4月27日、立命館アカデミックセンター おとなの学び舎2018 「都市の在り方ー大阪の曲がり角」(講師:木津川計さん)第1回「大阪遷都論と大阪弁の運命」を受講しました。講義の内容は以下の通りです。
木津川さんは、司馬遼太郎の作品を読んで多くの知識を得たそうです。『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『坂の上の雲』を読んで、幕末から明治を良く知りました。司馬は明治の基礎は明治10年までに出来上がってしまったとしています。西南戦争が明治10年、翌11年に官の代表の大久保利通が暗殺さました。
維新の立役者・大久保利通は「大阪遷都論」を主張したそうです。しかし、公卿勢力の反対に加え、前島密の反対論(大阪の江戸に及ばない理由六カ条)により大久保の願うようには進展しませんでした。慶応4年9月8日に元号が明治に変り、翌2年3月28日に明治天皇が東京に着かれました。また、諸官庁も京都から東京に移り、事実上の遷都がなされました。
急速に近代国家づくりを進めるためには、言語の統一を図らなければなりませんでした。日本では多様な方言が使われていました。百姓や町人の自由往来は通行手形がなければ許されませんでした。そのために藩と藩との境が言葉の壁になり、互いに交わることができないまま多様な方言として定着しました。近代国家は通行の自由が必要で、東京弁(東京の山の手の言葉)が標準語となりました。東京弁が標準語にされていく過程で、言葉のヒエラルキーが形成され、方言を見下す風潮が強まりました。東京は、東北地方を日本の奴隷地帯、あるいは労働力の供給地とみなしていました。中央政府の都市から眺めて、東北の文化は果つるところされました。
もし、大久保利通の大阪遷都論が実現していたら、大阪弁が標準語になっていました。
東京弁に対峙する大阪弁ですが、大阪弁に対する評価は近年低下してきました。大阪は「がめつい」「どケチ」「ケバイ」「おもろい」というとらえ方が広がり、「ヨシモト、タコ焼き、タイガース」の大阪観となり大阪弁の値打ちが下がってきました。根底には大阪の都市格が低下し続けた60年代高度成長以降、大阪が発信してきた情報に大きく影響されています。