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雲南の回族1・サイード・シャムスッディーンⅠ

2013-04-14 14:21:51 | Weblog
写真は大理近くのかつての交通の要衝・雲南駅にいた馬。(2005年撮影。)。モンゴル帝国以前よりモンゴル高原と中央アジア、雲南へと、マージナルな人々は馬で縦横無尽に移動していた。

【昆明の礎】
(私のブログで)長くながーく続いてしまった昆明の水の道。ともかく昆明の北・山の上の松華坝ダムから盤龍江をへて南の滇池まで一本の水の道でつながっていることがおわかりになったことでしょう。

この、松華坝ダムにしても、周囲の川をつないで滇池へと流す水路も、その間の灌漑用の取水堰も、主要なものはじつは元の最初期に雲南を治めた、ある一人の有能な官僚のわずか5年以内の指示のもとでつくられたものが原型となっているのです。

その人は、色目人(シキモクジン)と元の時代に呼ばれた一人。高校世界史の教科書に
「元の朝廷で有能な色目人が多数、重用された」と書かれていたため、当時は
「色目を使うなんて、いやな感じだなあ」と、本来の「元の統治下、さまざまな『目』の人、青色や緑色の目の人が多かった西域に住む人々」という意味を完全に無視してゲンナリしていました。妄想はふくらんで、「モンゴル帝国の階級で一番はモンゴル人、2番目に色目人、漢民族はその下の支配される階級に置かれた」と読むと、さらに支配階級=悪者と単純化され、イロメの妄想とともに、すごく脂ぎって、太った、二重あごの男の人を勝手に想像していたのですが、この人の業績を見ると、高校生だった私を殴り飛ばしたくなります。

 名は賽典赤・贍思丁(1211-1279)。中国音だとシャイデンチ・シャンスディン。なんとも分かりにくい読みは、ペルシャ語の音読のため。ペルシャ名はサイード・アジャル・ブハーリー。
 チンギスハーンの中央アジア遠征の時に1000騎を率い、豹と白鶴をみやげに投降したペルシャ貴族で、イスラム教の開祖・ムハンマドの後裔を称する名家の出身。中央アジアの中心都市の一つ・ブハラ(現ウズベキスタン)で生まれ育ちました。
 チンギスハーンにペルシャ語の「貴族(高貴なサイイド〈聖裔〉)」を意味する「シャムスッディーン」と呼ばれ、尊敬を受けたことから以後、本名ではなく、通称を用いるようになったとのこと(『元史・列伝・賽典赤・贍思丁』より)。

 このエピソードから、元軍に投降したときに本来の名を捨て、一族(1000騎)を守るために生きることを選んだのかな、などと、またも妄想をたくましくするのですが、その根拠となりそうな文献はペルシャ語なので、ちょっと私には手が出ません。
 
 さて、チンギスハーンの死後も各皇帝に重用され、山西地方の行政官を歴任し、次に燕京(今の北京)で断事官、第4代のモンケ・ハーンの時は北中国全土を管轄する燕京等処行尚書省の中の北京周辺の行政の最高責任者である燕京総官となり、多くの「恵政」を施したと「元史」では伝えています。

 さらにモンケの南宋遠征の時には兵站を担当し、物資を切らすことがなかったとか。
モンケの死後、フビライ・ハンの幕下でも重用され、ついに中統2年(1261年)、50才の時に宰相クラスの中書平章政事に昇進。至元元年(1264年)に南宋との最前線ではる陝西・四川等処行書省平章政事となり、中国西部の行政の最高責任者となり、南宋の将軍や各地の反乱をよく鎮め、すぐれた行政手腕を発揮したそうです。

 じつに有能ゆえの輝かしい経歴、ハーンの信頼も厚かった彼が、雲南に派遣され、じつにさまざまな雲南の治水、学問、寺院、都市計画など、今に残る業績を残したことは、雲南にとってじつに幸運な出来事だったのではないかと思うのです。それについては次回に。   (つづく)
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