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暴れる象と芸象8 雲南はやはりシーサンパンナ

2016-05-01 13:12:09 | Weblog
写真はシーサンパンナ・景洪市内の道路の緑化帯に形作られていた、植物で作られた象。ほかに犬の形をしたものもあった。なんの植物かはわからなかったが、ツツジのような葉をしていて、前足部分と後ろ足部分にある別々の木が太い幹となって上方に向けて枝を張っている。それらをうまく誘導したり、刈り込んだりして形を作っていた。日本の菊人形のようなものらしい。


【象が耕す?】
殷代には長江以北の中原でも戦闘に使われ、あがめられていた象。魏晋南北朝期にも野象が暴れ民家を壊す記事も残ってはいますが、その後、寒冷化もあり、象は視界から消えていきます。

ときに雲南では、象はどのような様子だったのでしょう。

唐の咸通年間(860〜~873)に中原からベトナムのハノイに官僚として赴いた樊綽が、雲南の記述をかき集めて編纂した『蛮書』(巻7 雲南管内物産第7)には次のように象が登場します。

「象、開南已南に多く之あり。あるいは捕らえて人家多く之を養う。もって代わりに田を耕すなり。」
(象、開南已南多有之。或捉得人家多養之。以代耕田也。)

開南は、現在の普洱市のもっとも北に位置する景東彝族自治県をあらわす地名です。これより南に山を下るとシーサンパンナに入る境界域です。

つまり唐の時代には現在の生息域と同じあたりに象がいて、野象を捕らえて飼い慣らしていた。しかもその象を使って田を耕していた、というのです。

この文の前には沙牛、水牛が家ごとに養われ、耕していた記述があり、その後には猪、羊へとつながる話となっているので、ある程度、当時の人々の生活を反映した話といえそうです。

 でも、象が田を耕すことなど聞いたこともなく、各種民族史にも記載がないので、本当なのかと疑いたくはなるのですが。
信憑性の高い記述でもっとも多く、象が登場するのは、やはり戦争でした。
(つづく)
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