朝7時の朝食を終えて、出発の支度をする。駅前というのに、民宿の前は静かだ。
早速那智駅まで向かう。車を那智駅前の道の駅に置き、二日目の熊野古道歩きが始まった。
歩き始めて直ぐに浜の宮王子がある。
浜の王子入り口には、樹齢800年ともいわれている大きな樟の木がある。楠の木であるが、葉が樟脳の香りがすることからこの地では、「樟の木」と呼んでいるようだ。根元から2つの幹に分かれていて、その姿から夫婦杉と呼ばれることもあるそうだ。
この神社は、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となっている。那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれている。
そして、浜の宮王子のすぐ隣が、補陀洛山寺である。「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいう。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といった。熊野の補陀洛山寺は補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だという。
補陀洛山寺を出ると、曼荼羅の道の石碑があった。これから、熊野信仰の聖地である熊野那智山を描いた社寺参詣曼荼羅に因んだ道を歩くのである。
那智山まで8キロとあった。導いてくれるのは、八咫烏だ。
前方の山の方だけ霧が立ち込めている。あの辺りが熊野信仰の聖地:那智山のようだ。
沿道には、那智山道の灯篭も建っている。
曼荼羅の道の案内に従って小川沿いを歩く。
緩やかな登り坂となり、竹と杉の林の中を進んでいく。
前日の雨のせいか、道が沢のようになっていた。
立派な竹林の間には、木道が整備されている。
荷坂峠には尼将軍供養塔がある。尼将軍とは、源頼朝の妻、北條政子のことだ。政子は、夫源頼朝の没後、尼となり、子の頼家、実朝の後見として政治に関わっていた。しかし、その子たちが北條氏の策により次々と暗殺に遭い、その罪の苦しみから、二度の熊野三山詣でこの地に立ち寄った際、子の供養のためにこの供養塔を建立したといわれている。
ふだらく霊園の間を抜けて行く。
これは、ふだらく霊園にある柿の古木だ。源頼朝(1147~1199)の死後に植えられたと伝えられていて、幹の周囲は2.9mもあったそうだが、現在はこんな小さな木になってしまっている。この柿の古木は一時実をつけなくなっていたが、2006年からは再び実をつけるようになったそうだ。こんな枯れそうな小さな木になってしまっても未だに実をつけるとは、木の生命力は凄い。
市野々王子に到着する。この辺りは、那智川の上流域に位置し、地名は那智山の物資を売る市がたったことによるそうだ。
この市野々の里には、八咫烏の子孫が住むといわれている。市野々王子の近くにある市野々小学校の校章も八咫烏になっているそうだ。
那智川に架かる橋を渡ると、大門坂の入り口だ。ここは、那智大社への旧参道で、約600mにわたり樹齢数百年の杉並木の中に苔むした石段が続く。いよいよ、最終目的地である熊野那智大社まであとわずかとなった。
「2014熊野古道:熊野那智大社から花の窟神社」へ続く
早速那智駅まで向かう。車を那智駅前の道の駅に置き、二日目の熊野古道歩きが始まった。
歩き始めて直ぐに浜の宮王子がある。
浜の王子入り口には、樹齢800年ともいわれている大きな樟の木がある。楠の木であるが、葉が樟脳の香りがすることからこの地では、「樟の木」と呼んでいるようだ。根元から2つの幹に分かれていて、その姿から夫婦杉と呼ばれることもあるそうだ。
この神社は、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路・伊勢路の分岐点となっている。那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれている。
そして、浜の宮王子のすぐ隣が、補陀洛山寺である。「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳で、南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいう。日本においては南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海」といった。熊野の補陀洛山寺は補陀落渡海の根本道場といってもよい場所だという。
補陀洛山寺を出ると、曼荼羅の道の石碑があった。これから、熊野信仰の聖地である熊野那智山を描いた社寺参詣曼荼羅に因んだ道を歩くのである。
那智山まで8キロとあった。導いてくれるのは、八咫烏だ。
前方の山の方だけ霧が立ち込めている。あの辺りが熊野信仰の聖地:那智山のようだ。
沿道には、那智山道の灯篭も建っている。
曼荼羅の道の案内に従って小川沿いを歩く。
緩やかな登り坂となり、竹と杉の林の中を進んでいく。
前日の雨のせいか、道が沢のようになっていた。
立派な竹林の間には、木道が整備されている。
荷坂峠には尼将軍供養塔がある。尼将軍とは、源頼朝の妻、北條政子のことだ。政子は、夫源頼朝の没後、尼となり、子の頼家、実朝の後見として政治に関わっていた。しかし、その子たちが北條氏の策により次々と暗殺に遭い、その罪の苦しみから、二度の熊野三山詣でこの地に立ち寄った際、子の供養のためにこの供養塔を建立したといわれている。
ふだらく霊園の間を抜けて行く。
これは、ふだらく霊園にある柿の古木だ。源頼朝(1147~1199)の死後に植えられたと伝えられていて、幹の周囲は2.9mもあったそうだが、現在はこんな小さな木になってしまっている。この柿の古木は一時実をつけなくなっていたが、2006年からは再び実をつけるようになったそうだ。こんな枯れそうな小さな木になってしまっても未だに実をつけるとは、木の生命力は凄い。
市野々王子に到着する。この辺りは、那智川の上流域に位置し、地名は那智山の物資を売る市がたったことによるそうだ。
この市野々の里には、八咫烏の子孫が住むといわれている。市野々王子の近くにある市野々小学校の校章も八咫烏になっているそうだ。
那智川に架かる橋を渡ると、大門坂の入り口だ。ここは、那智大社への旧参道で、約600mにわたり樹齢数百年の杉並木の中に苔むした石段が続く。いよいよ、最終目的地である熊野那智大社まであとわずかとなった。
「2014熊野古道:熊野那智大社から花の窟神社」へ続く