米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
幼児から受験生、大人の方いらしてます。
音楽は心の対話ですね。

ピアノを習うということは・・・案内人として・・・

2014-04-09 05:35:55 | おもうこと

過去のblogで山登りに例えて書いたことがあるのですが、ピアノ教師に限らず、指導者というのは案内人なのだと思います。



寄り添って、道案内をする。



おそらく、ピアノの指導に限らず、おおかたのものは同じようなことが言えるのではないでしょうか?



野球、テニス、書道、空手、弓道・・・挙げていたらキリがないですが・・・



春・・・



まっさらな子供たちがたくさんやってきます。



これから、一緒にいろんなものを見つけに行く旅が始まる。



とも、言えるんです。



小さな子たちの、リトミックや幼児グループレッスンで、音楽体験、リズムや音感をつけることをはじめとするソルフェージュ指導にあたって、皆さんによく説明するたとえ話。



畑の種まきをする前に、畑の「土」をよく耕しましょう。



と。。



「土づくり」が出来てない、やせた土地に、いくら種をまいても育ちませんよね。



よく耕し、程よい栄養や光、水を与えなければ、種が芽をだし、育ち、花が咲き、実が生って収穫し、また次の世代を作る。。ということは難しくなりますし、逆に言えばそういうことをちゃんとすることで、美しい花を次々咲かせたり、美味しい実を収穫することができるのです。



さて、山登りに例えた場合。



それはより具体的に、自分の力で歩いて、きれいな花や景色を探しに行く旅でもあります。



初めは自分が立っている、ふもとの平らなところで、身の回りの景色や咲いている花を探したり、摘んでみたり。



教師は水先案内人として寄り添い、この花は本当にきれいだね。 



よく見ると花びらはこうだよ。 



すぐ横にこんな花も咲いているけど、違う色もきれいだね。 



などと話しかけ、一緒に感動したり喜んだり。 



そんな役割でしょうか?



もうちょっと勇気を出して、あそこにある湖まで行って、いろんなステキなものを探してみよう。



と、少し先の方も示してみるかも知れません。



そうやって、少しずつ高い山をめざし、そこにしか咲いていない花を手に取ってみたり、そこでしか見えない景色を眺め感じてもらう案内をします。



ただし。。



その為には、それなりの体力が必要です。



日々のトレーニングも積んでいなければ、遠出をしたり、山に登ったり、時には急な坂や崖、岩場を上り切るのは困難でしょう。



その為には体力だけでなく知力も必要でしょうし、経験を積んでいかなければ乗り越えられないことに直面するかもしれません。



体力や知力とは、すなわち、テクニックであり多少の楽曲分析できる程度の音楽理論であったり、ソルフェージュ力であったり、、、
そういった基礎的な音楽力は、曲の難易度が進むにつれて同時進行で力をつけてゆくのが良いでしょう。

非常に難しい本を読むのに、文字の読み方だけ知っていても読みこなせないのと同じです。


そして感動するしなやかな心の状態がなければ、せっかく体力をつけて登ったのに、美しい花や素晴らしい景色を目にしたとしても、何の感動や喜びもなく終わってしまうことになります。




体力や知力ばかりでなく、感動するしなやかな感受性がなければ、本当の意味で曲を弾きこなしたことにはなりません。



そうやって、難易度の高い曲を弾けるようになれば、自力で小高い山に登ってみたり、もっと上を目指すことにもなるでしょう。



でも、いつもいつもエベレストやマッターホルンを目指すことはないのです。



勉強が忙しくなってきたりしたとき、少し頭を休めて、近くのきれいな景色を眺めたり、池に浮かぶ睡蓮や水面の光の移ろいを楽しんだり、小さな山に登ったり。。



そんな楽しみが出来るのも、高い山に登った経験のある人にこそ、深く味わえるものもあるでしょう。



私としては、そういうことが楽しめる人たちを育てたいなぁ・・と常々(つねづね)思っているのです。



人の心は、表層的な日々の事の下に、奥深い世界を持っていて、無意識のうちにそことつながっています。



例えば、夢を見ること。。



不思議ですよね。



何であんな夢を見たんだろうと、現実生活ではあり得ないような経験を、心の中ではしています。



眠っている間に、現実から解き放たれ、深い世界とつながっているところが浮上してきます。



私は専門家ではないのですが、おそらく日常生活の中にだって、そういう「隙間」や「ぽっかりとした穴」があって、心に栄養をもたらしてくれたり、時には自分でも不可解なことをしてみたり、たまーには不思議体験をすることもあるかもしれません。



ここでは詳しく論じませんが、体に良い「栄養」を与えてあげるように「心の栄養」も必要です。



絵本などもいいですよね。



そして自然の中に身を置くことは、本当に素晴らしいことなのだと思います。



それが音楽で言えば、先ほど言った、ちょっと近くの小高い山や、川や、そういったもので例えられる、「小品」



そういったもので、心の中の世界を広げ、自由に羽ばたき、遊び・・・また良い日常の生活者となる。



よく、勉強が忙しいから、と言われますが、本当はこういう楽しみ方が出来る人は、逆によく勉強ができる人でもあるのです。



、、、またピアノ?!



と言われる塾の先生があるようですが、この事が邪魔になって勉強が出来なかった人を過去にみたことはありません。



良く書きますが、東大京大のピアノ率は高いのです。



もちろん、東大京大の人たちだけが賢いなんて、全く思っていませんが、体の栄養ばかりでなく心の栄養を充分に取っている・・・と言えるのではないかと思います。



山登りは、自分の力で登らなければ意味がありません。



ヘリコプターでちょちょっと登って景色を見てきても、ダメんです。



少なくとも、またあの山の景色を観よう、花を摘んで来ようと思ったら、その都度チャーターしなければいけないし、本当の意味で景色を味わったり、花を愛でることにはならない。



しっかりと体と心を育て、いつでも心の中の素晴らしい景色と出会ったり、花を愛でたり・・・そうして豊かな人になることで、現実生活の中で、いろんな工夫をして力強く生きてゆける人になるのでは・・・と、思っているのです。



如何でしょうか?



今日のたとえ話。



分かっていただければ幸いです~







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