高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

慎むこと

2023-03-01 18:57:15 | 日記

神は人間の幸福を望んでいないと言う者が時々あるが、神を言う前に、我々自身が、多くの他者の幸福をめったに望んでいないということに、気づくべきだと、ぼくは思う。人間生活をしていて、それに気づかないということはない。我々自身が他者の幸福をめったに望まないのであれば、その集合した意識の圧力は、人間が幸福であることを大変に妨げるだろう。 ところで、どうして我々はそのように、他者の幸福を望まないのであろうか。それは、具体的に接する他者が、幸福に価しない、という強い思いが、我々のなかにあるからだ。そのくらい、具体的な他者は、多くの場合、その慎みの無い言動によって、不愉快なものであり、けっして我々がすすんでその幸福をねがう気になるようなものではなく、むしろその逆をこそ我々はねがうようなものだからである。 振り返って、我々自身は、幸福に価するものだろうか。ぼくは、この点で、自分のことについても判然としないが、言えることは、じぶんは幸福に価するとじぶんで言える人間はいないだろう、ということだ。だから、わずかでもじぶんに幸福な面があると思えるなら、慎まなければならない、と思う。感謝とか、そういうことよりもむしろ、慎むことだ。じぶんの在り方についてさえ、じぶんでは判断できない。じぶんの状況がじぶんに不当なのか、分に過ぎるのか、じぶんでも判じ得ない。だから、慎むことこそ大事なのだ。じぶんが他者から、すくなくとも不幸を望まれるような者ではないように慎むのは、無論のことである。じぶんをじぶんで自己評価することも、ほどほどに慎まなければならない。うまくゆかないことを神のせいにするのは、あまりに自惚れが強いことだ。神を否定したいのなら、不幸と感じることを神に帰してもならない。そうすると、けっきょく、人間はじぶん相応の人生しか受けとることはない、という(マルセル作戯曲内の)アリアーヌの言葉が、分別知の判断によってではなく、内的な感覚として、納得できるようになるのではないだろうか。ぼくにも、何にせよ断定できるようなものがあるわけではないのだけれども(断定できたらむしろおかしい)。 あんまりひとのことを、神のことも、人間は何だかだ言える立場にはないのに、それでもあらゆる種類の断定が他にたいしてまかり通っていること、その奥には無反省で過大な自己評価が潜んでいることを、人間はなかなか認めようとしない。それが、ほんとうに人間が幸福になることを妨げている最大の要因だと、ぼくは思う。