田中角栄氏が住んだ「目白御殿」の年始は、かつての東京でちょっとした名物だった。政財界や官僚など、総勢千人近くがあいさつに来る。木遣(きや)り歌が披露され、料理がふるまわれる。新潟の貧しい生まれから首相に上り詰めた「今太閤」の栄華を象徴する光景だった
▼建物は、進駐軍の将校が使っていた洋館で、手吹きガラスの照明などで飾られていたそうだ。角栄氏が住み始めたのは50年代半ば。後には、故郷のニシキゴイを庭の池に泳がせるようになった
▼角栄氏が朝6時に起き、背広に着替えて別館へ行くと、数十組の陳情団が待ちかまえている。それが日常だった。各組5分程度で話を聞くと「ああ、わかった」。目の前で省庁幹部に電話する。何事も即決だった
▼盟友だった大平正芳氏は、番記者たちに見つからぬように塀を乗り越えて邸内に侵入したことがある。持参した菓子箱の中には500万円の札束。角栄氏から閣僚人事の了解をとりつけるためだった
▼権力と人脈と金が集中する。政治裏面史の証人だった目白邸が、全焼してしまった。娘の真紀子氏が「仏壇の線香を消し忘れた」と語っている。悔やんでも悔やみきれぬ思いだろう
▼田中政治とは、未来を信じられた高度成長期の産物と言える。昭和の政治と言ってもいい。鉄道や道路を張りめぐらせた「光」と、政治をカネまみれにした「影」。その象徴だった目白邸の焼失に、改めて時代の変遷を思う。残照はいよいよわずかとなり、影ばかりが長く伸びる。
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