米カリフォルニア州に住むジェイク・ラーソンさん(101)は6日、フランス北西部ノルマンディーのオマハビーチを訪れた。80年前の早朝、上陸した地だ。
1944年6月6日。史上かつてない規模の上陸作戦は、悪天候で予定より1日遅れていた。当時は21歳。神経が高ぶり、この時点で72時間寝ていなかった。上陸用舟艇から降りるとすぐ、あごまで海水が迫る。ライフルを頭上に掲げながら、浜を目指した。
オマハビーチは特に死傷者が多かった。死体が至る所に転がっていた。時々、水しぶきが上がる。誰かが地雷を踏んだのだ。前を行く仲間の足跡を踏むように心がけ、進んだ。
機関銃が二つの方向から放たれてくる。とっさに、砂岩の小さな塊の後ろに横たわった。防水紙に包まれたたばこを取り出したが、マッチがぬれている。後ろに人の気配を感じ「マッチはあるか」と声をかけた。返事がない。目を向けると、ヘルメットの下にあるはずの頭がなかった。
「今すぐ立ち上がって走れ、と彼の魂に言われている気がした」。一瞬、機関銃の射撃が止まった。銃撃はすぐ再開したが、目標の崖下にたどり着くことができた。
ミネソタ州に生まれた。8人きょうだいの7番目。年齢を偽って15歳で州兵になったのも暮らしが貧しかったからだ。大恐慌期の農村で育った青年は、激戦をくぐり抜けて帰国すると、国家の英雄になった。「米国がヒトラーを欧州から追い出していなければ、今ごろどんな生活を送っていたことか」
第2次世界大戦を経験した人々は米国で「最も偉大な世代」と呼ばれる。なかでも退役軍人は圧倒的な敬意を集める。
ラーソンさんは求められるまま、自分の経験を伝えてきた。孫娘の提案で始めたティックトックで当時の体験を発信し、80万人を超えるフォロワーから「パパ・ジェイク」の名で親しまれている。動画には感謝と「真のヒーローだ」などとたたえるコメントが寄せられる。
80周年の式典への参加に当たっても、退役軍人を支える財団や米航空大手がラーソンさんらのスポンサーになった。ラーソンさんは「本当のヒーローはあの日、命を捧げた若者たちだ」と言う。
ノルマンディー上陸作戦は、米国が覇権国家として国外に積極的に関与し、同盟国を前方拠点として欧州やアジアの安全保障を担う流れを決定づけた。ナチスドイツを駆逐することの正義は自明で、米国民に大きな自信と、国の統合に役立つ「物語」を提供した。
それから80年。世界は岐路に立ち、米国は自らの役割を自問している。(ノルマンディー=下司佳代子)
(いちからわかる!)ノルマンディー上陸作戦とは
■ナチスから欧州(おうしゅう)解放、第2次大戦連合国勝利に導いた
Q ノルマンディー上陸作戦とは何か。
A 1944年6月6日、約16万人の連合軍兵士が英仏海峡(かいきょう)を越え、フランス北西部のノルマンディーを、空と海から強襲(きょうしゅう)した。史上最大の上陸作戦で、米国では「Dデー」の名で人々の記憶(きおく)に刻まれている。
Q 作戦に至る経緯(けいい)は。
A 40年、ドイツ軍の猛攻(もうこう)で英軍がフランスから撤退(てったい)した当時から、連合国は大陸への反攻を模索(もさく)した。日本の真珠湾(しんじゅわん)攻撃を受け、ドイツとイタリアが対米宣戦を布告した41年12月以降、米英は2年以上をかけて計画を練った。
Q 作戦の規模は。
A 作戦には、米英を中心に連合国10カ国以上が参加した。このうち米国、英国、カナダが五つの浜(はま)に上陸した。浜はユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと呼ばれ、全長約80キロにわたる。上陸用の小型船4100隻(せき)と戦闘(せんとう)艦1200隻を含(ふく)む艦艇(かんてい)約7千隻、空爆(くうばく)などで上陸を支援(しえん)する航空機約1万2千機が参加した。
Q どう実行されたのか。
A もともとは5日に実施される予定だったのが、悪天候で1日延期された。未明に空からパラシュートやグライダーの部隊が、早朝に海から歩兵部隊が上陸した。
Q どれほどの犠牲(ぎせい)者を出したのか。
A 連合軍の死傷者は1万300人に及(およ)んだ。最も多くの被害(ひがい)が出たのが米軍が担当したオマハビーチで、死傷者は2400人に上った。映画「史上最大の作戦」「プライベート・ライアン」でも描かれたことで有名だ。
Q 作戦の結果は。
A 第2次世界大戦の連合国勝利の流れを決定づけた。6月末までに連合軍は85万人以上の兵と15万台近い車両を上陸させ、8月にパリを奪還(だっかん)した。侵略(しんりゃく)戦争やホロコースト(ユダヤ人大虐殺〈ぎゃくさつ〉)を実行したナチスドイツから欧州(おうしゅう)を解放する起点となり、連合国側は歴史的成功ととらえてきた。作戦を指揮したアイゼンハワーは戦後、米大統領となった。(下司佳代子)
A 1944年6月6日、約16万人の連合軍兵士が英仏海峡(かいきょう)を越え、フランス北西部のノルマンディーを、空と海から強襲(きょうしゅう)した。史上最大の上陸作戦で、米国では「Dデー」の名で人々の記憶(きおく)に刻まれている。
Q 作戦に至る経緯(けいい)は。
A 40年、ドイツ軍の猛攻(もうこう)で英軍がフランスから撤退(てったい)した当時から、連合国は大陸への反攻を模索(もさく)した。日本の真珠湾(しんじゅわん)攻撃を受け、ドイツとイタリアが対米宣戦を布告した41年12月以降、米英は2年以上をかけて計画を練った。
Q 作戦の規模は。
A 作戦には、米英を中心に連合国10カ国以上が参加した。このうち米国、英国、カナダが五つの浜(はま)に上陸した。浜はユタ、オマハ、ゴールド、ジュノー、ソードと呼ばれ、全長約80キロにわたる。上陸用の小型船4100隻(せき)と戦闘(せんとう)艦1200隻を含(ふく)む艦艇(かんてい)約7千隻、空爆(くうばく)などで上陸を支援(しえん)する航空機約1万2千機が参加した。
Q どう実行されたのか。
A もともとは5日に実施される予定だったのが、悪天候で1日延期された。未明に空からパラシュートやグライダーの部隊が、早朝に海から歩兵部隊が上陸した。
Q どれほどの犠牲(ぎせい)者を出したのか。
A 連合軍の死傷者は1万300人に及(およ)んだ。最も多くの被害(ひがい)が出たのが米軍が担当したオマハビーチで、死傷者は2400人に上った。映画「史上最大の作戦」「プライベート・ライアン」でも描かれたことで有名だ。
Q 作戦の結果は。
A 第2次世界大戦の連合国勝利の流れを決定づけた。6月末までに連合軍は85万人以上の兵と15万台近い車両を上陸させ、8月にパリを奪還(だっかん)した。侵略(しんりゃく)戦争やホロコースト(ユダヤ人大虐殺〈ぎゃくさつ〉)を実行したナチスドイツから欧州(おうしゅう)を解放する起点となり、連合国側は歴史的成功ととらえてきた。作戦を指揮したアイゼンハワーは戦後、米大統領となった。(下司佳代子)
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