2001年12月17日・18日
今回は小屋泊まりなので早朝に出発。登山口に11時に着いた。途中、父が毎年、講を欠かさなかったと言う高尾山を右に見た。交通の便も発達していなかった当時 ❝何故わざわざ❞ と疑問は残るが私の名前に残された一字に父の信仰の深さが読み取れる。
都留市より三つ峠山を望む(三つ峠とは峠が三つ有るのではなく三つのピーク(開運山・御巣鷹山・木無山)の集まりで古くは「三嶺」と言われていた) 今は簡単に登れる登山道も有る様だが私達は敢えて古道を歩く事にした。
11時30分出発。雲一つなく晴れ渡り風もなく天候は申し分ない。かれこれ30分歩いただろうか。道はかなりの急坂だ。達磨石迄こんなに掛かるのだろうか? 足跡は有るが道も切り株も真新しい。何かオカシイと思いながら植林地の中の九十九折れを上へ上へと目指した。前方で作業員がお弁当を広げていたので尋ねると三つ峠の登山道は橋を渡って直ぐ右との事だった。此処は作業道でこのまま行っても三つ峠には着かないと言う。なんて事!
「新しい橋まで戻るんだよ」と言う声を背にちょっと格好悪い形でその場を引き返す事に。55分も無駄な時間を費やしてしまったが作業員に出会わなかったらどうなっていた事か。
出発は12時15分になってしまった。登山道ともつかぬ道を一登りした所に梵字の刻まれた達磨石があった。一旦、林道に出て直ぐ樹林帯に入ると、のっけからの急登で5分と経たない内に息切れを起こすほどだ。山頂まで高度差836m、覚悟はしていたが寝不足と先ほどのロスが大分応えている。
(1) (2)
(1)は達磨石から少し上がった所、ここに登山口を示す看板が (2)は大曲り
此処も昔は信仰登山として栄えたのだろう。道の両脇の苔むした石積みがそれを物語る。何度かのターンを繰り返してベンチを見つけた私。「休めだってよ」とさっさとリュックを置き座り込んだ。先ほど迄、谷間に響いていたチェンソーの音も遠のき静けさの中、無駄足だった植林帯では全く聞こえていなかった野鳥の澄んだ声が今は賑やかに山にコダマしている。
戦後、日本の政府は利益優先で自然林を伐採し杉やヒノキを奨励した。結果色々な意味でバランスが保たれていた自然が壊され山崩れや水不足と言うツケを受ける様になってしまった。近年、漸く目が覚め論議が交わされる様になっては来たが実際には一歩も踏み出していないのが実情ではないだろうか。
再び尾根上の林の中を急登していく。道はしっかりしているが相変わらず急登の連続だ。股除き、大曲り、馬返しを歩く道中、行く手に富士山が見え隠れしている。黙々と歩く私に「隣の山と目の高さが同じになって来たぞ」と雄さんが励ました。
時折、歩みを止め乍ら呼吸を整え歩いて行くと表情豊かな石仏群が散在する八十八大師の小広場に着いた。標高は既に1600m。此処からは三つ峠本峰に突き上げる岸壁の下をほぼ水平にトラバースして行けばいいだけだ。
この石仏群八十八体は文久期の頃、近隣の信者によって寄進されたものだそう。
八十八大師のベンチで休憩
冷たい空気が淀む谷あい。まるで冷蔵庫の中に入った様な寒さだ。そこで一度は見てみたかったシモバシラをついに見つけた。
様々な形で枯れ茎に花を咲かせるシモバシラ。周辺の枯葉を取り除くだけで割れてしまいそうな程それは脆いガラス細工だった。
近くに茶店跡が在ったが跡と言うのは漂う空気にも寂しさが有るものだ。此処からは霊峰富士が美しい。嘗て信仰で登った人たちはお茶を飲みお団子を頂きながら目の前の富士山を眺めた事だろう。
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