

タルカス

プログレッシブ・ロック編:EL&P1(最強トリオ誕生!)

2006年07月25日 | 洋楽のルーツ
私の音楽のルーツ、高校時代の話を進める前に触れておかなければいけないのがプログレッシブ・ロックのEL&P(Emerson, Lake & Palmer)です。

プログレッシブ・ロックとは、ロックとクラシックそしてジャズの融合であり、卓越したテクニックと壮大なスケールのロックの概念を超えた高尚なロック。というイメージが私にはありました。
60年代後半から70年代前半はハードロックとともにプログレッシブ・ロックバンドが最も輝いていた時代だったといえるでしょう。
キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、EL&Pはプログレ4天王とも呼ばれ、とくにこのEL&Pはトリオという最小のバンド編成にもかかわらずその卓越したテクニックと音楽センスで70年代前半はプログレバンドの人気№1だったのではないかと思われます。

メンバーはナイスのキース・エマーソン(key)、キング・クリムゾンのグレッグ・レイク(b,g.)アトミック・ルーターのカール・パーマー(dp)とそれぞれにキャリアを持つ強者どもでした。

ELPの魅力はなんといってもキースの超人的(殺人的でもある)なキーボードですが、グレッグの透明感のあるボーカルとメロディアスな曲は当時のプログレのなかでは解りやすかったし、カールの若さあふれるそれでいて正確無比なドラミングにも定評がありました。さらに、グレッグはクリムゾン在籍時代、あの歴史的名作「クリムゾン・キングの宮殿」(×写真)を作成したブレーンのひとりで、このアルバムでベースとボーカルを担当していました。このアルバムは当時ビートルズの「アビ-・ロード」をしのいでヒットチャートのトップに立ったという伝説を生みました。「エピタフ」「21世紀の精神異常者」などはロックの金字塔ともいえる名曲だと思います。
そして、もう一つ。三人ともカッコよかった!これは他のプログレバンドにはなかった大きな魅力だったと思います。

おまけです。名盤「クリムゾン・キングの宮殿」
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ロック編:クイーン4(God Save The Queen!フレディの死を乗り越えて)

2006年07月19日 | 洋楽のルーツ
クイーンはその後アルバム「華麗なるレース」、「世界に捧ぐ」を発表。
世界的なロックバンドとしてその名を欲しいままにします。
オペラ座の夜 - A Night at the Opera (1975)華麗なるレース - A Day at the Races (1976)はタイトルをみれば解かるように対になったアルバムでジャケットも同じデザインです。「世界に捧ぐ」からはご存知「ウィ・ウィル・ロック・ユー 」「伝説のチャンピオン」が大ヒット。この辺までがクイーンの全盛期といわれています。
その後も模索を繰り返しながら世界のトップバンドとして君臨し続けますが、1991年フレディの死によりクイーンとしての音楽活動は終止符を打たざるを得なくなるのです。

ここ数年、CMやドラマでクイーンの曲がよく使われてヒットしていることはみなさんご承知のとおりです。私も今聞くと懐かしく、いいな~と思います。
さらに昨年、クイーンは復活。そのボーカルに元フリー、バッド・カンパニーのポール・ロジャースが参加したのには正直驚きました。
ポール・ロジャースの参加は私の周りでも賛否両論でしたが、三十数年前のデビュー時にはよく比較されライバルとされたバンドのリードボーカルのポールがクイーンの曲を歌う。時代の流れを感じるとともに、フレディの代わりは誰にも出来ないと誰もが思っていたと思います。
そのような空気を感じたのかバンド名はクイーン+ポール・ロジャースとされました。そして去年行われた日本公演は大成功を収めたようです。フレディの死を乗り越えて、新しいクイーンの誕生です。まさにGod Save The Queen!

さて、クイーンの初来日の時、ML誌のインタビューでほかのバンドについて聴かれているのですが、ここで興味深い記事を発見。
バッド・カンパニーのポール・ロジャースについてブライアンがコメントしています。
今となっては何とも不思議な運命を感じる記事です。
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75年頃のバッド・カンパニーの写真もこの際載せましょう(苦笑)、右から2番目がポール・ロジャースです。
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ロック編:クイーン3(待望の初来日!)

