たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

閑話休題 6月の庭の花

2019年06月29日 | 

 

戴いた時はたった一株だった多肉植物(一株でなく一玉と言うのかな?)エケべリア

「おまえさん、多肉系と言うより多産系じゃないの?」

と言う程一度に6株も子供を産みました

この分で行くとこれからどうなって行くのでしょう

 

キリンソウも繁殖力旺盛植物です

放って置けば株が倍倍に増えてしまいます

人間界もこうあってくれたら年金問題で悩む事も無いと思うのですが

少子化を推進した日本は今になって危機感を感じ始めた様です

国のご都合主義が生んだ負の政策ですね

 

5年目にして漸く花を持ったサボテンの花・エキノプシスの交配種です

茎(?)をグイグイグイ~っと伸ばして先端に一輪 優しそうな色で開花しました

あまり期待もせず放りっぱなしにしていたサボテンでしたので一寸ビックリ

母体が小さすぎて何だかヒョウキンでも有りました

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            (うどん&天麩羅)                                 (揚げ出し豆腐)

   

    (煮込みうどん)                             (バジリコ(庭の紫蘇)スパゲッティ―)

   

      (採れ立ての茄子を使って野菜炒め)            (お得意のカリカリでもっちりのお好み焼き)

私が立つのが苦しい時に雄さんが作ってくれたお料理(気が付いた時に写した一部)です

坐骨神経痛の方は完全では有りませんが殆ど痛みは感じなくなりましたが

膝の痛みが治まらず昨日、病院でレントゲン検査をしましたら何と変形性膝関節症

で、これから一週間おきにヒアルロン注射を続けなくてはならなくなりました

今までもひざ痛が無かったわけでは有りませんが足を着いた時に

頭の芯まで響く様な痛みを 味わう事は有りませんでした

雄さんにはもう少しお世話にならないといけなそうです

情けないですね

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リリーさん   新聞店でのサービス品ですので名前は知りません

カラー

 

 ジャコウソウも増々領域を広げて参りました

さつき・大杯の大刈り込み   寄せ植えをしてもう30年が経ちました

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坂の街・尾道(4/18-3)

2019年06月27日 | 

「続き」

・・・・・・・・・・・・・・

しまなみ海道から尾道に入り駅前の大きな駐車場に車を納める迄の大変だった事

と言うのはナビに駅を設定し指示に従って走っているにも関わらず

鄙びた山間部に行ってしまったり住宅街の路地を走らされたり

かと思えば元の道に戻されたり、こんな事は旅が始まって初めての事です

後で聞いた話に寄れば「しまなみから尾道に入った直後がややこしいんですよね」なのだと 

そんな事で疲れ果ててしまった私達は完全に観光意欲をなくしてしまいました

とりあえず線路を横切ってお目当てはガウディハウス

線路を渡り切った所で丁度やってきたご婦人にガウディハウスを尋ねましたところ

「お寺巡りがいいですよ」と言うばかりで教えてくれた道は全く逆方向でした

この時点でご婦人の頭の中には寺が・・・ 私達はその寺の方向に目的のハウスは在るのだろう・・・と

ちょうど下校時間でした 元気な声が飛び交っています

上にお城が見えますね、あの城は一体??

こんな物が在りました  説明版によりますと                ↑

「江戸時代の終わり頃 みなと尾道の発展によって千光寺山の中腹にまでも住宅地は広がっていきましたが

坂のある暮らしは様々な困難が伴います。 水の確保もその一つで井戸水を生活用水として

多くの人が利用できる様に「二階井戸」として工夫され大切に守られてきました

上水道が発達した今では殆ど使われなくなりましたが当時の暮らしを知る貴重な文化遺産です」

何も知らずに行き当たりばったりの参詣でしたが、後で調べてみますと結構、由緒正しい寺だった様です

ただ腑に落ちないのが

入口が違ったのかこの門が見られなかった事でした

解っていれば探したのでしょうが下調べして行かなかったばっかりに

ここを潜って延命を祈願する事は叶わなかった訳です(笑)

