11月28日、立命館大阪キャンパスで、立命館プロムナードセミナー「大阪・京都文化講座『大阪・京都の風土と景観』」の7回目を受講しました。「大阪におけるごみ問題の近現代」と題して、大阪大学文学研究科・助教の波江彰彦さんが講義しました。概要は以下の通りです。
Ⅰ 大阪市のごみ排出・リサイクルの現状
・1人当りごみ排出量 7大都市中最大
・リサイクル率は 7大都市中最低レベル
⇒現在の施策・取り組みにも原因があるが、大阪市のごみ管理がたどって来た経緯も考えられる。
Ⅱ 戦前におけるごみ管理
・直営化、ごみ焼却の実験
1900(明治33)年、「汚物掃除法」制定をきっかけに、大阪市はごみ処理事業を直営化。同年、試験炉を建設してごみ焼却の実験を開始。
・ごみ焼却処理の推進
1916(大正5)年以降、木津川焼却場と寝屋川焼却場を新設・増設。1935(昭和10)年度には、ごみの直接償却処理率は76.3%。
・戦時体制
塵芥報国運動(有価物の徹底回収、塵芥の養豚飼料としての供給、ごみ焼却残灰の堆肥利用)により、1944(昭和19)年にごみ処理事業を全面中止。木津川第一・第二工場は、軍の指示により造船会社に貸与。
Ⅲ 戦後のごみ管理
①ごみ管理の戦後復興期
・ごみ排出・収集
1946(昭和21)年6月にごみ収集作業を再開(混合収集)。収集・運搬フローは戦前を継承(肩引車で各戸収集→空き地・河岸で中継作業→陸路・水路で焼却場や処分地へ)。
・ごみ処理・処分
1948(昭和23)年1月にごみ焼却処理を再開。木津川・寝屋川焼却場を復旧。ごみ・処分方法のメインは埋立処分(柴谷処分地、市内周縁部、戦災跡など)。堆肥としても売却、養豚でも利用。
②経済成長にともなう苦境期(昭和30~40年代)
・ごみ排出・収集
1960(昭和35)年頃からごみ排出量が急増。ごみ収集車にロードパッカー車を導入。ごみの運搬ルートは水路から陸路へ。
・ごみ処理・処分
市内の稠密化により埋立処分地が逼迫。市外へ用地を求める。埋立処分地をめぐるトラブル頻発(環境汚染、住民からの苦情、自治体間の対立など)。
木津川・寝屋川焼却場の老朽化。デ・ロール式焼却炉(スイスの最新式型焼却炉)の導入をめぐる苦労(導入に向けての研究開始から清掃工場完成まで10年弱を要した)。1963(昭和38)年、日本初の全連続式焼却炉(国産炉)を備える清掃工場(住吉工場)が完成。
③ごみ焼却処理体制の確立期(昭和50年代~)
・ごみ焼却施設の建設
1963(昭和38)年~1980(昭和55)年の17年あまりで10の清掃工場を建設。1980年、全量焼却体制を達成(大阪市が宣言)。2001年(平成13)年、11番目の舞洲工場完成。
・最終処分
最終処分場は臨海部・海上埋立へ(南港、北港)。1992(平成4年)、フェニックス計画による処分教への搬入開始。
④ごみ管理システムの転換期(平成~現在)
・ごみ減量・リサイクルの推進
1980年代、大量消費・大量廃棄社会の限界。1990年代以降、全国的にごみ減量・リサイクルが本格化。1995年以降、各種リサイクル法制定。
・ごみ減少局面の到来
2000年以降、ごみ排出量は全国的に減少傾向に。要因はいろいろ(家電リサイクル法の効果、経済活動・消費の落ち込み、消費財の軽量化等)考えられる。ごみ焼却能力に余裕(余剰)が生じ、清掃工場を閉鎖する動きも。
Ⅳ ごみ減量・リサイクル
・大阪市のごみ分別収集
普通ゴミ(可燃・不燃ごみの混合収集)、粗大ごみ(2006年に有料化)、空き缶(1994年)、空きびん(1994年)、金属製の生活用品(1994年)、ペットボトル(1997年)、容器包装プラスチック(2005年)、小物金属類の申込制収集(2011年から施行実施)
・大阪市のリサイクル活動支援
1999(平成11)年、集団回収団体支援制度を開始。2006・2009年、支援内容(奨励金)を充実化。
Ⅴ まとめ
・大阪市におけるごみ管理のこれまで
早期のごみ焼却処理体制の確立により、大量廃棄社会に対処(しかし、近年はオーバースペックに)。ごみ処理システム転換(適正処理からごみ減量・リサイクルへ)の遅れ(高水準の処理能力が転換への努力を遅らせた? 行政や市民に甘えがあった?)。
・大阪市におけるごみ管理のこれから
行政・民間(住民)双方の取り組みに改善・向上の余地あり。他都市を見習えば、行政がやれることはまだある(施設のダウンサイジングや転換、分別収集の見直し、事業系ごみへの厳しい対処など)。集団回収活動の今後には期待がもてそう(「新しい集団回収のかたち」がみられるようになったいま、大都市の強みを生かしたい)。
