『我が家生まれの(ひよ)ちゃんが庭の木にすっくと立つ』
どうかヒヨちゃん、先輩のミーちゃんを探してきておくれ!
先月だったか、新聞の折り込み広告の中にキリスト教の教会の復活祭(31日)に
いらして下さいというチラシが目についた。協会のチラシは一寸珍しいが、これを
見てふと小学校の時を思い出した。
お互い腕白小僧だった近所の同級生に、ワインとパンが食べられるよと誘われて
近所の小さな教会に初めて足を踏み入れたものだ。やはり近所にあった大きくて
きれいなサレジオ教会には行ったことがあるが、それは遊びの場としてだった。
初めて入った儀式の最中のそこは小さく薄暗く、しかし荘厳な感じだった。
何か圧倒される感じがして小さくなっていた。やがて我々にも回って来た。
ワインはイエス様の血です、パンは肉なのです。味は忘れてしまったが、神父さんに
何やらやさしく話しかけられて、ほうほうの体で帰って来た記憶がある。
先日のチラシの文言にはこんなことがあった。キリスト教の死生観を何となく表して
いるのだろう。
「私たちはいつかは死ぬのです。しかしそれをいつも意識している人は少ない。
しかし死にたくない、考えたくないそれは先のこととになってほしいと思っているので
しょう。それでも我々のすぐ隣には危険が待ち受けているのです。この一日を無事に
過ごせたのは奇跡なのです。人は誰でも本能的に生きたいと思うものです。
ではなぜ人間は死ぬのでしょうか。
それは人が神に背いたからとあり、神とつながることによって人は生きていけるのです。
しかし死んだら終わりではありません。からだが死んだ後にも続く命があります。
神はキリストを蘇らせて、我々もそのキリストのように蘇り、死に勝利し、永遠の命が
得られるのですと教えています」と大体こんな趣旨のことが書いてありました。
何となくキリスト教の生への感覚が分かるような分からないような、不可思議な気持ちが
しました。しかし今になれば一種独特な温かみややさしさを感じました。
又、血と肉を求めて教会へ行ってみようかしら。
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