この門は「大石門」と言い裏山の日輪山で切り出した36枚の花崗岩で作ったものなのだそうです

 読んでみますと元々は天台宗の寺として始まり室町時代に現在の浄土宗に改宗されたのだとか

そこへ、やって来た親子

雄さんも私も話を聞くまでは女性の仲良し同士で観光しているものとばかり思っていたのですが

何と親子で有ったとは(後に写真あり)・・・

しかもてっきり女性だと思っていたもう一人の人物が男性で有った事に二度ビックリ

大学生である息子さんの下宿先を尋ねたついでに

こうして周辺を案内して貰っているのだと言うホットな親子だったのです

持参していた周辺地図を「お使い下さい」と言って下さったので遠慮なく戴き

親子とは此処で別れ一端線路沿いの道に戻ります

 尾道の裏側の駅は、こんな感じ

ここを通り過ぎて親子が教えてくれた肉屋さんの角を右折しますと

右上に目的の建造物は有りました

   

これがガウディハウスです

昭和8年に和泉家別邸として一人の大工さんが3年かけて造りあげた建物で広さは僅か10坪

三角形と言う形状の敷地に張り付く様に建てられておりました

跡継ぎも無く25年間空き家のままだった為に老朽化し解体の危機にあった所を

それでは忍びないとプロジェクトチームが保存の為に立ち上がったと言う事で

現在は一部、青いシートが掛けられています

と言う事で内部を観る事は出来ませんでしたが外観だけでも一見の価値は在った様に思います

この辺り、大正末期から昭和にかけて、この様にハイカラな家が建てる事が流行った様ですね

右の写真、先ほどの親子です (掲載、了承済み)

どうです?親子に見えますか?男の子に見えますか?

尾道と言えばラーメンですね

あまり宛にならなかった最初の御婦人が教えて下さったサッパリ系とコッテリ系のお店を探して

尾道本通りに入ります

教えて頂いたコッテリ系のお店はお休み、サッパリ系のお店は見つける事が出来ませんでした

 そして海沿いに在ったラーメン店の暖簾を潜りますと 「いらっしゃいませ~」 

全員が若いスタッフばかりのお店でした

こういう時にはスタンダードな醤油ラーメンに限ります

昔の銭湯の様ですね

この景色  ヨーロッパの家の連なりに良く似てる!

   

 林芙美子さんの放浪記の記念碑を見ました

林芙美子さん自身の放浪生活の体験を書き綴った名作で森光子さんの代表作でもありましたよね

結局、私達は尾道で有意義な時間が過ごせたのでしょうか

迷路の様な坂道をただ彷徨っていただけの様な気もします

疲れました!

桟橋の見えるプチ公園のベンチに腰を下ろし、しばしボーッと海を眺めていました

自転車を押す学生が次々にやって来ます、そして連絡船に乗り込んで行きます

対岸の向島とは僅か200mの距離なのだとか

あの子達は毎日こうして通っているんですね

目の前のベンチには小学生の物と思われる画板が二つ

風にさらわれない様、重しを置いて置き去りにされています

そんな尾道の日常を目の隅に置きながら何故か頭は空っぽでした

18時27分 本日の露天宿は笠岡の道の駅「笠岡米ファーム」です

丁度、大きな太陽が沈む頃でした

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(4/18-2) 生口島 耕三氏コレクション~因島 村上水軍  人気絶頂「はっさく大福」

2019年06月25日 | 

続き

耕三寺と道を挟んで村上氏が蒐集した美術品を中心に常設展示している金剛館が有ります

昭和の画壇に名を連ねる日本画家がずらり

全てを載せるには数が多すぎますので4枚に絞りました

 「ほたる」  鏑木清方

          

                                                          「山路の春」   川合玉堂

 

 「鮮魚」    竹内栖鳳

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重要文化財、重要美術品に指定された仏像がズラリと並んでおりましたが

こちらも全てを載せるには数が多すぎました

 宝冠阿弥陀如来坐像  鎌倉時代 「快慶」

    

          阿弥陀如来立像   鎌倉時代                  釈迦如来立像  平安時代初期

   

