高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」36

2022-10-07 14:03:00 | 翻訳
121頁

(ジェローム、情熱的に。) ぼくは、思い上がりにはぞっとする。思い上がりは、ぼくが多分この世でいちばん嫌うものだ。ぼくたちは、自分に嘘をつくためにしか、他人に嘘をつくことを止めない ― そしてそういう嘘こそ、最も軽蔑されるべき嘘だ。

(ヴィオレット) あなたは公平ではないように、わたしには思えるわ、ジェローム。

(ジェローム) 生は公平だろうか? 

(ヴィオレット) 生… 生… それはひとつの作り話以外のものなの? 多分、けっきょく、生とは、わたしたちが生のなかでそれを見いだすのが、わたしたちに相応であるようなものでしか、決してないのよ。

(ジェローム) ぼくらに相応の… (不信げに。)アリアーヌの言葉みたいだな。


第十場

同上の人物、アリアーヌ

(アリアーヌ、少し用心深すぎるようにしてドアを開けたところである。) ごめんなさいね。あのソナタ集を見つけることがもう出来なくなっていたの。(つづく) 


122頁

(つづき)多分、私が貸して、返してもらっていないのね。(掃除婦が盆を持って入ってくる。)待って、エリーズ、この小円卓を片付けるから… ジェローム、手伝ってよ… いちばん困るのは、調律師が約束を守らなかったことね。私のピアノはほんとうに随分狂っているみたいだわ。あなたの処へ行くほうがよかったわね。あなたのプレイエルは素晴らしいわ。

(ヴィオレット) わたし、あのピアノを手放さざるをえないでしょう。

(ジェローム) 何だって? 

(ヴィオレット) 偶然にでも、買い手がいるかもしれないという話を、あなたがたがお聞きになられていたら…

(ジェローム) でも、ありえないことだ…

(アリアーヌ) あなたの伴奏練習のために… 

(ヴィオレット) わたしの処で練習することはほとんどありません。友人が、自分の使わないアップライト・ピアノをわたしに貸してくれるでしょう。それでまったく充分ですわ。

(アリアーヌ) がっかりしますわ。

(ヴィオレット) 必要なことなんです。悲劇でも何でもありません。

(ジェローム、失言して。) ぼくは慣れていたんだ、(つづく)


123頁

(つづき)あのピアノに。(ふたりの女性は、この失言に気づかないふりをする。

(アリアーヌ) ともかく、あなたの決意が揺るがないのでしたら…

(ヴィオレット) はっきり申し上げますが、ほかにどうしようもないんです。

(アリアーヌ) 私の周りでもそのことを話してみますわ。それに、もう或る当てがありそうな気がしています。

(ヴィオレット) どうもありがとうございます。ご親切ですわ。

(アリアーヌ、ヴィオレットに紅茶茶碗を差し出して。) お茶が濃すぎなければいいのですが。すこし水を足せますよ。

(ヴィオレット) ちょうどいいです。どうも。

(アリアーヌ) ねえ、あなたのほうは、不眠だと言うのだから、ごく薄くしたお茶をあげるわ。そのうち、お茶の代わりに… 例えばココアにするのがいいわね。

(ジェローム) 何というアイデアだ!

(アリアーヌ) オランダのトレードマークのものが最高よ。請け合うわ。

(ジェローム) お茶はぼくの眠りの妨げになったことはない。


















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