写真はマドリードの繁華街・プエルタ・デル・ソル広場にてギターとツィンバロムでロマの哀調の調べを奏でる人々。このほか様々な大道芸が立つにぎやかさだが、この写真の左奥の小道を入ると、デパート「コルタ・イングレス」その裏口を出た広場にデスカルサス・レアレス修道院がある。あらゆる喧噪から解き放たれた不思議と静かな空間だ。
【伊達政宗の野望】
ここは、日本にもゆかりがあります。
今を去ること400年前の1615年2月17日に日本の武士・支倉(はせくら)常長(つねなが)が洗礼を受けた教会なのです。戦国の世が終わるなかで起死回生の奇策をめぐらす仙台藩の伊達政宗によって派遣された慶長遣欧使節団の長として、今後、ローマ法王に会う必要からも必要な儀式でした。
一人の日本人のための洗礼式には驚くべきことに国王フェリペ3世や、フランス王妃であるフェリペ3世の娘をはじめ、多数の貴族が参列していました。日本を出発して1年半。苦労してたどり着いたマドリードでメキシコと貿易をするために国王の勅許がほしい支倉と彼が率いる慶長遣欧使節団一行。ひょっとすると伊達政宗はスペインと国交を結んでそれを後ろ盾に日本国王を目指していたともいわれています。
ところがスペイン議会は、すでにイエズス会宗教者から日本がキリスト教に苛烈な弾圧を行っていることを聞いていました。しかも伊達政宗は国王ではなく、一地方領主にすぎないという報告も受けていたのです。
そのようなことも知らず、無茶ぶりで派遣された彼をスペインまでいざなったのはフランシスコ会派の宣教師ルイス・ソテロでした。日本に唯一食い込んでいたイエズス会派の牙城を仙台から突き崩したかったともいわれています。そして、まさに洗礼式を行ったこの教会はフランシスコ会派でした。
結局、支倉は日本をたって7年後に、何の成果も残さず帰国しました。そのころ日本はキリスト教弾圧の真っ最中。彼は謹慎させられ、何も語らず、何も残さず、過酷な旅で心身疲労し、2年後に死去しました。
にぎやかなマドリードの旧市街でもとりわけ静かな教会周辺。その教会の重く分厚い木製の扉のなかの、しんとした静けさと、当時をしのばせる踊り場階段の荘厳さ、そして外観からは想像できないほどの驚くべき価値の高い美術品の数々は、王女たちと深くかかわった教会と数々の歴史の連なりを感じさせます。
●参考文献
大泉光一『支倉常長』(中公新書、1999年)
同著『支倉常長 慶長遣欧使節の真相』(雄山閣、2005年)
太田尚樹『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』(山川出版社、2013年)
https://www.esmadrid.com/ja/kankoujouhou/monasterio-de-las-descalzas-reales?utm_referrer=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2F
https://www.esjapon.com/ja/cronica-del-viaje-de-los-ciudadanos-de-sendai-a-espana-4830
※上記の本やネットの内容は、いずれも支倉常長遣欧使節についての思いでやけどしそうなほどアツい。一つには今も慶長遣欧使節団からスペインに残った人の末裔が「ハポン」(スペイン語で日本)姓で暮らし、そのことを信じて誇りを感じている人の存在が大きいのでしょう。また、スペインでは苦労しながらも主命を果たせなかった支倉ですが、その立ち居振る舞いは、立派で堂々としたものだったため、当時の文献を調べれば調べるほど、研究者らはうれしく誇らしくなってくるのかもしれません。
※次回、ようやくポルトガルへ参ります。