増長天立像  室町時代

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耕三寺に度肝を抜かれ金剛館の作品群に感激し

その興奮が冷めやらぬまま次の島、因島に向かいます

因島のお楽しみは はっさく大福

この情報は前夜、越後美人さんから戴きました

 雄さんが立ち尽くしています

その目の先には

   

ガーン 何と言う事でしょう   時刻は未だ11時45分だと言うのに

こんな所にお店が在るの?と言うほど山の中

諦めきれずに店内に入りましたが完売してしまったのですから有るはずが有りませんよねぇ

仕方なく姪の連れ合いが好きなイチジクのジャムを購入し車に戻りましたが足取りは重く・・・

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ところがです

私達と入れ代わりに四国旅行に出かけた姪家族の持って来てくれた土産の中に

何と はっさく大福が 

   

金曜日、数限定で売っているお店が高崎に有る事を聞き付け予約して置いたとの事

甘酸っぱい八朔と白あんの絶妙なコンビネーション  有り難く味わいました

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此の島にも村上水軍の歴史が残されておりました

 

        

 

 

 

 

上の説明は俄かに信じがたい部分も有りますが

戦国時代末期、織田と毛利の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられました

子孫を残すための師清の策略か兄弟同士の争いなのか解りませんが

村上家はここで三家に分裂し因島(顕長)、能島(義顕)は毛利方へ  

来島(顕忠)は織田、豊臣方へと別れたのです

注意して見ますと三家はみな「上」を掲げておりますが

上と言う字に違いが有る事に気付かされます 

(残念ながら此処は休館日でしたので館内の資料を観る事は出来ませんでした)

資料館から眼下に見下ろす寺は村上水軍(顕長)の菩提寺金蓮寺

屋根の脇の木が茂っている辺りに墓がある様です

疲れが溜まって来ると、人間 横着になりますね

「まっ、いっか」と言いながら私達は尾道へと向かいました

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しまなみ海道・生口島(4/18) 耕三寺

2019年06月23日 | 

振り返ってみればアッと言う間の四国旅でした

素晴らしい自然に触れる事で美しい日本を改めて感じた四国はまた歴史の宝庫でも有りました

楽しかった数々の思い出を胸に生口島に入ればここはもう広島県です

 

当初は大三島から生口島を通過して因島に行く予定でしたが

前夜、イケリンさんが薦めて下さった思いがけない情報の耕三寺に計画を変更です

   

 

と言う事で耕三寺にやって参りました

写真(1)のお城は不明ですが(2)の洋館は当時、実業家だった金本福松が昭和2年

母親の為に建てた和洋複合の潮声閣だそうです

内部見学は出来ませんでしたが写真では豪華絢爛、床の間の壁は黄金で飾られており

どこか秀吉を感じさせる物が有りました

母親が昭和9年に没した翌年、金本は母の菩提を弔う為、出家して僧侶となり

名を福松から「耕三」に改め、同年より母への感謝の意を込めて30年かけて耕三寺が完成いたしました

本堂・阿弥陀堂は宇治の平等院鳳凰堂を模して造られたのだそうです

本堂前の大礼檀は総大理石で周囲に巡らせた池には蓮が植えられていましたので

開花した時には極楽浄土の様な雰囲気を醸すのでしょうね

 

見て下さい  この煌びやかさ

好みは分かれそうですが、でも凄いとしか言いようが・・・

孝養門

この門を見て「おや?」と思ったのは私だけではないでしょう

そう、日光の陽明門そっくりですよね

イケリンさんが情報を下さった「西の日光」とはこの事だったのですね

 

 

   

 

 

   

とてもとても載せきれませんが門は昭和を代表する彫刻家の作品で埋め尽くされております

この五重塔は奈良県の室生寺の五重塔を模したものだそうです

老いて何処にも出かけられない母親の為に

日本全国の建物を此の地に再現した巨大なジオラマの様にも感じとれてしまいました

この入口は千仏洞地獄峡への入り口です

「富士山の溶岩と浅間の焼石で作り上げた 約350m続く地下霊場です

中には1000体に及ぶ仏像が安置されております、暗いですから頭上に注意して下さいね」

係り員の説明を受け、いざ入洞

入口の上に見えます多宝塔は滋賀県石峙の塔を元に造られたそうです

    