2006年07月18日 | 洋楽のルーツ
1975年クイーンは初来日を果たしますが、この時すでに日本ではすごい人気でテレビにも出演。
私もすっかりミーハーになり、テレビに映るクイーンのメンバーを写真で撮ったりしました(苦笑)。
彼らも日本での歓迎ぶりには少し驚いたようです。そのくらいの大フィーバーだったと思います。
後に「Teo Torriatte」(華麗なるレース)という日本語を使った曲を日本のファンのためにプレゼントしてくれます。
写真は初来日を特集するML誌です。

さて、音楽的にはキラークイーンの世界的大ヒットで遂にロックバンドとして世界的に成功を収めることになるクイーンですが、4枚目のアルバム「オペラ座の夜」ではまさにクイーン独特の世界でオペラのような曲を披露、「ボヘミアン・ラプソディ」は名曲ですが、ステージで再現することは明らかに不可能と思われました。キラー・クイーンに物足りなさを感じていた私はこの「オペラ座の夜」にも少し戸惑いを覚えるのでした。結局その後、私はいまいちのめり込むことが出来ませんでしたが、私のいとこが大のクイーンファンでコンサートにも行くなど熱狂していたようです。

クイーンが初来日した頃のML誌のグラビアを久しぶりにめくってみると、いやもうスゴイフィーバーぶりで、3ヶ月ぐらいかなりのグラビアと記事で特集しております。しかもアイドル扱い!(×はまさにアイドルショット?)女の子の追っかけもすごかったみたいです。
確かにみんな若くてカッコイイ!ロジャーは特に可愛い!?




ロック編:クイーン2(炎のロックンロール~キラー・クイーン)

2006年07月17日 | 洋楽のルーツ
クイーンの音楽はその当時のディープ・パープルやレッド・ツェッペリンといったハードロックバンドとは明らかに違っていたように思います。
なんというか、派手でカッコイイのです。クイーンファンに怒られるかもしれませんが、1枚目を聞いたとき、まるで歌謡曲のような感じがすると思った時期がありました。それは魅力的なフレーズをたたみかけるブライアンのギターとフレディのボーカルの艶やかさはもちろんのこと、短い曲の中に色々な要素が凝縮した曲ばかりだったからだと思います。

ファーストアルバム「戦慄の王女」(写真右)はデビューシングルの「炎のロックンロール」に代表されるようにブリティッシュハードの要素を残しながらもカッコイイ曲が揃っていました。
しかし、サウンド面においての多重録音の多用などメディアからは酷評されたようです。
二枚目の「クイーンⅡ」はホワイトクイーンとブラッククイーンの啓示というプログレッシヴ・ロックバンドのような構成のアルバムでこれも賛否両論。
私は1枚目の方が好きでしたが、プログレ好きの友人はこちらの方がいいといっていました。
このアルバムの中ジャケットでは彼らは化粧をしてジャケットに収まっていました。(写真×)これも賛否両論、化粧するのはグラム・ロックとかパンクでは?彼らは何者?(苦笑)
三枚目の「シアー・ハート・アタック」(写真左)は2枚目からすぐに発売されたような気がします。
1枚目の流れを感じさせるこのアルバムからは「キラー・クイーン」が世界的な大ヒットとなりますが、仲間内やML誌ではあまり評価がよくなかったような気がします。クイーンへの期待は既に強大なものになっていたことと、ロックにしてはあまりにも綺麗過ぎるという印象だったのです。

ロック編:クイーン1プロローグ(日本から火がついた人気)

2006年07月16日 | 洋楽のルーツ
自分で作った昔のレーティングスを見て、改めてその当時のクイーンの人気の凄さを再認識しているところです。(苦笑)ここで、クイーンに触れないわけにはいかないでしょう。
では、リアルタイムでみてきたクイーンについて書いてみましょう。

クイーンがデビューしたのは1973年、私が中学2年生の時です。
クイーンのメンバーはもうご承知でしょうが、一応。
フレディ・マーキュリー(v.key)
ブライアン・メイ(g)
ロジャー・テイラー(d)
ジョン・ディーコン(b)

当時一番人気があったのはルックス的にはロジャーでした。
ジョンはオーディションで選ばれた最後のメンバーで当初はディーコン・ジョンと誤って表示されていました。また、髪を短くした頃は久米宏に似ているとよく言われていました。
当初はミュージックライフ誌(以下ML誌)のグラビアでも同じ時期にデビューしたバッド・カンパニーの方が大々的に取り上げられていたように思います。

