新しく来た人は町の名前が日限山4丁目で、現状は高台のようになっているので、自分の町は日限山という山の南端部と思うかもしれませんが、日限山という山があった訳ではありません。
近くに日限地蔵尊があるので、高台状の新町に日限「山」という名前をつけたのでしょう。
日限山の前は上永谷町という名前でした。
日限山4丁目の南側の地域はいまだに上永谷町という地名が残っています。
日限山4丁目は昔は複雑な谷戸構造でした。
山を削り、谷を埋めて平らにしました。
谷戸構造は近くの舞岡公園の山谷の構造を見ることで想像できます。
具体的にどのような谷戸構造であったかは、横浜市建築局都市計画課がインターネットで公開している「横浜市三千分一地形図」(昭和40年3月修正:横浜市作成)を見るとよくわかります。
いっぱい地形図がありますが、日限山4丁目は「75-5下倉田(昭和40)」の右上の部分です。
これは日限山4丁目の宅地造成が行われた前の地形図で、等高線が表示されているので山部の高さ、谷部の深さがよくわかります。
この古い地図上で自分の家がどこにあるかは、"Google Earth"というGoogleのソフトを使って、「下倉田(昭和40)」の地図と、現在の上から見た町の重ね合わせを行うとわかります。
「下倉田(昭和40)」のKMLファイルをダウンロードし、このファイルをGoogle Earthで開くと重ね合わせができます。
「下倉田(昭和40)」の地形図をみるだけでも自分の家の位置はわかります。
昔も今も変わっていない地点を2か所見つけます。
まず現在の地図上でその2点から自分の家まで直線を引きます。
三角形ができます。
次に「下倉田(昭和40)」の地形図で2点を底辺とする相似の三角形を書きます。
頂点が自分の家の位置です。
家を建てるとき業者は地盤の硬さを測定します。
山を削った部分は硬いデータ、谷を埋めた部分は軟らかいデータが出ます。
私の宅地は、東側が硬く、西側が軟らかでした。
つまり、東側が削られた部分、西側が埋めたてられた部分ということがわかります。
「下倉田(昭和40)」で確認した位置と符合しています。
上永谷駅の近くに貞昌院という曹洞宗のお寺があります。
上永谷町の昔の航空写真が廊下に飾ってあります。
複雑な谷戸構造がわかります。
山部はほとんどが山林だったことがわかります。
近くに日限地蔵尊があるので、高台状の新町に日限「山」という名前をつけたのでしょう。
日限山の前は上永谷町という名前でした。
日限山4丁目の南側の地域はいまだに上永谷町という地名が残っています。
日限山4丁目は昔は複雑な谷戸構造でした。
山を削り、谷を埋めて平らにしました。
谷戸構造は近くの舞岡公園の山谷の構造を見ることで想像できます。
具体的にどのような谷戸構造であったかは、横浜市建築局都市計画課がインターネットで公開している「横浜市三千分一地形図」(昭和40年3月修正:横浜市作成)を見るとよくわかります。
いっぱい地形図がありますが、日限山4丁目は「75-5下倉田(昭和40)」の右上の部分です。
これは日限山4丁目の宅地造成が行われた前の地形図で、等高線が表示されているので山部の高さ、谷部の深さがよくわかります。
この古い地図上で自分の家がどこにあるかは、"Google Earth"というGoogleのソフトを使って、「下倉田(昭和40)」の地図と、現在の上から見た町の重ね合わせを行うとわかります。
「下倉田(昭和40)」のKMLファイルをダウンロードし、このファイルをGoogle Earthで開くと重ね合わせができます。
「下倉田(昭和40)」の地形図をみるだけでも自分の家の位置はわかります。
昔も今も変わっていない地点を2か所見つけます。
まず現在の地図上でその2点から自分の家まで直線を引きます。
三角形ができます。
次に「下倉田(昭和40)」の地形図で2点を底辺とする相似の三角形を書きます。
頂点が自分の家の位置です。
家を建てるとき業者は地盤の硬さを測定します。
山を削った部分は硬いデータ、谷を埋めた部分は軟らかいデータが出ます。
私の宅地は、東側が硬く、西側が軟らかでした。
つまり、東側が削られた部分、西側が埋めたてられた部分ということがわかります。
「下倉田(昭和40)」で確認した位置と符合しています。
上永谷駅の近くに貞昌院という曹洞宗のお寺があります。
上永谷町の昔の航空写真が廊下に飾ってあります。
複雑な谷戸構造がわかります。
山部はほとんどが山林だったことがわかります。
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