2013.9.24
孤高のアラビア石油
石油精製元売りの業界団体である石油連盟に対し、上流部門の石油開発業界には石油鉱業連盟(略称石鉱連)があった。加盟企業は100社以上であったが、先に述べたとおり殆どはプロジェクト会社であり会社としての体裁を成していたのはアラビア石油、帝国石油、石油資源開発及びインドネシア石油の4社だけだった。ただ各社の設立の経緯と歴史は大きく異なっていた。
帝国石油は日本石油や日本鉱業(共に現JXホールディングス)など明治時代から新潟及び秋田で原油の開発と精製を行っていた企業の上流部門が太平洋戦争末期に集約して生まれた国策会社である。戦後帝国石油は株式公開により民間企業となったが、海外での石油開発を禁じられたため国内で細々と生産を続けていた。
経済復興はしたものの「産業の米」とも言われる石油はメジャーと呼ばれる欧米石油企業に握られていた。因みに昨年ベストセラーとなった「海賊と呼ばれた男」はイランの石油国有化に対してメジャーが輸出封鎖した時、出光興産創業者の出光佐三がメジャーの裏をかいて自社のタンカー「日章丸」をイランに送り込み原油を直接買い付けたエピソードを小説にしたものであり、当時のメジャーによる石油支配の強固さを物語っている。
日本政府自らの手で原油を確保するため1955(昭和30)年に政府の全額出資で設立されたのが石油資源開発株式会社である。石油資源開発は技術者中心であり、地質、油層解析など学術的分野に多くの専門家を抱えていたが、それらを実証すべき開発現場が乏しいため宝の持ち腐れに近い状況であった。
何とか海外で石油開発を行いたいと言う政府の願望は、1966(昭和46)年インドネシア国営石油会社プルタミナと生産物分与契約を締結したことで実現した。この時、石油資源開発の100%子会社として設立されたのが「北スマトラ石油開発株式会社」である。同社は4年後に米国ユノカル社(現シェブロン)と共同でアタカ油田を発見、インドネシア石油と改名しアラビア石油と並ぶ超優良企業として歩み出したのである。
日本の石油開発の四社のうち帝国石油、石油資源開発或いはインドネシア石油の三社は上に述べたように国策に沿って設立された企業であり、特に後の二社は国有企業として発足している。これに対してアラビア石油はそもそものなれそめから純粋な民間企業として始まった。良く知られているように同社は稀代の起業家山下太郎が1958(昭和33)年にサウジアラビアとクウェイト両国政府から中立地帯沖合の石油利権を獲得したことに始まる。同年2月、日本興業銀行(現みずほ銀行)、東京電力など日本を代表する企業が株主となってアラビア石油が設立され、試掘第一号井でカフジ油田と言う世界的な巨大油田を掘り当てる快挙を成し遂げた。アラビア石油は欧米石油企業と組まず単独で油田の開発と生産にこぎつけ、日本の石油消費量の1割を持ち込み、設立わずか10数年後の1970年代後半には経常利益日本一に輝き同業他社を圧倒したのである。
当時のアラビア石油を同業の帝国石油、石油資源開発或いはインドネシア石油と比較すると、まず上場企業と言う点で石油資源開発、インドネシア石油と異なる。また石油の生産現場が海外である点で帝国石油或いは石油資源と異なる(両社は子会社を通じ海外で探鉱開発を行っていたが本格的な原油生産は日本国内に限られていた)。海外で油田の開発生産を行っている点ではインドネシア石油と同じであるが、同社の場合は米国のユノカル社がオペレーター(操業担当会社)でありインドネシア石油は出資割合に応じた原油を引き取るだけである。その点、アラビア石油は単独で操業し全量を日本に持ち込んでいる。さらに人的交流の面でも帝国石油など三社は互いに仲間意識が強かったのに比べ、アラビア石油はこれら三社とつかず離れずの関係で良く言えば独立独歩、悪く言えば唯我独尊の気風が強かった。
日本から遠く離れたアラビアの厳しい風土の中で原油を生産している日本一の高収益会社。そのイメージは社外だけでなく社員自身にも強く反映し、アラビア石油は孤高の姿勢を保っていた。
(続く)
(追記)本シリーズ(1)~(13)は下記で一括してご覧いただけます。
http://members3.jcom.home.ne.jp/3632asdm/0278BankaAoc.pdf
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