バッド・カンパニーは元フリーのポール・ロジャース(v)とサイモン・カーク(d)、元キング・クリムゾンのボズ・バレル(b)、元モット・ザ・フープルからミック・ラルフス(g)とそのメンバーから大物バンドとして注目を浴びていました。
クイーンは最初はあまり注目されていなかったような気がします。
しかし、ML誌はクイーンの記事を毎月のように載せバックアップ。
日本のリスナーもクイーンの音楽に徐々に魅せられ、クイーンの人気は日本から火がつき世界的なバンドへと成長していったのでした。
この頃のML誌はまるで、ミル・マスカラスの特集を何十回も組んで日本でのマスカラス人気を爆発させ、ゴングのマスカラスかマスカラスのゴングかといわれたゴング誌のようでした。
写真は初期のクイーンを紹介するML誌のグラビア。「躍進」の2文字がなんとも初々しい感じ。

ハードロック編:ディープ・パープル5(黄金のメンバーによる復活)

2006年07月10日 | 洋楽のルーツ
1984年、解散から8年の月日を経てついにディープ・パープルは第2期の黄金のメンバーで再結成を果たします。
時はヘヴィ・メタル全盛時代。ハードロックとヘヴィ・メタルの違いはリズムの軽さ?(ヘヴィ・メタルの方が軽くポップな要素を感じます)
アルバム「パーフェクト・ストレンジャー」はヒットしますが、私はあまり好きじゃなかった(苦笑)。
ここで、また揉めたのかギランが脱退、もとレインボーのボーカル、ジョー・リン・ターナーが加入。もうここまでくると私は聴く気にもなれませんでしたが。。。

こんなことを繰り返しながらも約10年が経過した1993年暮れ、パープル結成25周年ということで、なんと、またまた第2期のメンバーで再結成し来日公演を行うと言うではないですか!
場所は日本武道館!役者は揃ったぜ、ベイベー♪
とにかく、第2期のパープルは腐っても鯛!一度はこの目で見ておかねばと後輩やその友人達とチケットを買って心待ちにしておりました。
私の憧れのボーカリスト、イアン・ギランをひとめ生で見たい聴きたい!そしてやはりリッチーのギターも生で聴きたい!

さて、この来日公演にはまたひとつ落ちがあるのですが、私のディープ・パープルはこの武道館公演で完全に終焉を迎えることになるのでした。

ディープ・パープルは今でも活動を続けており、今年も日本にその勇姿を見せています。今でも彼らは偉大なるブリティッシュハードロックバンドであることに変わりはないのです。

ハードロック編:ディープ・パープル4(リッチー脱退~そして解散)

2006年07月09日 | 洋楽のルーツ
結局、第3期のパープルはうまくいかず「紫の炎」「嵐の使者」(写真)という2枚のアルバムを発表したものの、バンドに嫌気が差したリッチーはソロアルバム「銀嶺の覇者/RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW」を製作(1975年2月)、ついにはディープ・パープルを脱退し、(レインボーを結成)第3期は終わります。
私は第3期になると、もうほとんど聴く気になれず、バンドの動向だけは知らず知らず気になってはいましたが。。。
ディープ・パープルはその後リッチーの後にトミー・ボーリンを迎えますが、もうその音はディープ・パープルではありませんでした。76年についに解散。カヴァーディルはソロアルバムを経てホワイトスネイクを結成。後に、ジョンとペイスも合流し完全なパープル・ファミリーバンドとなります。私はよく聴いていませんでしたが、このバンドはかなりの人気があったと思います。この頃のカヴァーディルがまたかっこよかった。
しかし、第2期黄金期を知る私のようなパープルファンは、いつかリッチーとギランのパープルが復活しないかと淡い期待を寄せるのでした。

また、時代も70年代から80年代へと、重厚なハード・ロックからヘヴィ・メタル全盛へと変わっていき昔のパープルやブラック・サバス、ユーライア・ヒープ、アメリカンハ-ドのG・F・R(グランド・ファンク・レイルロード)のようなバンドはツェッペリンを例外として姿を消して行きます。
その、ツェッペリンもドラムのジョン・ボーナムの死により1980年に解散を余儀なくされるのでした。