 

   

 洞窟内に、この様な罪を犯すとこうした罰を受けますよと言うこんな地獄絵が並んでおります

(その内の4作ですが)

幾つか当て嵌まるのも有ったりして・・・私は苦笑させられるのでした

 

 

とにかく夥しい数の仏像です

高崎の観音山にも洞窟観音が有りますが、とてもとても及ばない規模でした 

そして洞窟を出た所に待っていたのは高さ15メートルの救世観音大尊像

この像は奈良県法隆寺の夢殿の御本尊、秘仏救世観音を手本にしたそうです

像の右側に廻りましたら、ちょうど頭に太陽を被り後光が差している様に見えましたので

アングルを決めて写してみたのですが失敗でした 私の罪(↑)はどうやらお許しなされぬらしい・・・

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四国旅(4/17-3) 日本の総鎮守「大山祗神社」

2019年06月22日 | 

続き

 

 

大山祗神社にやって参りました

全国に一万社余りの分社を持つ日本の総鎮守です

日本の三代神社の一つ(伊勢神宮・出雲神社・大山祗神社)が、ここ大三島に鎮座している事に

先ず不思議を感じ案内書で調べてみました

「創建は約2600年前、神武天皇が東征する以前に御祭神で有る大山積大神の子孫「小千命」が

先駆者として伊予二名国(四国)に渡り瀬戸内海の治安維持を担当

芸予海峡の要衝で有る御島(大三島)を神域と定めて鎭祭したのが始まりと伝えられている」

 

御本殿は宝殿ともいわれ三間社流造、屋根は檜皮葺、外部は丹塗の

規模雄大な社殿で神社建築史上流造りとしては日本の代表作と言われている

元亨二年(1322年)兵火にかかり天寿四年(1378年)に再建されたというが昭和28年に

解体修理を行った際、向拝斗組や内陣に安置されているお素屋床板から

「応永三十四年(1427年)六郎三郎これを造る・・・」という墨書を発見

その頃までの建造で有る事が明らかになった

いずれにしても鎌倉時代末より百年の歳月をかけて御造営されていたことが

古文書より明らかにされている (案内書より)

 

境内に入って何と言っても目を引くのが小千命(おちのみこと)御手植といわれる御神木の大楠でした

樹齢約2600年 根回り28m 今も尚、葉を茂らせ生命力旺盛な姿で鎮座しています

 

この宝篋印塔(重文)は鎌倉時代、河野水軍の将、通信公の孫に当たる一遍上人が

本殿再建の祈りを込めて建立奉納したものだそうです

何の木であったか忘れましたがこれも、どっしりと力強いですね

 

 

ここへ来て宝物館は見逃せませんね  特に国宝館は興奮のしどうしでした

何しろ鎧、兜、刀剣などの国宝(8件)・重文(76件)が所狭しと並んでいるのです

奉納者の中には頼朝、義経、木曽義仲、平重盛、護良親王、大内義孝、山中鹿之助、武蔵坊弁慶・・・・・・・

名前を挙げたらキリがありません

源氏や平氏など多くの武将が武具を奉納し「武運長久」を祈ったのでしょうね

18歳の若さで水軍を率いて大三島を守り抜いた「瀬戸内のジャンヌダルク・鶴姫」の像です

鶴姫は「海と女とヨロイ瀬戸内のジャンヌダルク」という小説で注目された女性で

生い立ちは第31代神官(安用)と女中との間に生まれ、子供の時から男勝りだった鶴姫を

安用は可愛がり武術や兵法を習わせたと言われます

最後は戦死した恋人・越智安成の後を追って自殺したとされていますが

実際の所、実在人物で有ったかどうかは謎の様ですね

その鶴姫の物であろうと言う鎧が国宝館に飾られておりました

今回の旅で登山を計画した鷲ヶ頭山だと思われますが

ここに来て気持ちが優柔不断になり結局、眺めて終わってしまいました

(今日はコメント欄を閉じております)

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