この時期、いろは坂を抜けるコースは渋滞でどうにもならないだろうと、みどり市経由で向かう事に。どうせこちらを通るなら前から気になっていた忠治の墓を訪れるのも良いかもしれないと養寿寺を目指します。
養寿寺
この立派な笠松を忠治も愛でたでしょうか
ここは長岡一族の菩提寺なのか長岡姓の墓が目立ちます
大戸の処刑場に3日間晒された首を妾のお菊が持ち帰りここ養寿寺に埋めたと言われています。強きをくじき弱きを助ける。侠客の神髄を貫いた忠治の心意気は新国劇の代表作となり一躍その名を世に広めました。当時の代官・簡堂は忠治が飢饉の時に民衆を救ったと言うのに自分は何もできなかったと書き残したそうですが、この覚書は忠治を知る上で、かなり信用が置ける貴重な資料とされているのだとか。
又、萩原朔太郎は❝氷島❞に「国定忠治の墓」と言う詩を載せています。・・・路傍の笹風に吹かれて無頼の眠りたる墓は立てり 朔太郎も忠治の心意気に何か感じるものがあったのでしょうか。
忠治の墓石を煎じて飲むと賭け事に強くなると言う噂が広まり墓石を削って持ち帰る人が現れ長岡院法誉花楽虚子と刻まれた戒名も今では読み取れないほど薄れておりました。
今回、資料館を楽しみにしていたのですが草刈りをしていた住職さんに尋ねましたところ現在は閉館しているとの事でした。忠治モドキの人達の訪問を拒絶しての事なのでしょうか。
忠治の墓を後に日光の神橋を右に見て
杉並木を過ぎ
嘗て登った日光連山を懐かしみ私達は一路、福島へと向かいます。
コメント欄、お休みです。
国定忠治といえば赤城山が頭に浮かぶのですが、
養寿寺は赤城山からかなり離れていて、なぜここにと思つたら、
忠治の生まれ故郷国定村があったところなのですね。
41歳という若さで処刑されたというのも初めて知りました。
墓石が削り取られるのは、森の石松の墓と同じで、
博打運の強さにあやかろうという人が多いのですねぇ。
忠治の墓から北に赤城山が望めます。
忠治が心の拠り所にした鍋割山は私の家からはやや右になりますが、ここからは左側にズレます。
その鍋割山の右方に忠治の隠れ岩屋が今でも残っているのですよ。今は東日本の震災で立ち入り禁止になっております。
私は震災前、大滝を観に行った帰りに寄りましたが梯子を伝って降りると中は結構な広さでした。
森の石松の墓石も同じく元の形状を留めてはいないのですね。
墓めぐりと言うのも変な話ですが機会が有れば行ってみたいものです。
読み返しておりましたら代官の後の文がどうしたのか尻切れトンボになっており言おうとした事が伝わっておりませんでしたね。
今、書き加えておきました。