俳句は、季節への挨拶。なので俳句は根底に「挨拶」の気持ちがあります。でも知り合いが結婚したとき、子どもさんが生まれたときにはお祝いの句を送る。そして亡くなられたときには追悼の句を送ると、特別な場合もあります。
句集『だだすこ』には、悼○○ という前書きが3カ所あります。
悼三上冬華 扇置く死を安らぎと仰せられ
死してなほ己に厳し秋簾
芋の露ゆらすこの世の遊びかな
冬華さんは、なんどもなんども句会吟行を親しくご一緒した先輩でした。句評の厳しさは定評があり、「命がけで俳句をやっている」とおっしゃっていた言葉を聞いたこともあるくらいです。「扇置く」というのは、暑さもやわらいだので、扇をもう使いませんというニュアンスの秋の季語。「忘れ扇」というのも同様です。生前入院されたときも、絶対に病院名を教えず、亡くなられたあとは「狭い日本で一家にひとつ墓など必要ない」とおっしゃっていたその言葉通りに、共同墓地に入られました。
死が安らぎでもあるという言葉は、生前他の方が亡くなられたときに冬華さんがおっしゃっていたことです。秋風を凜とまとひて逝かれけり という句も作り、「童子」には発表しましたが、句集をまとめる際には、はずしました。ちょっとそのまますぎるという感じ。冬華さんは『松前帰る』という句集を遺してらっしゃいます。
悼辻由美 ちちろ虫絶えて苦言の懐かしく
ちちろ虫テレビもいらぬ灯もいらぬ 辻由美 (句集『ちちろ虫』) という代表句のある由美さんも、句評だけではなく、誰にもへつらうことのない堂々とした方でした。某句会で、某さんとケンカになったとか、逸話がたくさん残っています。句会で近くに座ると、あれこれ指図をされるので、私など敬遠して離れて座ったりしたものです。そんなことも懐かしい。ちちろ虫というのは、コオロギのこと。「虫絶える」は秋の虫の声が聞こえなくなったという冬の季語です。
そして、
悼後藤竜二先生 終生を熱く青くと炭継げり
生前「先生」とつけてはいけないとおっしゃってらした方ですが、句集は児童文学以外の方が多く見るものなので、あえてつけさせていただきました。季語というのは、ある種「象徴」でもあり、この句の「炭を継ぐ」という季語は、まさに、「児童文学の火」、ご自身が立ち上げた「季節風」の火を継ぎ続けてらしたことへの敬意をこめています。亡くなられたのは7月なので、普通はその季節に追悼句も作りますが、お別れの会が冬に行われたので、その時期に作りました。たくさんいただいたお手紙の中に、この句が好きという方もいらして、嬉しかったです。
虚子は、子規の死に際し、
子規逝くや17日の月明に 虚子 という句を作っています。
または、友人夏目漱石の猫の死を聞いて、
ワガハイノカイミョウモナキススキカナ 虚子
という電報を打ちました。これも立派な追悼句。
おとなりの畑。菜虫がいます。
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『だだすこ』を読んでくださった方から(俳句関係じゃなく)、句の背後を知りたいという感想もいただきました。つまりこの追悼句のときのような? 句会では作者が自句自解をすると、「つまらない」と言われますが、ここではそれもありかなと思い、ときどき『だだすこ』の句を取り上げて、句ができたときのことなどを書くのもいいかなと思っています。