Ⅰ 大阪市のごみ排出・リサイクルの現状
・1人当りごみ排出量 7大都市中最大
・リサイクル率は 7大都市中最低レベル
⇒現在の施策・取り組みにも原因があるが、大阪市のごみ管理がたどって来た経緯も考えられる。
Ⅱ 戦前におけるごみ管理
・直営化、ごみ焼却の実験
1900(明治33)年、「汚物掃除法」制定をきっかけに、大阪市はごみ処理事業を直営化。同年、試験炉を建設してごみ焼却の実験を開始。
・ごみ焼却処理の推進
1916(大正5)年以降、木津川焼却場と寝屋川焼却場を新設・増設。1935(昭和10)年度には、ごみの直接償却処理率は76.3%。
・戦時体制
塵芥報国運動(有価物の徹底回収、塵芥の養豚飼料としての供給、ごみ焼却残灰の堆肥利用)により、1944(昭和19)年にごみ処理事業を全面中止。木津川第一・第二工場は、軍の指示により造船会社に貸与。
Ⅲ 戦後のごみ管理
①ごみ管理の戦後復興期
・ごみ排出・収集
1946(昭和21)年6月にごみ収集作業を再開(混合収集)。収集・運搬フローは戦前を継承(肩引車で各戸収集→空き地・河岸で中継作業→陸路・水路で焼却場や処分地へ)。
・ごみ処理・処分
1948(昭和23)年1月にごみ焼却処理を再開。木津川・寝屋川焼却場を復旧。ごみ・処分方法のメインは埋立処分(柴谷処分地、市内周縁部、戦災跡など)。堆肥としても売却、養豚でも利用。
②経済成長にともなう苦境期(昭和30~40年代)
・ごみ排出・収集
1960(昭和35)年頃からごみ排出量が急増。ごみ収集車にロードパッカー車を導入。ごみの運搬ルートは水路から陸路へ。
・ごみ処理・処分
市内の稠密化により埋立処分地が逼迫。市外へ用地を求める。埋立処分地をめぐるトラブル頻発(環境汚染、住民からの苦情、自治体間の対立など)。
木津川・寝屋川焼却場の老朽化。デ・ロール式焼却炉(スイスの最新式型焼却炉)の導入をめぐる苦労(導入に向けての研究開始から清掃工場完成まで10年弱を要した)。1963(昭和38)年、日本初の全連続式焼却炉(国産炉)を備える清掃工場(住吉工場)が完成。
③ごみ焼却処理体制の確立期(昭和50年代~)
・ごみ焼却施設の建設
1963(昭和38)年~1980(昭和55)年の17年あまりで10の清掃工場を建設。1980年、全量焼却体制を達成(大阪市が宣言)。2001年(平成13)年、11番目の舞洲工場完成。
・最終処分
最終処分場は臨海部・海上埋立へ(南港、北港)。1992(平成4年)、フェニックス計画による処分教への搬入開始。
④ごみ管理システムの転換期(平成~現在)
・ごみ減量・リサイクルの推進
1980年代、大量消費・大量廃棄社会の限界。1990年代以降、全国的にごみ減量・リサイクルが本格化。1995年以降、各種リサイクル法制定。
・ごみ減少局面の到来
2000年以降、ごみ排出量は全国的に減少傾向に。要因はいろいろ(家電リサイクル法の効果、経済活動・消費の落ち込み、消費財の軽量化等)考えられる。ごみ焼却能力に余裕(余剰)が生じ、清掃工場を閉鎖する動きも。
Ⅳ ごみ減量・リサイクル
・大阪市のごみ分別収集
普通ゴミ(可燃・不燃ごみの混合収集)、粗大ごみ(2006年に有料化)、空き缶(1994年)、空きびん(1994年)、金属製の生活用品(1994年)、ペットボトル(1997年)、容器包装プラスチック(2005年)、小物金属類の申込制収集(2011年から施行実施)
・大阪市のリサイクル活動支援
1999(平成11)年、集団回収団体支援制度を開始。2006・2009年、支援内容(奨励金)を充実化。
Ⅴ まとめ
・大阪市におけるごみ管理のこれまで
早期のごみ焼却処理体制の確立により、大量廃棄社会に対処(しかし、近年はオーバースペックに)。ごみ処理システム転換(適正処理からごみ減量・リサイクルへ)の遅れ(高水準の処理能力が転換への努力を遅らせた? 行政や市民に甘えがあった?)。
・大阪市におけるごみ管理のこれから
行政・民間(住民)双方の取り組みに改善・向上の余地あり。他都市を見習えば、行政がやれることはまだある(施設のダウンサイジングや転換、分別収集の見直し、事業系ごみへの厳しい対処など)。集団回収活動の今後には期待がもてそう(「新しい集団回収のかたち」がみられるようになったいま、大都市の強みを生かしたい)。